鎌倉から、こんにちは

「鎌倉発、韓国ソウルまで。」
徒歩の旅を終えて、ずいぶん時が経ちました。
鎌倉の事、徒歩の事、その他の事。
鎌倉から日常のあれこれをお伝えしていきます。
楽しんだ和光学園生活から、一転公立高校へ。何故?

 

 

中学生活は30名の仲間と楽しみ切った。

〈いしかわ先生〉はなぜかその中の5名を公立高校への転身を勧めた。

まず、何もしないでクラスでいたら、

私の性格からこのまま一生懸命勉強しないで和光高校へ進んだら、良い成績を取り続ける。

一度、公立高校へ行き勉強で揉まれる方が、後の人生にとって良いと判断してくれた。

同じように〈イナバ君〉〈ホリキリさん〉〈トクマさん〉〈アオキさん〉も、それぞれの理由で、

「青山高校」「新宿高校」と公立高校へ転出をすすめられた。

 

私は当時、杉並区に住んでいたので「西校」が候補だったが、

私の実力だと真ん中あたりの成績になるだろうと。

「豊多摩高校」ならばトップにいられるということで、

〈いしかわ先生〉に受験校を変えられた。

 

その通り受験したら、めでたく〈いしかわ先生〉のいう通りになった。

7組のクラス編成を成績順に編成された。

私はE組のメンバーになった。

 

学校が始まり、早速「硬式野球部」に入部した。受験校の野球部だ、

メンバーは18名しかいかいない。

「中学ではどこを守っていた?」

「サードです」

「ちょうどよかったサードがいないので君に任せた」

 

 

いきなり野球部では、ラッキーなスタートになった。

しかし、レギュラーなので練習は過酷だった。

帰宅すると丼飯を食べたら、すぐにバタンキュウだった。

勉強の(べ)のない毎日だった。

中間試験では後ろから数えた方が早い成績だった。

職員室に呼ばれた私は英語担任の〈スケモト先生〉から、

「コンサイスどれほど読み込んでいるのか。一日3時間は単語を覚えないとダメだ!」

と叱られた。

 

しかし、その時の私は勉強より楽しい野球部活動が中心だった。

もうじき開催される「夏の大会」の方が大事だった。

 

練習もレギュラーなので、それなりに厳しい練習だった。

 

マネージャーの〈イトウ君〉が、なんと開幕式の直後、

そのまま神宮球場の開幕第1試合を引き当てた。相手校は都立江戸川高校だ。

当時の東京大会は全校で150校しかいない。

 

開幕式の直後、一番外側に整列していた我が校は、

〈豊多摩高校、回れ右、そのまま一塁側ベンチへ〉

〈江戸川高校、回れ左、そのまま三塁側ベンチへ〉

〈その他のチームは後ろ向きに、そのまま退場口へ〉

 

「豊多摩高校、守備練習7分」のアナウンスの元、選手はグランドに飛び出した。

守備についてみるとネット裏は関係者で満席、一塁側観客席も頬満席だ。

 

グランドは豊多摩校のグランドとは大違い、鏡のようにまっ平だ。

ここにあの長嶋茂雄が立っていたのだ)

いきなり考えた。

 

 

守備練習のノックを打つ先輩も、なぜかあがっているのかノックに力が入る。

ボールは私の股の下をスッとすり抜ける。

2度目も同じ光景だ。

3度目は(ションベン座り)で、なんとかボールを受ける。

 

こんな感じで試合は始まった。

 

 

私は7番サードだ。

結構打順が回ってきた。

 

 

「豊多摩高校野球部70年記念誌」によると、その日は4打席2安打の記録がある。

 

 

2年生の夏の東京大会は神宮第2球場で対雪谷高校。

 

今度も抽選運がよく、神宮第2球場での試合になった。

昨年の開会式直後と違って、平穏な雰囲気での試合になった。

 

 

私は1番サード、同期の吉田は5番投手で出場。

投手は3年生の田中さんに交代も、2対8で敗戦。

 

受験進学校のために、私は親父との約束で2年生の夏で野球部を退部したが、

秋の新人戦で吉田の好投で豊多摩はベスト32校のシード校になった。

 

吉田にチームに戻ってくるように誘われて親父に頭を下げてチームに復帰したが、

みんなが好意的に迎えてくれたのはありがたかった。

キャプテン吉田の意向が伝わっていたのだ。

 

