中学生活は30名の仲間と楽しみ切った。
〈いしかわ先生〉はなぜかその中の5名を公立高校への転身を勧めた。
まず、何もしないでクラスでいたら、
私の性格からこのまま一生懸命勉強しないで和光高校へ進んだら、良い成績を取り続ける。
一度、公立高校へ行き勉強で揉まれる方が、後の人生にとって良いと判断してくれた。
同じように〈イナバ君〉〈ホリキリさん〉〈トクマさん〉〈アオキさん〉も、それぞれの理由で、
「青山高校」「新宿高校」と公立高校へ転出をすすめられた。
私は当時、杉並区に住んでいたので「西校」が候補だったが、
私の実力だと真ん中あたりの成績になるだろうと。
「豊多摩高校」ならばトップにいられるということで、
〈いしかわ先生〉に受験校を変えられた。
その通り受験したら、めでたく〈いしかわ先生〉のいう通りになった。
7組のクラス編成を成績順に編成された。
私はE組のメンバーになった。
学校が始まり、早速「硬式野球部」に入部した。受験校の野球部だ、
メンバーは18名しかいかいない。
「中学ではどこを守っていた?」
「サードです」
「ちょうどよかったサードがいないので君に任せた」
いきなり野球部では、ラッキーなスタートになった。
しかし、レギュラーなので練習は過酷だった。
帰宅すると丼飯を食べたら、すぐにバタンキュウだった。
勉強の(べ)のない毎日だった。
中間試験では後ろから数えた方が早い成績だった。
職員室に呼ばれた私は英語担任の〈スケモト先生〉から、
「コンサイスどれほど読み込んでいるのか。一日3時間は単語を覚えないとダメだ!」
と叱られた。
しかし、その時の私は勉強より楽しい野球部活動が中心だった。
もうじき開催される「夏の大会」の方が大事だった。
練習もレギュラーなので、それなりに厳しい練習だった。
マネージャーの〈イトウ君〉が、なんと開幕式の直後、
そのまま神宮球場の開幕第1試合を引き当てた。相手校は都立江戸川高校だ。
当時の東京大会は全校で150校しかいない。
開幕式の直後、一番外側に整列していた我が校は、
〈豊多摩高校、回れ右、そのまま一塁側ベンチへ〉
〈江戸川高校、回れ左、そのまま三塁側ベンチへ〉
〈その他のチームは後ろ向きに、そのまま退場口へ〉
「豊多摩高校、守備練習7分」のアナウンスの元、選手はグランドに飛び出した。
守備についてみるとネット裏は関係者で満席、一塁側観客席も頬満席だ。
グランドは豊多摩校のグランドとは大違い、鏡のようにまっ平だ。
(ここにあの長嶋茂雄が立っていたのだ)
いきなり考えた。
守備練習のノックを打つ先輩も、なぜかあがっているのかノックに力が入る。
ボールは私の股の下をスッとすり抜ける。
2度目も同じ光景だ。
3度目は(ションベン座り)で、なんとかボールを受ける。
こんな感じで試合は始まった。
私は7番サードだ。
結構打順が回ってきた。
「豊多摩高校野球部70年記念誌」によると、その日は4打席2安打の記録がある。
2年生の夏の東京大会は神宮第2球場で対雪谷高校。
今度も抽選運がよく、神宮第2球場での試合になった。
昨年の開会式直後と違って、平穏な雰囲気での試合になった。
私は1番サード、同期の吉田は5番投手で出場。
投手は3年生の田中さんに交代も、2対8で敗戦。
受験進学校のために、私は親父との約束で2年生の夏で野球部を退部したが、
秋の新人戦で吉田の好投で豊多摩はベスト32校のシード校になった。
吉田にチームに戻ってくるように誘われて親父に頭を下げてチームに復帰したが、
みんなが好意的に迎えてくれたのはありがたかった。
キャプテン吉田の意向が伝わっていたのだ。
当時キャプテンだった吉田が、間宮が戻ったので間宮をキャプテンにして、
自分は投手に専念したいと発言。
当然、(出戻りの)私は断ったが、では選挙をやろうとなり少数差で私がキャプテンになった。
