鎌倉から、こんにちは

「鎌倉発、韓国ソウルまで。」
徒歩の旅を終えて、あらたなスタート!
鎌倉から日常のあれこれをお伝えしていきます。
横浜の空は久しぶりに青い空だった。桑ちゃんのヨットに元気な仲間が集まった。

 

 

短かった夏もそろそろ終わりに近いある日、恒例の桑ちゃんの「バターボール号」に仲間が集合した。

元勤務先の同僚の桑ちゃん(桑原明さん)の親しい仲間が、涼風に吹かれてしのぎやすい一日、横浜のヨットハーバーに集まった。

恒例のクルージングとBBQパーティーだ。

 

以前は元勤務先の少人数で始めた船上パーティーだったようだが、

いまではクリエーター仲間にマーケティング仲間、さらにプロモーション仲間が集まる。

その中で営業出身者は、なんと私だけなのだ。

 

メンバーのメッセンジャーに1ケ月前から集合連絡が来て、

徐々に常連の参加連絡が増えた。

ところが、ラグビーW杯テストマッチの関係、親の介護、大学の会議、突然の体調不良と数名の不参加表明があり、昨年より少ない10名となった。

私も既に赤坂で元勤務先とのランチ会食が決まっていて、2時間以上遅れての参加になった。

こうして船上でにぎやかに集まるのは、もう何年続いているのだろうか。

 

この日も午後から日本晴れになった。

 

 

全長25フィートのバターボール号を桟橋に接岸し、パーティー用のデッキ(ウキ桟橋)が準備された。

BBQ用のテーブルやチェアがセッティングされ、持ち寄りの得意料理が並んだ。

 

 

2時間遅れた私にも、ちゃんとアラスカで釣ってきたキングサーモンのステーキも残しておいてくれた。

飲み始めたら、全員の最近のトピックスのショートスピーチが始まり話題は尽きない。

とにかくおしゃべりの得意なメンバーだ。しゃべり出したら止まらない。

 

今回は常連の睦美さんのオフィスのバイトちゃんの睦さんが参加。

 

 

素敵なダブル(むつみ)さんに人気が集中した。社長の睦美さんは、今日はおとなしい様子。

 

 

一番若いバイトちゃんの底抜けに明るい笑顔に、おじさんたちはニコニコとアプローチ。

あっという間にビールが無くなり、ワインも何本も空いていく。時間が経つのも忘れる。

キングサーモン、チキン、野菜のマリネとレストラン並みです。

 

 

日が暮れる前に、少しヨットを外海にクルージングだ。2回に分けて船出した。

 

 

先に帰る仲間を優先して、最後まで飲むつもりの私は2回目のクルーズに参加。

バイトちゃんも一緒に。

 

 

オーナーの桑ちゃん。

 

 

 

夕方になり、三々五々と仲間が帰っていく。帰る前にみんなで記念写真だ。

 

 

飲む人間は、まだ飲んでおしゃべりをしている。

最後まで残るのはなぜか毎年同じような仲間だ。

既に開始から7,8時間たっている。

後ろ髪を引かれるようにヨットハーバーを去る。

 

 

今夜も飲みすぎによるトラブルもなく、無事解散になった。

 

 

とにかく、後期高齢者、もとい「好奇(心)高齢者」が数名参加している。

とにかく底抜けに元気な仲間だ。

そうだ私も、数日前までは前期高齢者、もとい「元気高齢者」だったのだ。

なのに何も変わらない毎日だ。

| team-mamiya | from-mamiya「その他」 | 19:25 | comments(0) | - | - | - |
600字エッセイが産経新聞の第1面「朝晴れエッセー」で掲載が決まりました。

 

私の母は佐渡で生まれた6人兄姉だ。

 

母方の先祖は「佐渡の金奉行」に関わっていたという。

その後、代々裁判所の仕事に関わり、母の父親の精一は相川の街で登記事務所の仕事をしていたという。

母の母方の仕事は両津で廻船問屋を営んでいた。

 

 

六人の兄姉の長男は賢一郎、長女は八重、次男は二朗と、ここまでは普通だ。

ここからは父の精一は、何を考えたのか、三男は三四吾(みよご)、次女はなんと六七代(むなよ)と続く。

末っ子の母は残った九と十で九十代(ことよ)となった。

 

 

昔ならばNHKの「私の秘密」に出演できそうな逸話だ。

母は子供のころから十代でも二十代でも名前は九十代だったのだ。

多分回りの友人から、からかわれたりして困ったに違いない。

 

母の小さな頃の写真は長男の賢一郎さんの家が水害に合い、

すべて流されてしまったので手元にはない

 

 

両親が若い頃は、いつも家族で小旅行をしていた。

 

 

大きくなって自分の布の貼り絵の作品は(琴代)や(古都世)にし、

後年は自分の作品の篆刻は小さな赤い布に白抜きで(九)という一文字を抜き文字にしていた。

 

 