当時キャプテンだった吉田が、間宮が戻ったので間宮をキャプテンにして、

自分は投手に専念したいと発言。

当然、(出戻りの)私は断ったが、では選挙をやろうとなり少数差で私がキャプテンになった。

吉田の温情に感謝した。

 

3年生の夏の東京大会はシード校なので3回戦から出場。

立教球場で対専大京王を迎え撃つ事になった。

 

 

どうしたことかエースの吉田の乱投で0対15の3回コールド負け。

すごい記録となってしまった。

 

 

こうして私の野球部生活は、あっけなく終わった。

 

 

さぁ、これからは大学受験生活が始まる。

何も勉強していなくても志望校は一橋大学社会学部だ。

 

あの、憧れの石原慎太郎の在籍していた大学だ。

「一橋学園」予備校へ合計3年も通うことになった。

いつも模擬試験では「有望コース」「最有望コース」成績を収めたにもかかわらず、

最終的には2浪として慶應義塾大学商学部に入学した。

 

慶應義塾大学では「硬式野球部」の門を叩くことは無かった。

 

 

| team-mamiya | from-mamiya「鎌倉の話」 | 17:20 | comments(0) | - | - | - |
まだまだあった和光中学の思い出の地。楽しさ一覧。

 

【修学旅行の思い出】

 

 

あのころの和光中学校の修学旅行は東北旅行だった。

記憶にあるのは中尊寺を中心に毛越寺などを巡った。

上野発の夜行列車だった。

30人のクラスなので、団体専用ではなかったので、夜が更けてもなかなか、

おしゃべりが終わらない。

とうとう最後には他のお客さんに、

「うるさいぞ」

と叱られる有様だった。

 

夜は宿での枕投げは、誰も教えてくれなくとも結構大声で遊んだ。

当然、担当の〈いしかわ〉先生に毎回怒鳴られたのも当然だ。

 

中尊寺

 

 

毛越寺

写真を見ると記憶が甦るが、現場では、おしゃべりばかりしていたのだろう。

コロナが明けたら、タイミング見てドライブでもしてみたい。

 

 

なぜか花巻駅で、みんなで食べたうどんが懐かしい。

 

 

花巻鹿踊り(しし踊り)

この群舞は、よく覚えているが、おそらく太鼓の音なども印象深いものに違いないが、

記憶から飛んでいる。

 

 

観光会社の担当者は当時の実力俳優さんの〈伊藤雄之助〉にそっくりだった。

何処に行っても結構、彼は受けていた。

現在、〈伊藤雄之助〉という名優は残念ながら知られていないだろう。

 

【まだまだ・・・】

 

 

高尾山登山 

妹たちも一緒だった。

多分、写真を撮ったのは、案内役の父だった。

 

 

どこまで行ったサイクリング。

 

 

冬には冬のスキー旅行。

結構、遊びに徹していた。

 

【新しいジャケット】

 

 

 

話は違うが、親父の故郷、特に法事のごとに伊勢市はよく行った。

僕の着ているジャケットは母が父の古く着なくなった背広を、

生地をほぐして新しいデザインで作ってくれた。

他には襟付きの背広スタイルの上着もある

 

妹二人には、お揃いのワンピースも器用に作っている。二人が間違わないように、

姉のワンピースにはダミーのボタンがついていた。

母親の気遣いに、写真を見て気がついた。

妹たちは、その違いのあり方を感じていたのだろうか。

 

隣に居る祖母は父の母〈しず〉さんだ。

写真を撮ったのは、おそらく父に違いない。

 

 

【すがい君の家族】

 

映画俳優で監督の菅井一郎さんの長男〈にちと〉君は家も近くクラスメートだった。

 

 

ある夏、我が家が千葉館山の米良海岸で遊んでいると、なぜか菅井一家もそばにいた。

「これは奇遇だ!」

カメラを撮っているのは菅井監督、その写真を撮っているのが〈にちと〉君だ。

 

夕方になるまで一緒に遊んだ記憶がある。

 

 

 

 

 

かつて菅井一郎さんが監督をした第1回監督作品「泥だらけの青春」(1954年:作品)。

調布の日活撮影所の野道で我々はスケッチする子供で出演した。

僕たちは10歳のころだった。

僕たちの後ろには、若き〈三國連太郎〉が若い女性と散歩をしながら、

僕たちのスケッチを覗くシーンだった。

 