吉田の温情に感謝した。
3年生の夏の東京大会はシード校なので3回戦から出場。
立教球場で対専大京王を迎え撃つ事になった。
どうしたことかエースの吉田の乱投で0対15の3回コールド負け。
すごい記録となってしまった。
こうして私の野球部生活は、あっけなく終わった。
さぁ、これからは大学受験生活が始まる。
何も勉強していなくても志望校は一橋大学社会学部だ。
あの、憧れの石原慎太郎の在籍していた大学だ。
「一橋学園」予備校へ合計3年も通うことになった。
いつも模擬試験では「有望コース」「最有望コース」成績を収めたにもかかわらず、
最終的には2浪として慶應義塾大学商学部に入学した。
慶應義塾大学では「硬式野球部」の門を叩くことは無かった。
]]>
【修学旅行の思い出】
あのころの和光中学校の修学旅行は東北旅行だった。
記憶にあるのは中尊寺を中心に毛越寺などを巡った。
上野発の夜行列車だった。
30人のクラスなので、団体専用ではなかったので、夜が更けてもなかなか、
おしゃべりが終わらない。
とうとう最後には他のお客さんに、
「うるさいぞ」
と叱られる有様だった。
夜は宿での枕投げは、誰も教えてくれなくとも結構大声で遊んだ。
当然、担当の〈いしかわ〉先生に毎回怒鳴られたのも当然だ。
中尊寺
毛越寺
写真を見ると記憶が甦るが、現場では、おしゃべりばかりしていたのだろう。
コロナが明けたら、タイミング見てドライブでもしてみたい。
なぜか花巻駅で、みんなで食べたうどんが懐かしい。
花巻鹿踊り(しし踊り)
この群舞は、よく覚えているが、おそらく太鼓の音なども印象深いものに違いないが、
記憶から飛んでいる。
観光会社の担当者は当時の実力俳優さんの〈伊藤雄之助〉にそっくりだった。
何処に行っても結構、彼は受けていた。
現在、〈伊藤雄之助〉という名優は残念ながら知られていないだろう。
【まだまだ・・・】
高尾山登山
妹たちも一緒だった。
多分、写真を撮ったのは、案内役の父だった。
どこまで行ったサイクリング。
冬には冬のスキー旅行。
結構、遊びに徹していた。
【新しいジャケット】
話は違うが、親父の故郷、特に法事のごとに伊勢市はよく行った。
僕の着ているジャケットは母が父の古く着なくなった背広を、
生地をほぐして新しいデザインで作ってくれた。
他には襟付きの背広スタイルの上着もある。
妹二人には、お揃いのワンピースも器用に作っている。二人が間違わないように、
姉のワンピースにはダミーのボタンがついていた。
母親の気遣いに、写真を見て気がついた。
妹たちは、その違いのあり方を感じていたのだろうか。
隣に居る祖母は父の母〈しず〉さんだ。
写真を撮ったのは、おそらく父に違いない。
【すがい君の家族】
映画俳優で監督の菅井一郎さんの長男〈にちと〉君は家も近くクラスメートだった。
ある夏、我が家が千葉館山の米良海岸で遊んでいると、なぜか菅井一家もそばにいた。
「これは奇遇だ!」
カメラを撮っているのは菅井監督、その写真を撮っているのが〈にちと〉君だ。
夕方になるまで一緒に遊んだ記憶がある。
かつて菅井一郎さんが監督をした第1回監督作品「泥だらけの青春」(1954年:作品)。
調布の日活撮影所の野道で我々はスケッチする子供で出演した。
僕たちは10歳のころだった。
僕たちの後ろには、若き〈三國連太郎〉が若い女性と散歩をしながら、
僕たちのスケッチを覗くシーンだった。
僕たちは「ヨーイ、スタート」の監督の掛け声に、改めて緊張しながらスケッチを続けた。
こうして、私は和光中学校を卒業することになる。
その後2006年と2007年の個展に訪れて旧交を暖めた。
その〈にちと〉君は写真家になったが。残念ながら、多くの作品を残して早逝した。合掌!