8年前の自分の90歳の誕生会に集まった子供達、孫達十数名の家族たちに向かって挨拶をした。

「ようよう九十代という名前の通りの九十歳になりました。これからも元気に生きていきます。

よろしくお願いします」と。

その後、九十八歳の誕生日の時の挨拶が、

「皆様のおかげで元気にこの歳を迎えました。もしも私が百歳になったら、名前を変えようと思います。百代(ももよ)に。かわいいでしょう」

と子供達や孫達を驚かせた。百代とは、今にしては実現性が高い話だ。

 

 

最近、私が「百代の後は一年ごとに名前を変えるの」と尋ねると、

「ずっと百代でいいの。次はあの世(あのよ)なんだから」

 

 

最近は車椅子の生活になったが、母の「次はあの世」の言葉に。その洒落っ気に驚いた。

 

ほぼ同じような内容のエッセーが近々の産経新聞の第1面「朝晴れエッセー」に掲載が決まった。

600字にまとめたエッセーになっている。

ぜひ、ご覧ください。

 

 

そういう私は最近、「後期高齢者」になった。

 

ちょうど11年前の64歳を迎える年の4月に後期高齢者制度が制定された。

それまでの「老人保健制度」が廃止されて、代わりに後期高齢者医療制度が始まった。

 

これは75歳以上の人が加入する医療制度で、75歳の誕生日を迎えると、

それまで加入していた国民健康保険や健康保険などから後期高齢者医療制度に移るのだ。

特別な手続きをする必要はなく、誕生日と同時に自動的に

国保から脱退&後期高齢者医療制度に加入となるという。

 

当時私は、当たり前のように前期高齢者に区分され、七五歳までの間は当時加入していた

勤務先の保険を特例退職者として継続して従来どおり受けることになった。

 

 

 

しかし前期高齢者という国の定めには、どうも気持ちがしっくりしない。

広告業界の仕事も、地元の韓国某市との姉妹都市提携活動も、

八ヶ岳農場の農場音楽祭などの活性化活動と、

現役気分で元気な気持ちで続けていきたいと考えていた。

 

 

だから前期ではなくて「元気高齢者」と名乗った。

 

そして今、同じ思いで私は後期高齢者ではなく、気持ちは「高貴高齢者」とか「光輝高齢者」を目指したい。

 

 

しかし、むしろまだまだ若い好奇心を保ちながら生きていく「好奇高齢者」を目指しても良い。

 

 

国の区分は一体どういう基準で決めたのだろうか不思議だ。

父を36年前に67歳で見送ったが、母はホームで車椅子生活だが98歳で気持ちはとても元気だ。

 

ところが、誕生日の翌日に54年来の学生時代の友人が病と闘い、ついに鬼籍に入ってしまった

友人たちと共に、お通夜と告別式に参列しお見送りをした。

さすがに、我が人生の行く先を考える機会になった。

 

しばらくは7歳若い家人にも迷惑を与えるかもしれないが、彼女は私以上に元気高齢者なのだ。

 

| team-mamiya | from-mamiya「その他」 | 14:35 | comments(0) | - | - | - |
野球部のOB会、勤務先のOB会、また、ほかにもOB会はありますが……

 

 

都立高校の野球部OB会は今年10周年、勤務先のOB会(錦会)は30周年、

勤務先OBが大学などで教壇に立つメンバーのOB会も今年で10周年。

大学の放送研究会のOB会(放研三田会)は昨年20周年を迎えた。

節目のタイミングには記念行事のために、様々な周年企画に工夫をするものだ。

 

その中で私が一番力を入れているのが「放研三田会」だ。

 

 

毎年初夏の頃に三田キャンパスで「総会」を開催する。

第1部は大ホールで総会とイベント企画、第2部は大食堂での懇親会。

毎年定額の会費を取らずに、総会のイベントに参加する参加費が年間の収入になる。

会員数は1200名。常に活動に熱心に参加する仲間は150名ほど。

このために芸達者のメンバーがイベントに力を入れる。

参加者が増えないと収入が増えないからだ。

 

 

親友の同期のM君が病に倒れ急逝し、ピンチヒッターで(事務局統括)を5年間務めた。

 

 

放送界で知名度の高い先輩後輩がボランティアでイベントの中心で支えてくれる。

今回はフリーアナの魚住リエさんが協力してくれた。

イベントを企画プロデュースする後輩達も若き頃の【放研魂】を発揮して、

企画作りにDNAを受け継いでくれた。

 

 

課題だった資金面も活発な分科会活動を実行しても、安定した繰越金を残せるようになり、

数年前に世代交代で大役を後輩に譲ることができた。

今は事務局担当の副会長として、黒子になって後輩を支えている。

 

 

次に私が力を入れているのが高校野球部のOB会。

 

 

 

私たちは野球部72年の歴史の中で、かなり初期の先輩である15期にあたる。

私は一年からレギュラーでサードを守り、三年ではキャプテンを任された。

そんな流れで、今でも役員の一角として活動を支えている。

 

 

一昨年、野球部70年を迎え「70年記念誌」の発行に奔走した。

OB会が活性化するのは仲間の協力が必要だが、

なんといっても現役が夏の大会などで強くなって試合で活躍してくれることが一番だ。

 