僕たちは「ヨーイ、スタート」の監督の掛け声に、改めて緊張しながらスケッチを続けた。

 

 

こうして、私は和光中学校を卒業することになる。

 

 

 

その後2006年と2007年の個展に訪れて旧交を暖めた。

 

その〈にちと〉君は写真家になったが。残念ながら、多くの作品を残して早逝した。合掌!

| team-mamiya | from-mamiya「鎌倉の話」 | 15:25 | comments(0) | - | - | - |
あっという間に和光中学校に。〈昼行燈〉の私が〈栴檀は双葉より芳し〉と言われた。

 

(*)しばらくなんの連絡もなく、ブログ作成をサボり、ご心配をおかけしました。

 

小学校時代の僕は30人前後のクラスで「昼行灯」と言われたが、

中学生になり、大きく変わったと周りから言われた。

 

(*)私の結婚式にお招きした担当の(いしかわ先生)が披露宴のスピーチで、

   昼行灯が栴檀は双葉より芳し。

中学生になって間宮君は大きく変わったと持ち上げてくれた。

 

中学生生活で、記憶に残るトピックスは、

・野球部に参加

・館山の遠泳合宿

・浅間山登山とテント合宿

・生徒会長立候補

 

写真がたくさん残っているものと、1枚もないものある。

 

【野球部に参加】

 

4年生から始めた野球は、中学生になりすぐに入部した。

小さな和光学園では、グランドは同じ場所。

サードの塀の向こう側は大きな「豚小屋」がある。昔の風情だ、

ファールボールを拾うとボールは糞だらけになる。

 

ポジションはサードを希望したが、1年上に(つちや・ゆう)さんが、

どっしりとかまえていて控えにもなれない。

ピッチャーは、やはり1年上に(かどわき・くにすけ)さんが、

エースとして存在してマウンドは譲らない。

ショートは2年上に(しょーじ)さんが、軽快に守っている。

なぜか私は(かどわき・くにすけ)さんの、球を受けるキャッチャーになった。

背番号は2番。

背番号が5番になったのは3年生からだった。

 

たまに行う若手男性教員との校内試合も楽しかった。

大人なので動きが早く力強い。

野球は下手でも当たると飛ぶ。

手が抜けない相手だ。

 

特に〈いとう〉先生は4番でピッチャーだ。

今でいう二刀流の大谷選手のようだ。

背が高く運動神経が良い。

女生徒にも人気があるので、観客は増える。

校庭に裕次郎が現れたような人気が上がる。

すると裕次郎ももっと力が入る。

僕にとっては楽しい試合だった

 

【館山の遠泳合宿】

 

 

小さな和光学園の校庭には、もちろんプールが無い。

東京教育大学(現:筑波大学)のプールで水泳部のコーチから訓練を受けた。

 

夏になると館山にある東京教育大学の〈北条寮〉を合宿所して5泊6日の水泳訓練を行った。

僕はプール練習では25m泳ぐのが精一杯だった。

館山では東海汽船の桟橋から海への飛び込みから始まる。

結構な高さだ。見た感じ5m以上はあるだろう。

目を瞑って飛び込んだ記憶がある。

 

当時の僕たちの遠泳は鷹の島から北条海岸へ3km組と、

沖の島から北条海岸へ6km組に分かれていた。

(現在は、もう少し短いコースを安全に泳いでいる)

 

僕はコーチたちの特訓の結果、1年生で鷹の島組に選ばれて3km泳いだ。

 

 

 

 

2年生になり沖ノ島組に選ばれて6km組メンバーとして泳いだ。

 

3年生では沖ノ島組の6km組メンバーとして先頭で真ん中を泳ぐ〈遠泳リーダ〉になった。

 

 

生憎その日は台風の影響で波が荒くなり、6組組はわずか男女9名に絞られて、3人のOBと泳いだ。

もちろん教育大の水泳部のメンバーが9名に学生を守るように周囲を囲むように泳いでくれた。

いくつもの和舟では先生が方向づけしてくれる。

「目指すは那古船形観音!!」

和舟の上で〈おおもり〉先生のスピーカーから声がする。

こちらも(エンヤコーラ)とリーダーの声に、(エンヤコーラ)と仲間が返してくれる。

何度も繰り返し大きな波の中を泳いだ。

こちらは大きなうねりの底にいるので那古船形観音は見えない。次のうねりが来て、

うねりのトップに浮き上がると、すべての仲間の泳ぐ姿が見える。

目指す那古船形観音とみるか見えるが、それは一瞬の事で、すぐにうねりの底へ。

こんな事を何度繰り返している。

 