]]>(*)しばらくなんの連絡もなく、ブログ作成をサボり、ご心配をおかけしました。
小学校時代の僕は30人前後のクラスで「昼行灯」と言われたが、
中学生になり、大きく変わったと周りから言われた。
(*)私の結婚式にお招きした担当の(いしかわ先生)が披露宴のスピーチで、
昼行灯が栴檀は双葉より芳し。
中学生になって間宮君は大きく変わったと持ち上げてくれた。
中学生生活で、記憶に残るトピックスは、
・野球部に参加
・館山の遠泳合宿
・浅間山登山とテント合宿
・生徒会長立候補
写真がたくさん残っているものと、1枚もないものある。
【野球部に参加】
4年生から始めた野球は、中学生になりすぐに入部した。
小さな和光学園では、グランドは同じ場所。
サードの塀の向こう側は大きな「豚小屋」がある。昔の風情だ、
ファールボールを拾うとボールは糞だらけになる。
ポジションはサードを希望したが、1年上に(つちや・ゆう)さんが、
どっしりとかまえていて控えにもなれない。
ピッチャーは、やはり1年上に(かどわき・くにすけ)さんが、
エースとして存在してマウンドは譲らない。
ショートは2年上に(しょーじ)さんが、軽快に守っている。
なぜか私は(かどわき・くにすけ)さんの、球を受けるキャッチャーになった。
背番号は2番。
背番号が5番になったのは3年生からだった。
たまに行う若手男性教員との校内試合も楽しかった。
大人なので動きが早く力強い。
野球は下手でも当たると飛ぶ。
手が抜けない相手だ。
特に〈いとう〉先生は4番でピッチャーだ。
今でいう二刀流の大谷選手のようだ。
背が高く運動神経が良い。
女生徒にも人気があるので、観客は増える。
校庭に裕次郎が現れたような人気が上がる。
すると裕次郎ももっと力が入る。
僕にとっては楽しい試合だった
【館山の遠泳合宿】
小さな和光学園の校庭には、もちろんプールが無い。
東京教育大学(現:筑波大学)のプールで水泳部のコーチから訓練を受けた。
夏になると館山にある東京教育大学の〈北条寮〉を合宿所して5泊6日の水泳訓練を行った。
僕はプール練習では25m泳ぐのが精一杯だった。
館山では東海汽船の桟橋から海への飛び込みから始まる。
結構な高さだ。見た感じ5m以上はあるだろう。
目を瞑って飛び込んだ記憶がある。
当時の僕たちの遠泳は鷹の島から北条海岸へ3km組と、
沖の島から北条海岸へ6km組に分かれていた。
(現在は、もう少し短いコースを安全に泳いでいる)
僕はコーチたちの特訓の結果、1年生で鷹の島組に選ばれて3km泳いだ。
2年生になり沖ノ島組に選ばれて6km組メンバーとして泳いだ。
3年生では沖ノ島組の6km組メンバーとして先頭で真ん中を泳ぐ〈遠泳リーダ〉になった。
生憎その日は台風の影響で波が荒くなり、6組組はわずか男女9名に絞られて、3人のOBと泳いだ。
もちろん教育大の水泳部のメンバーが9名に学生を守るように周囲を囲むように泳いでくれた。
いくつもの和舟では先生が方向づけしてくれる。
「目指すは那古船形観音!!」
和舟の上で〈おおもり〉先生のスピーカーから声がする。
こちらも(エンヤコーラ)とリーダーの声に、(エンヤコーラ)と仲間が返してくれる。
何度も繰り返し大きな波の中を泳いだ。
こちらは大きなうねりの底にいるので那古船形観音は見えない。次のうねりが来て、
うねりのトップに浮き上がると、すべての仲間の泳ぐ姿が見える。
目指す那古船形観音とみるか見えるが、それは一瞬の事で、すぐにうねりの底へ。
こんな事を何度繰り返している。
こんな状況の中でもコーチかこおり砂糖をひとりずつに配ってくれた。
数時間この繰り返してついに、無事に北条海岸に着いた。
皮下脂肪のない私は、浜に着いた全身痙攣でガタガタしていた。
コーチ達にバスタオルに包まれでマッサージを受けた。
小さなコップでブランデーを飲ませてくれた。意識が戻った。
周囲に気がつくと女性の〈とくま〉さん、〈あおき〉さん、先輩コーチの女性は、
みんな浜をぴょんぴょん飛び跳ねていた。
こんなに違うのはなんなのだろうと単純に感じた。
1951年に開始された和光中学校の一大イベントは形を変えながら70年以上も続いている。
