中学生活は30名の仲間と楽しみ切った。
〈いしかわ先生〉はなぜかその中の5名を公立高校への転身を勧めた。
まず、何もしないでクラスでいたら、
私の性格からこのまま一生懸命勉強しないで和光高校へ進んだら、良い成績を取り続ける。
一度、公立高校へ行き勉強で揉まれる方が、後の人生にとって良いと判断してくれた。
同じように〈イナバ君〉〈ホリキリさん〉〈トクマさん〉〈アオキさん〉も、それぞれの理由で、
「青山高校」「新宿高校」と公立高校へ転出をすすめられた。
私は当時、杉並区に住んでいたので「西校」が候補だったが、
私の実力だと真ん中あたりの成績になるだろうと。
「豊多摩高校」ならばトップにいられるということで、
〈いしかわ先生〉に受験校を変えられた。
その通り受験したら、めでたく〈いしかわ先生〉のいう通りになった。
7組のクラス編成を成績順に編成された。
私はE組のメンバーになった。
学校が始まり、早速「硬式野球部」に入部した。受験校の野球部だ、
メンバーは18名しかいかいない。
「中学ではどこを守っていた?」
「サードです」
「ちょうどよかったサードがいないので君に任せた」
いきなり野球部では、ラッキーなスタートになった。
しかし、レギュラーなので練習は過酷だった。
帰宅すると丼飯を食べたら、すぐにバタンキュウだった。
勉強の(べ)のない毎日だった。
中間試験では後ろから数えた方が早い成績だった。
職員室に呼ばれた私は英語担任の〈スケモト先生〉から、
「コンサイスどれほど読み込んでいるのか。一日3時間は単語を覚えないとダメだ!」
と叱られた。
しかし、その時の私は勉強より楽しい野球部活動が中心だった。
もうじき開催される「夏の大会」の方が大事だった。
練習もレギュラーなので、それなりに厳しい練習だった。
マネージャーの〈イトウ君〉が、なんと開幕式の直後、
そのまま神宮球場の開幕第1試合を引き当てた。相手校は都立江戸川高校だ。
当時の東京大会は全校で150校しかいない。
開幕式の直後、一番外側に整列していた我が校は、
〈豊多摩高校、回れ右、そのまま一塁側ベンチへ〉
〈江戸川高校、回れ左、そのまま三塁側ベンチへ〉
〈その他のチームは後ろ向きに、そのまま退場口へ〉
「豊多摩高校、守備練習7分」のアナウンスの元、選手はグランドに飛び出した。
守備についてみるとネット裏は関係者で満席、一塁側観客席も頬満席だ。
グランドは豊多摩校のグランドとは大違い、鏡のようにまっ平だ。
(ここにあの長嶋茂雄が立っていたのだ)
いきなり考えた。
守備練習のノックを打つ先輩も、なぜかあがっているのかノックに力が入る。
ボールは私の股の下をスッとすり抜ける。
2度目も同じ光景だ。
3度目は(ションベン座り)で、なんとかボールを受ける。
こんな感じで試合は始まった。
私は7番サードだ。
結構打順が回ってきた。
「豊多摩高校野球部70年記念誌」によると、その日は4打席2安打の記録がある。
2年生の夏の東京大会は神宮第2球場で対雪谷高校。
今度も抽選運がよく、神宮第2球場での試合になった。
昨年の開会式直後と違って、平穏な雰囲気での試合になった。
私は1番サード、同期の吉田は5番投手で出場。
投手は3年生の田中さんに交代も、2対8で敗戦。
受験進学校のために、私は親父との約束で2年生の夏で野球部を退部したが、
秋の新人戦で吉田の好投で豊多摩はベスト32校のシード校になった。
吉田にチームに戻ってくるように誘われて親父に頭を下げてチームに復帰したが、
みんなが好意的に迎えてくれたのはありがたかった。
キャプテン吉田の意向が伝わっていたのだ。
当時キャプテンだった吉田が、間宮が戻ったので間宮をキャプテンにして、
自分は投手に専念したいと発言。
当然、(出戻りの)私は断ったが、では選挙をやろうとなり少数差で私がキャプテンになった。
吉田の温情に感謝した。
3年生の夏の東京大会はシード校なので3回戦から出場。
立教球場で対専大京王を迎え撃つ事になった。
どうしたことかエースの吉田の乱投で0対15の3回コールド負け。
すごい記録となってしまった。
こうして私の野球部生活は、あっけなく終わった。
さぁ、これからは大学受験生活が始まる。
何も勉強していなくても志望校は一橋大学社会学部だ。
あの、憧れの石原慎太郎の在籍していた大学だ。
「一橋学園」予備校へ合計3年も通うことになった。
いつも模擬試験では「有望コース」「最有望コース」成績を収めたにもかかわらず、
最終的には2浪として慶應義塾大学商学部に入学した。
慶應義塾大学では「硬式野球部」の門を叩くことは無かった。