こんな状況の中でもコーチかこおり砂糖をひとりずつに配ってくれた。

数時間この繰り返してついに、無事に北条海岸に着いた。

 

皮下脂肪のない私は、浜に着いた全身痙攣でガタガタしていた。

コーチ達にバスタオルに包まれでマッサージを受けた。

小さなコップでブランデーを飲ませてくれた。意識が戻った。

 

周囲に気がつくと女性の〈とくま〉さん、〈あおき〉さん、先輩コーチの女性は、

みんな浜をぴょんぴょん飛び跳ねていた。

こんなに違うのはなんなのだろうと単純に感じた。

1951年に開始された和光中学校の一大イベントは形を変えながら70年以上も続いている。

 

【浅間山登山とテント合宿】

 

 

中学になって僕たちのクラスは希望者だけ、軽井沢の〈ほりきりさん〉の別荘を借りて、

テント合宿と浅間山登山をすることになった。

クラスのイベントではなくて、〈ほりきりさん家族〉と先生の関係がよく、

自然発生的なものだと感じていた。

男の子達6人は庭にテントを貼り、そこで寝泊まりする。女の子達6人は別荘に泊まる。

一度は外でBBQなど信濃だろうが、全く記憶がない。

 

翌日はあまり天気も良くなったようだが、雨模様ではない。

男の子たち6名だけ浅間山登頂に挑戦するとになった。

当然だが、街からはバスで登山コースまで乗って、〈いしかわ〉先生、〈いとう〉先生に

道引かれて登山コースへ向かった。

 

 

到着日はみんな長袖だったが、登頂姿はそれより軽装だったので、

そんなに気温は低くはなかったようだ。

浅間山に関しては、これ以上記憶が出てこない。

 

【生徒会長立候補】

 

「昼行燈」だった私は、なぜ中学に2年生なって「生徒会長」に立候補することになったのだ。

今思い当たるのは私が〈館山遠泳合宿〉が原因だと思う。

もともとそのような気持ちはなかったのだから。

25mしか泳げなかった私が、いきなり鷹の島3km組のメンバーになって、

〈北条海岸〉まで泳ぎ切ったことが、学園の中で大きな話題になった。

 

合宿の目的は単に水泳技術を学ぶだけでなく、合宿計画を一年がかりで計画し、

生活リーダがグループをまとめて総合運営を目的としている。

私のグループでは、その精神でまとまった行動をしていた。

 

最初はプールで25mしか泳げない私が、あれよあれよと鷹の島3キロ組に入り込んだ。

2年生ではなんと沖ノ島6キログループで遠泳隊長として全員をリードして泳ぎ切った。

 

学園としても遠泳合宿の一つのケースとしてとり上げてくれた。

それだけではなく〈親和会〉。

いわゆるPTAも私の行動も〈館山遠泳合宿〉の活動の大きなシンボルになると評価してくれた。

 

当の本人は確かに自分に自信ができて、少し行動が変わって来たなという自覚はできてきた。

誰からの直接の応援か覚えていないが、気がついたら講堂の演台で出馬演説を説いていた。

(たまに夢に見る)結果は当選した。

 

1年間の生徒会運営を始めることになった。

 

(*)だいじな案件は「親」、「生徒」、「先生」の3身一体で討議して決めるのだ。

  町で売っている菓子パンの一部は校内販売所でも売っていいのではないなどの議論で、

  最後は一部の菓子パンも販売所で売れることになった。

 

期中で野球部に対する予算配分が緩すぎることが問題になったりしたが、

〈つちや〉野球部長が丁寧に説明してことなきを得た。

 

いくつかの提案もできて、無事任務終了になった。

 

(*)これに関しての写真は一才ない。

 

 

この写真は一年先輩の〈かどわき・くにすけ〉さんとの打ち合わせの写真をみつけた。

『中学生明日に生きるもの』のカット写真で見つけたのは、

決して野球部予算についての談合ではない。

 