 

 

そうすれば球場にOB達が足しげく、何度も応援に駆けつけることができるからだ。

西東京大会で5回戦のベスト8で準々決勝まで、唯一の都立校として勝ち進んだ。

ことしの現役の活躍は、すでに前回の掲載で詳しく書いた。

秋に予定している「10周年記念イベント」の準備も着々と進んでいる。

夏の大会の現役の活躍を背景に。盛会になることを祈っている。

 

博報堂のOB会は「錦会」という。

明治28年(1895年)に創業し、大正になり神田錦町を

活動の本拠地にしたことから「錦会」となったようだ。

ことしで創立30年になる。

私は引退して約15年になるので半分の歴史を供にした事になる。

 

 

年1回の総会にただ参加して、たまにゴルフ会などに参加し、

たまに会報誌1ページに駄文を投稿する程度の会員だ。

現在、私の親しい後輩が会長、運営のコアメンバーになっているので、

少しでも頑張ってほしいと思い、投稿などで応援している。

先日の30周年記念行事は、約130名のOBが本社のパーティー会場に招かれ、

相談役、会長、社長、関連会社の社長などと懇親を深めることができた。

 

 

参加者の中に私が韓国赴任中に親しくお付き合いのあった二人の幹部が特別参加していて、

久しぶりに友情を交わすことができた。

 

もう一つ、会社を引退して大学教授などの経験者で構成するOB会がある。

当初、私は宣伝会議で講義していた関係で参加を希望したが、

「君は社会人を教えているので、会の趣旨とは違う」と会長に入会を断られた。

幹部の世代交代で「君のような現場経験者が、むしろ必要なのだ」と新会長から会に誘われた。

 

 

そのOB会が、今年10周年を迎える。

私は会の中心には交わらずに、今でも業界生活をしている人間として、

外側から傍観者的気分で会に参加している。

今回、10周年記念イベントの基調講演をどうするかということで議論が白熱している。

その候補になっている「デジタル大改革」の自論を主張する学者と、異論を唱えるメンバーとの間で収拾が付かずに数名の退会者もでる騒ぎになった。

 

私はこの4月から業界生活50年。

携帯もない、メールもない時代から暴れた業界経験者の私は、

今やインターネットなどの出現で大きく社会のコミュニケーションが変わって、

今では浴びるようなSNS手法の時代が到来した。大きな変革の時代を現役幹部として、

170名の制作会社の将来を考えている身にとって、

学者の立場での上から目線の具体論にかけた論文は性に合わない。

誰に向かってアピールしたい基調講演なのかも不明だ。世話人会の奮起を待つだけだ。

大いなる疑問を抱えて、今後このOB会に参加を続けるか、否かを考えているところだ。

 

 

私の業界の生き残り戦略は、現場に基づくものだから……。さて。

| team-mamiya | from-mamiya「その他」 | 11:52 | comments(0) | - | - | - |
梅雨も明けないのに、球児の夏は終わった。しかし、素晴らしい夏だった。

 

 

私は小さな頃から野球少年だった。ポジションはファースト、サード、ピッチャーなどいろいろなポジションを経験した。

特に高校時代は、杉並区にある都立の有名進学校だったので、かなりの時間は学業には励まなければならなかった。  

学業以外の時間は本当に野球中心の生活だった。

20名弱の硬式野球部の中で、運よく幸いなことに一年生からポジションの空いていたサードでレギュラー選手になれたのだ。

 

 

3年生ではキャプテンとしても部員をリードするために真っ黒になってチームを引っ張っていた。

高校を卒業して既に56年の月日が経った。

 

 

後輩の豊多摩高校野球部の現役選手たちは、西東京大会でベスト8まで勝ち残った。

その試合に勝てばベスト4となる準々決勝に臨んだのだ。

8校の中で唯一の都立高校だ。

結果は創価高校に7対0のコールド負けに終わったが、野球部史上初のベスト8だ。

 

今年は組み合わせにも恵まれた。

初戦は2回戦から登場。

相手は56年前の3年生の時にシード校だった我々は「専大京王」に、15対0でコールド負けをした苦い思い出がある。

長い間、野球部仲間で語り草にもなっていた。

 

 

現役選手が多摩一本杉球場で専大付属高校(元:専大京王)に、4対3で見事にリベンジしたのだ。ありがとう。

 

 

3回戦は「都市大付属高校」。5対2と危なげなく勝った。

 

 

4回戦は「都立松が谷」。都立高校同士で、ベスト16同士の戦い。

4回に1点入れられたが、6回に同点、8回9回に1点ずつ加点。3対1で勝利。

練習試合では負けていたという。

 

 

5回戦はやはり同じ立川球場で「都立練馬高校」。

初回に3点も取られたが徐々に点を取り返し、4対4で延長戦。

延長13回からは大会ルールによるタイブレーク方式。

ノーアウト1塁2塁からゲーム開始。

いつでも点が取れるチャンスだが、両校ともピンチを切り抜けた。

 

 

14回の裏、豊多摩は右中間ヒットで3塁ランナーがホームに駆け込み逆転サヨナラ勝。

2年前の初戦で負けたチームだ。快挙。

 