【浅間山登山とテント合宿】
中学になって僕たちのクラスは希望者だけ、軽井沢の〈ほりきりさん〉の別荘を借りて、
テント合宿と浅間山登山をすることになった。
クラスのイベントではなくて、〈ほりきりさん家族〉と先生の関係がよく、
自然発生的なものだと感じていた。
男の子達6人は庭にテントを貼り、そこで寝泊まりする。女の子達6人は別荘に泊まる。
一度は外でBBQなど信濃だろうが、全く記憶がない。
翌日はあまり天気も良くなったようだが、雨模様ではない。
男の子たち6名だけ浅間山登頂に挑戦するとになった。
当然だが、街からはバスで登山コースまで乗って、〈いしかわ〉先生、〈いとう〉先生に
道引かれて登山コースへ向かった。
到着日はみんな長袖だったが、登頂姿はそれより軽装だったので、
そんなに気温は低くはなかったようだ。
浅間山に関しては、これ以上記憶が出てこない。
【生徒会長立候補】
「昼行燈」だった私は、なぜ中学に2年生なって「生徒会長」に立候補することになったのだ。
今思い当たるのは私が〈館山遠泳合宿〉が原因だと思う。
もともとそのような気持ちはなかったのだから。
25mしか泳げなかった私が、いきなり鷹の島3km組のメンバーになって、
〈北条海岸〉まで泳ぎ切ったことが、学園の中で大きな話題になった。
合宿の目的は単に水泳技術を学ぶだけでなく、合宿計画を一年がかりで計画し、
生活リーダがグループをまとめて総合運営を目的としている。
私のグループでは、その精神でまとまった行動をしていた。
最初はプールで25mしか泳げない私が、あれよあれよと鷹の島3キロ組に入り込んだ。
2年生ではなんと沖ノ島6キログループで遠泳隊長として全員をリードして泳ぎ切った。
学園としても遠泳合宿の一つのケースとしてとり上げてくれた。
それだけではなく〈親和会〉。
いわゆるPTAも私の行動も〈館山遠泳合宿〉の活動の大きなシンボルになると評価してくれた。
当の本人は確かに自分に自信ができて、少し行動が変わって来たなという自覚はできてきた。
誰からの直接の応援か覚えていないが、気がついたら講堂の演台で出馬演説を説いていた。
(たまに夢に見る)結果は当選した。
1年間の生徒会運営を始めることになった。
(*)だいじな案件は「親」、「生徒」、「先生」の3身一体で討議して決めるのだ。
町で売っている菓子パンの一部は校内販売所でも売っていいのではないなどの議論で、
最後は一部の菓子パンも販売所で売れることになった。
期中で野球部に対する予算配分が緩すぎることが問題になったりしたが、
〈つちや〉野球部長が丁寧に説明してことなきを得た。
いくつかの提案もできて、無事任務終了になった。
(*)これに関しての写真は一才ない。
この写真は一年先輩の〈かどわき・くにすけ〉さんとの打ち合わせの写真をみつけた。
『中学生明日に生きるもの』のカット写真で見つけたのは、
決して野球部予算についての談合ではない。
彼はのちに和光学園の同窓会副会長を務めて、さらに学園評議員を務めた。
残念なことに早逝された。
野球部のピッチャー交代を引き受けられなかったが、副会長、評議員を学園から依頼されて、
卒業生枠として、昨年まで25年もの長い間、学園の課題解決の努力した。
その間、若い教員に〈昔の和光〉の良さを伝えてきた。
鶴川小学校の日韓姉妹校とお付き合いには、鶴川でも韓国浦項においても全て参加させて頂いた。
私か鎌倉市パートナシティ提携の漕ぎ着けた安東市の近郊に浦項があった。
]]>どちらも電車で通う小学校だった。
〈松沢幼稚園〉で電車通学に慣れたと判断したのだろう。
和光学園は〈玉電下高井戸〉からふたつ目の〈玉電山下〉で、
小田急〈豪徳寺〉から下りに一つ目〈経堂〉までの通学だった。
二つの小学校の〈成蹊学園〉は
京王線下高井戸駅から上りに一駅の〈明大前〉で井の頭線に乗り換え、
終着駅の〈吉祥寺〉まで。
その日は雨だった。駅から学園まで10分ほど泥んこ道の往復だった。
〈和光学園〉の方が、同じように乗り換えはあるが、少し近いことも理由だった。
〈成蹊学園〉の方が学園までは泥んこ道の印象が良くなかった事は記憶していた。