彼はのちに和光学園の同窓会副会長を務めて、さらに学園評議員を務めた。

残念なことに早逝された。

野球部のピッチャー交代を引き受けられなかったが、副会長、評議員を学園から依頼されて、

卒業生枠として、昨年まで25年もの長い間、学園の課題解決の努力した。

その間、若い教員に〈昔の和光〉の良さを伝えてきた。

鶴川小学校の日韓姉妹校とお付き合いには、鶴川でも韓国浦項においても全て参加させて頂いた。

私か鎌倉市パートナシティ提携の漕ぎ着けた安東市の近郊に浦項があった。

| team-mamiya | from-mamiya「鎌倉の話」 | 16:39 | comments(0) | - | - | - |
和光学園か成蹊学園か?小中一貫校選びから始まった。

2年間の〈松沢幼稚園〉生活を終えて、父が探してきた小学校は公立ではなかった。

どちらも電車で通う小学校だった。

〈松沢幼稚園〉で電車通学に慣れたと判断したのだろう。

 

 

和光学園は〈玉電下高井戸〉からふたつ目の〈玉電山下〉で、

小田急〈豪徳寺〉から下りに一つ目〈経堂〉までの通学だった。

 

 

二つの小学校の〈成蹊学園〉は

京王線下高井戸駅から上りに一駅の〈明大前〉で井の頭線に乗り換え、

終着駅の〈吉祥寺〉まで。

その日は雨だった。駅から学園まで10分ほど泥んこ道の往復だった。

 

〈和光学園〉の方が、同じように乗り換えはあるが、少し近いことも理由だった。

〈成蹊学園〉の方が学園までは泥んこ道の印象が良くなかった事は記憶していた。

 

一方、和光学園の場合は駅から商店街を歩き「カモメベーカリー」の角を、

曲がり農大(東京農業大学)までのアスファルト道の農大通りの途中に、

小さな〈和光学園〉があった。

 

「どちらも合格しているが、どっちが気に入った?」

父は私に聞いた。

「和光学園!」

答えた理由は学園までの道のりの違いにあった。

 

確かに、〈成蹊学園〉までは並木道で自然感にあふれていたが泥んこ道だった。

そんな違いでアスファルト道の和光学園を選んだ。

 

〈和光学園〉は、簡単に説明すると〈成城学園〉の父兄が、

ある教育理念で揉めて、事情が重なり〈玉川学園〉と〈和光学園〉に。

分解し三つの学園に分かれた。

 

ともに当時は中学校まで一貫教育だった。後に高校までの一貫校に、

最後は長い時間をかけて大学までの一環教育の学園になった。

 

ただ、小田急線の駅名に「成城学園」「玉川学園」はできたが、

「和光学園」は「経堂」のままである。

まっ、どうでもいいことだと思う。

 

 

和光学園の校門にはよく見えないが「子供の成る木」という大きな木があり、

休み時間には子供たちがたくさん木の登り、

始業時間になっても子供たちは木から降りて来ないと有名な話があった。

 

 

入学式は大きな講堂で行い、記念写真は学園の前提に生徒、父兄、先生が一緒に写っている。

この時、母は病弱で父が父兄として参加してくれた。

左側後列3人目の背広姿が父だ。

私の位置は説明してもわからない。

 

自由な環境の中で個性重視の教育を求めた親たちが集まり、

1933年11月10日に、東京都世田谷区経堂に教職員7名、

児童数33名の小さな私立の学園を作った。

1934年4月から、正式に「和光」という学園名の私立学校となる

老子の言葉にある、「和光同塵(わこうどうじん)」からとったとされている。

 

僕が入学したのは1950年だから、創立26年に入学した。

まだ学園は、まるでマッチ箱のような小さな学園だった。

 

 

 

 

副担任の野辺先生。

 

 

3年生に成るときにそれまでの1組と2組が同じクラスになった。

私はまだ「昼行灯」のような目立たない存在だった。

後列右から3人目。坊ちゃんがりが長い髪になっている。

 

(*)中学校になって「便所の100ワット!」と言われるほどになって、

「生徒会長」にまでになった理由は次回に譲ります。

 

 

 

小学校で記憶のあるのは、勉強合宿、遠足や体育祭など。

体育祭の最後に当時父は学園の理事をしていたので、

前庭の台に立ち最後の挨拶とスピーチの最後に「和光学園バンザイ!」と大きな声を発した。

この時は二人の妹も4年生、2年生で全生徒の中で3人揃って、

顔を下げて恥ずかしい思いで並んでいたのだ。

 

 

 

 

 

クラスの前で「アラジンとふしぎなランプ」を朗読をする私。

 