 

23日は、いよいよベスト8同士の試合だ。

相手チームは「創価高校」。手ごわいチームだ。

準々決勝は神宮球場での戦いだ。

 

 

創価高校の応援席を豊多摩は学生、父母会、OB仲間とはるかに超えた仲間が集まっている。

 

私が1年生の夏大会は東西に分かれる前の150校以上の東京大会だ。

開会式は神宮球場に選手一同が集まり行われた。

 

わが豊多摩は直後の第一試合をマネージャーがくじを引いた。

私はあの長嶋の立っていたサードで興奮していた。

高校のグランドと違って、明治神宮のグランドは鏡のような平らなグランドだ。

ノックのボールはスルッと私の股をくぐる。2球続いてトンネルだ。

ネット裏から笑い声が聞こえた。

 

 

私は7番サードでヒット1本。

 

目標の西東京の8強は、甲子園出場経験のあるチームが名を連ねている。

その中で都立高校は豊多摩だけだ。

豊多摩の先発投手は控えの背番号10の森君。

3回戦以降先発で、いい仕事をしてくれてエースの宮下君につなげてきた。

1回表のショートへのゴロ、1塁への送球がそれて3点目。

それがなかったら1点にとどまり、試合展開も変わっていたかもしれない。

宮下君に変わり創価高校は2回から4回までノーヒットが続いた。

 

 

しかし手ごわいチームだ5回に3点、6回に1点と宮下君になれたのか、猛攻撃が続いた。

結果は7回コールドで負けた。

 

7月11日から23日まで約2週間で5試合すべて応援できた。

野球部OB会の我々は、当時の野球少年に戻って、素晴らしい夏を味わった。

素晴らしい試合を見せてくれて、本当にありがとう。

 

 

| team-mamiya | from-mamiya「その他」 | 13:49 | comments(0) | - | - | - |
梅雨もなかなか明けない中、このところ、時はあっという間に過ぎていく。

【知能機能検査】

 

 

カタナ、アコーディオン、脚、テレビ、

かぶとむし、馬、かぼちゃ、包丁、

筆、ヘリコプター、パイナップル、ズボン、

すずめ、ひまわり、のこぎり、ソファ。

以上16個の絵が4枚ずつ4回にわたりスクリーンに数秒現れる。

次に簡単な別のテストを行い、白紙にすべて記憶した単語を16個のうち思い出した分を、

書かなければならない。

運転免許の更新における年齢が75歳になるすべての運転者が受ける「知能機能検査」だ。

 

 

このほか、ライフル、琴、おやゆび、…や、

大砲、オルガン、耳、…や、

タンク、大砲、目、…。

武器、楽器、人体の一部、家電、昆虫、動物と、それぞれ16個の単語の4つのパターンがある。

最初はその試験日が何年、何月、何日、何曜日を記入する事から始まり、

自分で丸く書いた時計の文字盤に指定の時刻を短針と長針を書き込むテストがある。

最後に救済があり、(武器は?)(楽器は?)(人体の一部は?)など思いだしてと聞いてくる。

これにより記憶が呼びもどり75点以上であれば、問題なく免許証がもらえる。

ある点以下であると医者の診察を受け認知症と判断された場合免許は公布されない。

 

高校のクラス会で100点を取った友人がいた。

彼はネットで調べて4種類の問題をすべて覚えた。私も真似てみた。

 

 

一番得意な組み合わせはタンク、太鼓、目で始まる組み合わせだったが、

与えられた時間で、カタナ以下の単語を、なんとかこなせた。

いつまでたっても試験は嫌だ。

 

【鎌倉の花火】

 

 

鎌倉の人気花火は、なんといっても水中花火だ。

これは、一度でも良いので鎌倉以外の他の地区の方でも楽しんで戴きたい。

観覧の中心は由比ガ浜と材木座海岸だが、坂ノ下、逗子マリーナからの観覧もお勧めだ。

沖合を走る花火船から海に投げ込まれる水中花火は圧巻だ。

 

 

彩とりどりの光が水面で大きく半球状に割れるさまは、鎌倉人にとっても感動的で、

初めてご覧になる方々は、少し大げさだが、あまりの美しさに絶句する。

ことしは例年よりも2週間早い7月10日に開催された。

その理由は2500発の花火の火薬は、通常港の無い鎌倉は近くの江の島港から運び出される。

ことしは、江の島で行われるプレオリンピックの準備のため江の島港が使えないために早まった。

そのために告知の徹底が弱く、通常は学校が夏休みでないために子供連れの観客が大幅に減った。

いつもの江ノ電の混乱も少なく、歩道を歩く観客数も、坂ノ下の浜辺の観客も、いつもより少なかった。

席取りのトラブルもなく、空いているスペースに楽には座れた。

 

 

ことしは特に打ち上げ花火も水中花火も、彩とりどりで、例年より本当に美しい。

昨年は風向きの関係で、花火の煙が文字通り煙幕となって、

後半は花火が浜から全く見えない時間帯が多かった。

 