一方、和光学園の場合は駅から商店街を歩き「カモメベーカリー」の角を、
曲がり農大(東京農業大学)までのアスファルト道の農大通りの途中に、
小さな〈和光学園〉があった。
「どちらも合格しているが、どっちが気に入った?」
父は私に聞いた。
「和光学園!」
答えた理由は学園までの道のりの違いにあった。
確かに、〈成蹊学園〉までは並木道で自然感にあふれていたが泥んこ道だった。
そんな違いでアスファルト道の和光学園を選んだ。
〈和光学園〉は、簡単に説明すると〈成城学園〉の父兄が、
ある教育理念で揉めて、事情が重なり〈玉川学園〉と〈和光学園〉に。
分解し三つの学園に分かれた。
ともに当時は中学校まで一貫教育だった。後に高校までの一貫校に、
最後は長い時間をかけて大学までの一環教育の学園になった。
ただ、小田急線の駅名に「成城学園」「玉川学園」はできたが、
「和光学園」は「経堂」のままである。
まっ、どうでもいいことだと思う。
和光学園の校門にはよく見えないが「子供の成る木」という大きな木があり、
休み時間には子供たちがたくさん木の登り、
始業時間になっても子供たちは木から降りて来ないと有名な話があった。
入学式は大きな講堂で行い、記念写真は学園の前提に生徒、父兄、先生が一緒に写っている。
この時、母は病弱で父が父兄として参加してくれた。
左側後列3人目の背広姿が父だ。
私の位置は説明してもわからない。
自由な環境の中で個性重視の教育を求めた親たちが集まり、
1933年11月10日に、東京都世田谷区経堂に教職員7名、
児童数33名の小さな私立の学園を作った。
1934年4月から、正式に「和光」という学園名の私立学校となる
老子の言葉にある、「和光同塵(わこうどうじん)」からとったとされている。
僕が入学したのは1950年だから、創立26年に入学した。
まだ学園は、まるでマッチ箱のような小さな学園だった。
副担任の野辺先生。
3年生に成るときにそれまでの1組と2組が同じクラスになった。
私はまだ「昼行灯」のような目立たない存在だった。
後列右から3人目。坊ちゃんがりが長い髪になっている。
(*)中学校になって「便所の100ワット!」と言われるほどになって、
「生徒会長」にまでになった理由は次回に譲ります。
小学校で記憶のあるのは、勉強合宿、遠足や体育祭など。
体育祭の最後に当時父は学園の理事をしていたので、
前庭の台に立ち最後の挨拶とスピーチの最後に「和光学園バンザイ!」と大きな声を発した。
この時は二人の妹も4年生、2年生で全生徒の中で3人揃って、
顔を下げて恥ずかしい思いで並んでいたのだ。
クラスの前で「アラジンとふしぎなランプ」を朗読をする私。
特に珍しい記憶の記憶は、和光学園がコア・カリキュラムの実験学校になり。
1950年にはコア・カリキュラム連盟(現、日本生活教育連盟)の実験学校となった。
小学校の卒業式。正門が新しくなっている。
後列の木村先生の右横にネクタイ姿の私。
全生徒で30人弱だった。
私の背景に冒頭に説明した「子供のなる木」がしっかりと見えている。
1954年には日本最初の「ユネスコ協同学校計画」の参加6校のひとつに和光中学校が認められる。
特に驚いたことには授業中に多くの外国人が見学に見えたことだ。
自分たちはその授業の準備をしたのだ。
この先は中学時代の記憶(思い出)の次回掲載に譲ろう。
]]>
一般に幼児の初めての記憶が、そのまま大人まで維持できる年齢は3歳から4歳からだと、
前々回のブログで書いた。
まさに、その時の写真は4歳の私なのだった。
5歳ごろの写真も出てきた。
少し、おすまし、母の手編みのセータ。
この頃の母は、毛糸を染め替えて3人の子供に手編みのセーターを作り、
親父の古い背広をほどいて私の背広なも作ってくれたものだ。
私の進路の幼稚園は父が丹念に調べて、父が選んだ松沢幼稚園に電車で通うことになった。
2年間の間、日常の幼稚園での活動は、ほとんど覚えていないが、
いくつか今日まで、しっかり覚えていることがある。
まず、その前に松沢幼稚園とはどういう幼稚園なのか、
京王線の上北沢駅から徒歩数分にあり園庭の大きな幼稚園。