特に珍しい記憶の記憶は、和光学園がコア・カリキュラムの実験学校になり。

1950年にはコア・カリキュラム連盟(現、日本生活教育連盟)の実験学校となった。

 

 

小学校の卒業式。正門が新しくなっている。

後列の木村先生の右横にネクタイ姿の私。

全生徒で30人弱だった。

私の背景に冒頭に説明した「子供のなる木」がしっかりと見えている。

 

1954年には日本最初の「ユネスコ協同学校計画」の参加6校のひとつに和光中学校が認められる。

 

特に驚いたことには授業中に多くの外国人が見学に見えたことだ。

自分たちはその授業の準備をしたのだ。

この先は中学時代の記憶(思い出)の次回掲載に譲ろう。

 

| team-mamiya | from-mamiya「鎌倉の話」 | 13:57 | comments(0) | - | - | - |
幼稚園時代の記憶。日常の思い出は殆どない。写真を見て少し思い出した。

 

 

一般に幼児の初めての記憶が、そのまま大人まで維持できる年齢は3歳から4歳からだと、

前々回のブログで書いた。

まさに、その時の写真は4歳の私なのだった。

 

 

 

 

5歳ごろの写真も出てきた。

少し、おすまし、母の手編みのセータ。

この頃の母は、毛糸を染め替えて3人の子供に手編みのセーターを作り、

親父の古い背広をほどいて私の背広なも作ってくれたものだ。

 

私の進路の幼稚園は父が丹念に調べて、父が選んだ松沢幼稚園に電車で通うことになった

2年間の間、日常の幼稚園での活動は、ほとんど覚えていないが、

いくつか今日まで、しっかり覚えていることがある。

 

まず、その前に松沢幼稚園とはどういう幼稚園なのか、

京王線の上北沢駅から徒歩数分にあり園庭の大きな幼稚園。

 

 

賀川豊彦先生の創設した教会と幼稚園とだけ、頭に入っているだけだった。

 

 

これがクラスの写真なのだろうか。

男の子が6人、女の子が10人

 

 

なぜか男の子だけの写真が写っている。

全部で14人の男の子。年少さんは、ふたクラスだったのだろうか。

担当の先生はオサダ先生。

 

私はなぜか〈オサラ先生〉としか言えなかった。

〈オサラ先生〉の前に私、その二人左が〈ホッタ君〉

上段の一番右が〈カゲアキ君〉、左から2番目が〈エンドウ君〉。

〈エンドウ君〉は地元の高井戸第3小学校へ進学したと覚えている。

後に友人になる(ヨシダマサトシ)からよく聞く名前だった。

 

なぜ苗字だけ覚え、なぜ名前だけ覚えているのかは、その差はよくわからない。

親しさの差でもないだろう。

とにかく幼稚園に徒歩圏内で通っているのでなく、

多くの園児は京王線に乗って集まってくる。

 

現在の地元のママ友と一緒に狭い範囲で通ってくる地元仲間の人間関係と、

少し異なるのかもしれない。

 

改めて〈松沢幼稚園〉を調べ直した。

1931年に世田谷区の松沢村に賀川豊彦先生が〈松沢教会〉と〈松沢幼稚園〉を創設した。

創設当時の松沢幼稚園。

 

 

1949年、私は創設して18年目に入園したことになる。

私が通いはじめた幼稚園は、このような小さな教会でも教室でもなかった。

 

その頃には賀川豊彦先生の偉業に対して海外から当時は珍しい〈パイプオルガン〉が、

贈呈されていて、私も教会の礼拝堂にあるオルガンの美しい音色を神妙に聞いていたに違いない。

 

我が家は京王線の下高井戸駅を北側にある商店街を200mほど歩き、

まだ砂利道の甲州街道をわたり、滔々と流れる玉川上水の橋を渡り、

側道を道なりに下り、大きな田んぼの手まえに家があった。

駅から子供の足で10分は掛かった。

 

●入園試験。

覚えている話です。

試験場には沢山の色の積み木が、山のようになっている。

ヨーイドンで、白い丸い積み木を取ってくる。

次に白い四角い積み木を取ってくる。

最後に白い三角の積み木を取ってくる。

 

 

○の積み木は「府中」行き。

 

 