【高校野球】

 

 

私の母校が杉並区の都立の進学校で、当時は部員も少なかった。

幸い1年生からポジションの空いていたサードでレギュラー選手になれた。

最近では当時と違って、部員も40人を超える少しは強いチームなり始めた。

我々OBは10年前に野球部OB会を創り、会員相互の親睦も大事だが、

現役選手の応援に努めている。

 

 

なんといっても、もともと野球少年は、今でも気持ちは野球少年なのだ。

応援には力が入る。

ことしは組み合わせ抽選の関係で2回戦からの出場だ。

しかし、相手チームは伝統的な専大付属高校(元専大京王高校)。

56年前、当時はシード校の3年生の時に15対0の3回コールド負けをした相手チームだ。

リベンジの気持ちで現役に試合を託した。

 

 

4対2でリードしていた9回の表、2アウトで2塁3塁。相手バッターがライト前のヒット。

3塁ランナーに続いて2塁ランナーもホームへ突入。

ライトからの見事な返球で、一瞬同点かと思った瞬間、タッチアウトでゲームセット。

同点を阻止した捕手の突き上げる右手、同点を信じてホームに突入した選手が倒れこむ。

一塁上でヒットを打った選手と傍らのコーチのうなだれる姿。

私はおぉーと大声で吠えるように、複雑な気持ちで写真に納めた。

4対3。56年ぶりの見事なリベンジ・シーンだった。

 

 

 

続いて3回戦の相手校は都市大付属高校。

 

 

これも手堅く5対2で勝った。

今この原稿を書いてるときに、鎌倉は小雨や大雨の中、八王子で行った試合で

松が谷高校が勝った。

明日の4回戦の相手校も同じ都立だ。

さてと都立同士の試合は、いったいどうなることだろう。

 

【そして……】

 

 

雨の心配をよそに、立川球場では予定通り12時半から試合は始まった。

連投の相手投手に手こずりなかなか打ち込めない。

まず我々が先取点取れば、有利に展開ができると思ったが、

4回に1点取られた。

6回に同点のまま息詰まる展開。

 

 

8回に大事なところで相手のエラーで逆転。

9回にも1点取り、3対1で勝ちました。

 

 

おかげさまで、西東京のベスト16.快挙でした。

 

| team-mamiya | from-mamiya「その他」 | 22:09 | comments(0) | - | - | - |
【再掲載】 この療養所に入るとハンセン病患者は一生外部に出られなかった。

 

最近、ハンセン病元患者の家族が差別を受けたことに関する裁判で国が責任を認めた。

裁判の結果、政府は控訴しないことにした。

 

このことを受けて、この春に清瀬にある「国立ハンセン病資料館」のある『多摩全生園』を訪問した話を、ここに再掲載する。

 

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「今日の吟行句会を企画した幹事は偉いわね。花鳥風月でなく、ちゃんと生と死を考えている」

早朝出かける私を玄関で見送り、家人はひとこと言った。

 

『まだん』という俳句連がある。『ソウル俳句会』の帰国仲間が中心の会だ。

「まだん」とは韓国語で「庭(ひろば)」と言う意味になる。

 

 句会の幹事の貫(ぬき)韓山先生。

 

今日の吟行句会は西武線沿線の清瀬にある「国立ハンセン病資料館」のある『多摩全生園』。

この療養所はハンセン病患者の収容施設だ。

 

 

らい病は今や死語になったが、昔はハンセン病患者は一度療養所に収容されると、

一生そこから出ることはできなかった。

 

ハンセン病は感染力が弱く遺伝もしない。今では適切な治療で完治する病気だ。

平成8年の「らい予防法」廃止まで、国の隔離政策が続き差別と偏見を助長してきた。

設立時は武蔵野の雑木林が生い茂る中、東京ドーム8個分の広い園内は3万本の樹木がある。

あまり、よく知られていないが、ここには、とてもむごい歴史が刻まれている。

患者の居住地の周りには深い堀が掘られ、内側はその土で盛り逃亡を防止した。

居住地の周りには、いまは背の高くなった樫の木が植えられている。

 

 

 

園内には静かな街並みの中、教会、お寺、神社と、いかなる宗教も受け入れた地区がある。

 

 

には風呂の設備や、いまは使われていない図書館もある。

ハンセン病は、現在は治療法も確立されて、早期発見と適切な治療で、

後遺症を残さずに治すことができる。

 

 

しかし、今なお、ハンセン病の後遺症などで療養所に居住している方が相当数居住しているという。

 

 

住居には政治家のポスターなどがあり、ある意味で生活感もある。

 

 

春の日差しの中、介護スタッフに守られて散歩されている方を見ると、

母の高齢者ホームの施設を訪問したような錯覚を覚える。

 

ハンセン病資料館の中は、むごい生活を表現した模型や、患者をサポートする器具など展示してある。

すべて撮影禁止になっている。

 

親や兄弟と一緒に暮らすことができない。

実名を名乗ることができない。

結婚しても子供を産むことができない。

一生療養所から出て暮らすことができない。

死んでも故郷のお墓に埋葬してもらえない。

 

