戦場カメラマンの石川文洋さんは「日本縦断 徒歩の旅」=65歳の挑戦=(岩波新書)を
80歳の今年にふたたび実践している。
今年の7月8日、宗谷岬を出発した。関東に来るのはいつだろうと思っていた。
前回は日本海側を歩き、今回は太平洋側を歩いて、同じ徒歩の旅に再挑戦している。
石川さんとは60歳の時「鎌倉ーソウルの徒歩の旅」で同じ日本海側を歩いて、
偶然、続いて2軒も石川さんと同じ宿に泊まったり、
萩の手前で偶然同じおばあさんと30分もおしゃべりしたり、
そんな共通体験をしたことから、12年前からお付き合いが始まった。
お住まいが上諏訪なので八ヶ岳農場で行った『農場写真展』」の審査員長をお願いしたり…。
今回は、かねてから関東に近づいたら一緒に歩きましょうと約束していた。
2日前に「浅草の雷門」から9時に歩きはじめるという連絡があった。
石川さんは、ゆっくりした歩きであまり長い予定を立てない。
従って、みんなさんに迷惑を掛けないように一寸刻みで連絡が入る。
この日は日本橋をゴールにして、今年の最後の歩きになるという。
なんとか予定を空けて、浅草に向かった。
雷門の前では多くのマスコミが取材をしていた。
今日は卒業した「両国高校」の友人たちが雷門に来ている。
後で訪問する両国高校やゴールの日本橋に多くの同期生が集まってくる。
今日は晴天の空にくっきりとスカイツリーが、どこからでも、よく見えるのだ。
文洋さんも立ち止まってスカイツリ―を撮っている。
11キロのリュックを背負ってみた。
そのずしりとした重みは、私の旅の時の重さを思い出させた。
横網町にある震災記念堂に寄った。
1923年(大正12年)の関東大震災の被害にあった方々の遺骨が納められている。
また第二次世界大戦の一連の大空襲で被害にあった方々の遺骨も納められている。
親水公園でツーショット。
両国高校では平成21年に夜間部が廃校になった。
その同級生たちが祀った記念碑を囲んで当時の仲間が集まった。
清澄公園を抜けて、みなさんの待つ日本橋へ向かった。
「道路元標」の前で記念写真。
文洋さんは、とりあえず年内の歩きを、ここで中断して上諏訪で健康診断や正月を休んで、
新年になったら、ここ日本橋から再び徒歩の旅に向かう。
私は「鎌倉ーソウルの徒歩の旅」を80歳で再挑戦できるか考えてみた。
おそらく、体力気力では文洋さんにはかなわないと思った。
翌日は豊多摩高校野球部の先輩と同期が「東京六大学OB会(六球会)」の試合で、
慶應義塾野球部OBとして、神宮球場で試合に出るので応援に向かった。
石丸元旦さん(81歳)はサード。吉田正敏(74歳)は投手として出場する。
吉田君は3回無失点で明治を抑えた。あっぱれ。
ネット裏で考えた。
もしもこの野球部のユニホームを貸してもらえたら絶対にグラウンドに立ちたい。
昔、高校野球の一年の夏の大会で、この神宮のグランドでサードに立ったのだ。
あの長嶋茂雄と同じ位置で守ったのだから。
その翌日、私は表参道の宣伝会議「提案営業力養成講座」で教壇に立った。
広告会社の若者の前で「広告営業の役割について」2時間の講義をしたのだ。
フェイス・トゥ・フェイスの大事さを熱っぽく語った。
日本縦断も、神宮球場も、宣伝会議の教壇でも……
「老兵は去らず。まだ消え去らないのだ」。