□の積み木は「京王多摩川」行き。

このふたつは各駅停車で「上北沢」に停まる。

三角形の積み木は「東八王子行き」で準急は上北沢には停まらない。

この識別テストだった。

見事に私は素早く、条件通りの積み木を取ってきた。

そして合格したのだ。

写真は京王電車のHPから借用させていただいた)

 

●水のみ場事件。

広い園庭にはジャングルジム、ブランコなどあり、

大きな木の木陰には噴水式の水飲み場がある。

 

 

昔もこんな感じだった。

ある時、その水飲み場にいくつもの木の実が落ちていた。

「やーい、うんちだ。うんちだ」と騒いだ。女の子は嫌がって先生に言いつけた。

私はオサラ先生に呼ばれて礼拝堂に連れて行かれた。

 

 

神様の前で謝るのだ。それも小さな口に絆創膏を×点に貼られて、何もしゃべれない。

多分、大きな声で泣いたのだろう。午後になって母が礼拝堂へ駆けつけた。

 

これは後々、母からも何回も聞かされたので、全て原体験が実体験化して詳しく覚えている。

 

●鯨の肝油ドロップ。

賀川豊彦先生が、幼稚園から帰る前に一人ずつに鯨の肝油ドロップを口に入れてくれた。

当時の食生活では欠乏しがちなビタミン類を補うのに利用されていたのだろう。

八角形でザラ目砂糖がまぶしているようだったが、味は特別に覚えていない。

二人の妹も鮮烈に覚えていた。

 

●かわいいレイコちゃん。

私の1級下にフランスキャラメルのような髪の毛がクルっとしたレイコちゃんがいた。

 

 

髪の毛は黒いし、目も黒目。ただのイメージ写真だ。

いつも一緒に遊んでいたわけではない。

ある日、レイコちゃんは授業中に(おもらし)したようで、おうちに帰ることになった。

1級上でも、なぜか家の近い私が家に連れて帰ることになった。

(おもらし)の下着をビニール袋に入れて、なぜか私が持つことになった。

女の子の手を繋ぎ、京王線の「桜上水駅」で降りて、

甲州街道をわたり、側道を降りた頃がお家だった。

確かに我が家には近かった。

家まで手を繋ぎ、黙々と黙って家まで歩いた記憶は鮮明に残っている。

 

下の妹が「アネがその〈レイコちゃん〉とは仲が良かったはず」と。

すぐ下の妹に確認すると、確かに1年下の妹は1年上のレイコちゃんと仲が良かったと聞いた。

 

とにかく賀川豊彦先生が暮らし始めた当時は松沢村だったので教会も松沢教会、

附属の幼稚園は松沢幼稚園。

 

後年に先生の活躍や遺品を偲んで建てられた、

資料館を含めて地域風景資産に選定されている。

賀川豊彦先生は世界の著名人とともに世界の平和運動に貢献し、

ノーベル平和賞候補に4度推薦された。

 

 

タイミング見て、故郷を偲ぶように〈松沢幼稚園資料館〉に妹たちと3人で訪問してみたい。

 

数枚の写真から、今回はこんな話が浮かび上がってきた。

今となっては父母に聞けない話ばかりだ。

 

 

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  • 高校以来の大親友が、忽然と逝ってしまった。ひさしぶりに泣いた。
    間宮武美 (11/18)
  • 高校以来の大親友が、忽然と逝ってしまった。ひさしぶりに泣いた。
    吉田 和子 (11/17)
  • 「鎌人(かまんど)いち場」は初めて知る言葉。好天の中、行ってみたら凄かった。
    小町さなえ (10/29)
  • 鳩スタ1周年記念感謝祭、また新しい出会いがあった。
    太田 元夫 (10/13)
  • 大船で「韓国伝統音楽演奏会」。新羅亭の夜。フィナーレは「アリラン」で踊りながら盛り上がりました。
    のん (06/12)
  • キンチョーの新聞広告、見ました。どう感じましたか?
    間宮武美 (07/10)
  • キンチョーの新聞広告、見ました。どう感じましたか?
    三好俊夫 (07/09)
  • 6月22日はコピーライター・眞木準さんの3回目の命日。いろいろと考えること・・・。
    間宮武美 (05/18)
  • 6月22日はコピーライター・眞木準さんの3回目の命日。いろいろと考えること・・・。
    市川直美 (05/17)
  • エンジョイ・ホーム。自粛生活の節目の時がやって来た。東京アラームも解除されたが…。
    間宮武美 (06/14)
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