むごい歴史包まれたハンセン病療養所の資料館を訪ねた。

 

 

近くには面会人の宿泊所もあった。

ここの電話ボックスには、電話機がまだ残っていた。 

 

 

平成8年に「らい予防法」は廃止されたが、まだ問題はいろいろと残っている。

複雑な気持ちを感じながら資料館を出て、参加者全員で記念写真。

句会場へ向かった。

 

 

私の気持ちに重なった仲間の句を勝手に選んでみた。
見送りはここまでとあり樫若葉 
癩という一生ありし新樹かな

命継ぐ蒲公英の絮天高く

望郷の丘にさまよふ黒揚羽

樫の木に悲しき話若葉風

絶望の中で生きるや春の果て

捨てられて故郷遠き赤つつじ

全生園歩む患者に若葉風

電話無き電話ボックス黙の春

積年の怨みをはらむ梅古木

なりんぼうは今無き言葉春の風

 

 

緑立つメタセコイヤは秘話語る 武舟

 

| team-mamiya | from-mamiya「その他」 | 15:38 | comments(0) | - | - | - |
美咲が葦木ヒロカに名前を変えてジャンプ姫に。日本中、軽キャンパーで一人旅へ。

 

 

美咲さんは信州原村で行うイベントに、いつも毎回のように、

若いシンガー・ソングライターとして参加してくれた。

 

 

初めてで、一緒の思い出は2009年9月に八ヶ岳農場で行った「エコライブ 八ヶ岳農場音楽祭」。

緑の芝生の上で加藤登紀子さんを2000人の聴衆が迎えて行った音楽イベントだった。

新人時代のマーク・アキクサ君と茅野市在住の美咲さんが見事に前座を飾った。

 

 

次に関わったのは農場の食材で企画した駅弁、「八ヶ岳農場 鶏めし にわっとり」。

JR信州キャンペーンに参加して、茅野駅でも毎日売られて人気の駅弁になった。

駅弁を企画した私たちが記念に創った「にわっとり音頭」。

作詞は私、音楽家で原村仲間の森ミドリさんが作曲してくれた。

 

2010年秋のことだ。歌手の美咲さんが村の仲間のお囃子に乗って、

元気よく歌い上げてくれた。

この収録の模様も地元の新聞社やテレビ局が取り上げてくれた。

 

 

八ヶ岳農場で毎年秋に開催される「まるごと収穫祭」のゲストで勢い良く、

「御柱祭」の歌を披露してくれた。

若い頃は信州の駅前で路上コンサートで歌っていた。根性がある女性だ。

 

 

最近の活動は、「歌姫チャンネル」というフェースブックでの画像配信によるイベント。

毎晩10時30分から小一時間、ヒロカが日本中からゲストを迎えて、

語りあい、ゲストもヒロカも画像配信する中でともに歌うのだ。

ゲストは、ほとんどが日本中の若いシンガー・ソングライターだ。

 

現代のデジタル化時代で行う画像配信イベントを、365回配信し1年間完走したという。

 

 

 

次なる企画がすごい。『ジャンプ歌姫 軽キャンパー(軽自動車のキャンピングカー)で、

日本中を一人旅する。

全国各地の仲間と心通う旅仲間となり風光明媚な『ジャンプの聖地』を探していく。

人生まるごとをかけたプロジェクトを展開する。

 

 

かつて「鎌倉―ソウル2328キロ」の徒歩の旅をした私と生きた知恵の情報交換だ。

 

下北沢のコムカフェ「音倉」での記念イベントに伺った。

夜の部は「歌姫合唱団」と歌姫チャンネルのゲスト出演者を厳選したメンバーで、

構成されたボーカルグループと歌う。

 

「安木節」から始まって、「虹の力」「スターズレインボウ」「おかえりなさい」

「千年森の物語」「瑞穂の大地」「ジャンプ・ザ・ワールド」「ありがとう」

精力的にソロ、歌姫合唱団と歌いつくした。

 

 

ひとつの県を4,5日で回り、「ジャンプの聖地」を探しながら、

2020年5月に信州に戻る計画。

無事帰ることを祈り、カエルのキャラをヒロカエルというイメージで頑張るようだ。

 

 

毎日ジャンプの自撮り写真の素敵な映像を期待したい。

 

 

 

私の80日の徒歩の旅とは違い、地方地方で仲間を募り歌のイベントして歩く(走る)計画に脱帽である。

湘南にいつ現れるかわからないが、その時は一緒に騒ぎたい。

 

| team-mamiya | from-mamiya「その他」 | 10:00 | comments(0) | - | - | - |
心は野球少年。最高は古希の選手もいる豊多摩マスターズ。

  

 

「マスターズ甲子園」とは、全国の高校野球OBが、世代、甲子園出場・非出場、

元プロ・アマチュア等のキャリアの壁を超えて出身校別に同窓会チームを結成し、

全員共通の憧れであり野球の原点でもあった『甲子園球場』で、

白球を追いかける夢の舞台を目指そうとするものだ。

 

都立豊多摩高校野球部OB会も活動の一部として「マスターズ甲子園」に

2014年に単独チームとして参加し、すでに4年が経った。

今年の東京地区は我々のブロックの日大二高、武蔵、中大付属の4チームを始め、

強豪の修徳、日大二高はじめ全東京で23校が参加している。

 

 

初戦は対中大付属が相手だ。

朝9時半から立川の日大二高グランドで対決した。

昨年まで、わずか1勝しかしていない。

なんとか初戦はモノにしたい。

勝てなかった時の負けていた悔しさと、勝ちを知ってからの負けの悔しさは

余りにも違う。メンバーにもその悔しさがあるはずだ。

そして、全員が勝つために立ち上がり動き出した!

今年は、予選リーグ2勝し、決勝トーナメントに進出し、優勝して甲子園を目指したい。

決して夢ではない。

 

 

ピッチャーの好投、バッターの粘り強い選球眼、バッティングはジャストミートが多い。

守備も内野ゴロは安心、6−4−3のダブルプレイも危なげなく見せてくれた。

外野フライは、すべてナイスキャッチと申し分ない。

打って良し、守って良し。いつの間にかそうなったのか。

 

 

硬式ボールの練習場は確保に難しい。

一昨年から新しい発想で軟式野球を取り込んだ。

元勤務先の後輩が所属する軟式リーグ「タヌキリーグ」への参加だ。

砧球場か世田谷球場で週末のナイターも参加が可能だ。

砧が主戦場なので「タヌキ」なのだ。

試合ルールは面白い規則で、いったん後退した選手も、再度出場できる。

打順は9番までだけでなく何人でも打席に立てる。

つまり全員がバッターボックスに立てる。

 

 

このメリットは監督の水沢さんが先輩後輩の選手の戦力把握ができる。

選手は野球を楽しめて、全員が野球勘を取り戻せる。

 

 

熱心な後輩が別のところでの早朝のグランド確保でチーム練習の機会を作った。

場合によっては紅白戦もできる。

そんな経過でマスターズの試合に集まってくる仲間が30人前後になった。

試合は、前半は35歳以下が中心、後半は35歳以上で試合を行う。

最近は35歳以上になっても試合が前述の理由でボロボロにならない。

 

 

水島監督と有望選手の黒田君の誕生日にわがチームは3対16で初戦を飾った。

 

 

次の試合は6月9日(日)朝8時半に江戸川球場で日大二高と当たる。

ぜひとも試合に勝ちたい。

 

 

ここまで書いている私は、すでに硬式野球は無理。せいぜい軟式野球がいい所。

なんせ、往年の三塁手の私は、守備位置のサードからファーストまでボールが届かない。

左側の吉田君は唯一の現役選手だ。

豊多摩マスターズでも、母校の六大学OB戦で神宮球場でも投げている。

 

後輩の野球少年たち、がんばれ。私は写真班で頑張る。

よろしく頼む。

 

| team-mamiya | from-mamiya「その他」 | 13:51 | comments(0) | - | - | - |
天皇陛下のお出まし。生まれて初めての一般参賀。進んで止まっての繰り返し。

 

今年はめずらしい初めての体験が続く。

英国人とドイツ人のお客様の鎌倉ご案内。

先週はハンセン病の療養所の訪問と吟行句会。

今回は令和の御代に初めての皇居の一般参賀に参加した。

令和が我々にとって良き日になることを祈り、生まれて初めての一般参賀だ。

 

 

鎌倉をほぼ始発に近い電車で東京へ向かう。

7時半に皇居到着。すでにたくさんの人が行列を成している。

 

 

まず皇居外苑で列の最後に並び少し進み、じっと止まる。しばらくして少し進み止まる。

この繰り返しが続く。周りの人と何気ない軽いおしゃべりが始まる。

だんだん外気温が上がってくる。人ごみの中で上着が脱ぎにくい。

 

 

セキュリティーのテントの前。空港と同じように厳しい手荷物検査。

そのあとは空港同様のボディチェック。

 

 

 

この後は番号ごとのグループになりじっと待つ。看板は5番だ。ここが我慢のしどころだ。

皇宮警察から熱中症を避けるために水分を取るようにと…。しかしトイレの問題がある。

開門時間が早まり910分に動き出した。

我々の5番も、やがて皇居正門から入場、なだらかな坂を人波につながって歩く。

 

 

お堀の向こうの遠くに二重橋を歩く行列が見え始める。すでに10時前。

一回目のお出ましの時間が近づいている。まだ宮殿までは少しありそうだ。

私は2回目の11時のお出ましには間に合いそうだ。進んでは止まるの繰り返し。

 

 

二重橋を渡るときに下の方を見ると皇居広場に大勢の参賀客が見える。

 

 

宮殿東庭へ門をくぐると、あの初めて見る長和殿が見てきた。

 

 

すでに前庭には、たくさんの参賀客が並んでいるが、人の流れに乗って前に進む。

あのお立ち台のガラスのお部屋のほぼ真ん前で止まり、自分の参賀の位置を確認する。

お出ましまで、まだ40分もあるが、じっとしてカメラテストなど準備。

大きなスクリーンの案内文は日本語、英語、中国語。韓国語はない。

 

 

場内アナウンスとともに定刻、私たちの前に天皇陛下、皇后陛下がお出ましになった。

秋篠宮皇嗣他、皇族の方々が色とりどりのカラフルなドレスで並ばれた。

 

 

周りでは「天皇陛下万歳」の声が聞こえ、日の丸の小旗が降られて、

ちゃんとお姿が拝見できない。

一斉にスマホなどのカメラの手が上がる。

案内役の声に続き陛下のお言葉があった。

あっという間に、おでましの時間が終わった。

 

 

次回のお出ましのために更に前に向かう方がいるが、

私は人の流れについて坂下門方向へ下った。

生まれて初めての一般参賀は長い時間待って、あっという間に終了した。

 

 

朝7時半から11時半まで4時間の人生初めての宮中参賀だった。

拝殿の真ん前に行けたのは幸運だった。

しかし、日の丸の小旗とカメラを撮る両手でほとんど陛下が………。

でも令和最初の貴重な体験だった。

 

 

多分、これからは自宅のテレビで一般参賀を拝見することだろう。 

なので、次なる人生初めての体験、または令和初めての体験を考えたい。 

| team-mamiya | from-mamiya「その他」 | 19:15 | comments(0) | - | - | - |
さば街道の小浜に行った。「さば街道」を歩くのではなく、「さば街道」を書いたからだ。

 

 

『かにかくに』という同人誌がある。

「かにかくに ひとはいふとも若狭路の後瀬の山の後も逢わむ君」坂上大嬢

万葉集に残る若狭の歌二首がおさまっている。

「かにかくに」とは、とやかく、あれこれ、いろいろ、という意味だ。

 

毎年春になると新宿のデパートで福井県物産展が開催されている。

「田村長」の田村仁志さんを、陣中見舞いがてら恒例の一献の夜が来る。

「今週中に原稿を書かねばならないんだ」酒席で言った。重ねて、

「間宮さんも、何か書いてよ」という流れで、急に寄稿することが決まった。

締め切りまでわずか3日しかない。

 

『日本のさば街道。韓国のさば街道』というタイトルで、

韓国にも日本と同じ「さば街道」があることを、広告会社の韓国赴任中に知った。

という書き出しで、約2000字ほどの原稿を寄稿した。

 

 

その同人誌第7号の発刊を祝う懇親会にわざわざ行くことになった。

小浜には「鎌倉−ソウルの徒歩の旅」でお世話になった方が、たくさんいるからだ。

久しぶりに会えたらうれしいなという気持ちで、すぐに参加を申し入れた。

 

 

二年ぶりの小浜駅。

前回は一昨年の5月GWの「さば街道根来峠越え」の京都まで一泊二日の歩きだった。

 

 

小浜駅前の「れんが亭」というビジネスホテルは、歩きのイベントごとにお世話になる宿だ。

 

 

懇親会までは時間があるので「田村長」のある和泉町商店街を訪問。

 

 

海辺の「若狭おばま食文化館」に行く。

食に関する展示物がたくさんあるのだ。ほんとうに久しぶりだ。

 

 

階の温泉で若狭湾に沈む夕日を拝むことにした。

 

 

湯につかり、いい気分になって、近くの懇親会の会場へ向かった。

なぜか私は同人誌の寄稿者として、今宵はゲスト扱いになっていた。

 

 

海の幸の寄せ鍋。茶碗蒸し、アマダイ、ホールの会長の手打ちそば。

食べきれないごちそうである。

 

ゲストスピーカーとして(私とさば街道との関わり)を、お時間いただきお話しした。

「鎌倉ーソウル2328キロを歩く」(講談社+α新書)を読んでくれた方もいる。

購読希望者の方は、その場でキンドルなど電子ブックを買ってくれた。ありがたい。

 

 

幹事さんが二次会もセットしてあった。

私も初対面の地元の方と打ち解けて飲んでいる。

 

 

地元の「ザ・ピーナッツ」のデュエットも飛び出した。

 

 

私も乗せられて何年ぶりかでカラオケ「北の旅人」を歌ってしまった。

まさしく「北陸の旅人」だ。

 

最後は円陣になって乾杯だ。

 

 

記念写真は撮ってもらったが、どなたがどの名刺かわからない。

ものの勢いというやつだ。

 

 

翌朝は元勤務先の後輩(朝倉君)とあった。

彼は10年前から地元にUターンで戻って、観光促進のプロジェクトの仕事をしている。

ようよう、結果が出てきたそうだ。

 

朝倉君が私と小浜(さば街道)のメンバーを結び付けてくれた。

おかげで、何年も続く「さば街道」イベントに結びついたのだ。

ほんとうに朝倉君のおかげだ。

 

 

帰りの電車の時間まで、彼の案内で近くの神武寺の桜を楽しんだ。

今回は、本当に小浜の仲間に、お世話になった旅であった。

ありがとう!

 

| team-mamiya | from-mamiya「その他」 | 17:10 | comments(0) | - | - | - |
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