賀川豊彦先生の創設した教会と幼稚園とだけ、頭に入っているだけだった。
これがクラスの写真なのだろうか。
男の子が6人、女の子が10人
なぜか男の子だけの写真が写っている。
全部で14人の男の子。年少さんは、ふたクラスだったのだろうか。
担当の先生はオサダ先生。
私はなぜか〈オサラ先生〉としか言えなかった。
〈オサラ先生〉の前に私、その二人左が〈ホッタ君〉
上段の一番右が〈カゲアキ君〉、左から2番目が〈エンドウ君〉。
〈エンドウ君〉は地元の高井戸第3小学校へ進学したと覚えている。
後に友人になる(ヨシダマサトシ)からよく聞く名前だった。
なぜ苗字だけ覚え、なぜ名前だけ覚えているのかは、その差はよくわからない。
親しさの差でもないだろう。
とにかく幼稚園に徒歩圏内で通っているのでなく、
多くの園児は京王線に乗って集まってくる。
現在の地元のママ友と一緒に狭い範囲で通ってくる地元仲間の人間関係と、
少し異なるのかもしれない。
改めて〈松沢幼稚園〉を調べ直した。
1931年に世田谷区の松沢村に賀川豊彦先生が〈松沢教会〉と〈松沢幼稚園〉を創設した。
創設当時の松沢幼稚園。
1949年、私は創設して18年目に入園したことになる。
私が通いはじめた幼稚園は、このような小さな教会でも教室でもなかった。
その頃には賀川豊彦先生の偉業に対して海外から当時は珍しい〈パイプオルガン〉が、
贈呈されていて、私も教会の礼拝堂にあるオルガンの美しい音色を神妙に聞いていたに違いない。
我が家は京王線の下高井戸駅を北側にある商店街を200mほど歩き、
まだ砂利道の甲州街道をわたり、滔々と流れる玉川上水の橋を渡り、
側道を道なりに下り、大きな田んぼの手まえに家があった。
駅から子供の足で10分は掛かった。
●入園試験。
覚えている話です。
試験場には沢山の色の積み木が、山のようになっている。
ヨーイドンで、白い丸い積み木を取ってくる。
次に白い四角い積み木を取ってくる。
最後に白い三角の積み木を取ってくる。
○の積み木は「府中」行き。
□の積み木は「京王多摩川」行き。
このふたつは各駅停車で「上北沢」に停まる。
三角形の積み木は「東八王子行き」で準急は上北沢には停まらない。
この識別テストだった。
見事に私は素早く、条件通りの積み木を取ってきた。
そして合格したのだ。
(写真は京王電車のHPから借用させていただいた)
●水のみ場事件。
広い園庭にはジャングルジム、ブランコなどあり、
大きな木の木陰には噴水式の水飲み場がある。
昔もこんな感じだった。
ある時、その水飲み場にいくつもの木の実が落ちていた。
「やーい、うんちだ。うんちだ」と騒いだ。女の子は嫌がって先生に言いつけた。
私はオサラ先生に呼ばれて礼拝堂に連れて行かれた。
神様の前で謝るのだ。それも小さな口に絆創膏を×点に貼られて、何もしゃべれない。
多分、大きな声で泣いたのだろう。午後になって母が礼拝堂へ駆けつけた。
これは後々、母からも何回も聞かされたので、全て原体験が実体験化して詳しく覚えている。
●鯨の肝油ドロップ。
賀川豊彦先生が、幼稚園から帰る前に一人ずつに鯨の肝油ドロップを口に入れてくれた。
当時の食生活では欠乏しがちなビタミン類を補うのに利用されていたのだろう。
八角形でザラ目砂糖がまぶしているようだったが、味は特別に覚えていない。
二人の妹も鮮烈に覚えていた。
●かわいいレイコちゃん。
私の1級下にフランスキャラメルのような髪の毛がクルっとしたレイコちゃんがいた。
髪の毛は黒いし、目も黒目。ただのイメージ写真だ。
いつも一緒に遊んでいたわけではない。
ある日、レイコちゃんは授業中に(おもらし)したようで、おうちに帰ることになった。
1級上でも、なぜか家の近い私が家に連れて帰ることになった。
(おもらし)の下着をビニール袋に入れて、なぜか私が持つことになった。
女の子の手を繋ぎ、京王線の「桜上水駅」で降りて、
甲州街道をわたり、側道を降りた頃がお家だった。
確かに我が家には近かった。
家まで手を繋ぎ、黙々と黙って家まで歩いた記憶は鮮明に残っている。
下の妹が「アネがその〈レイコちゃん〉とは仲が良かったはず」と。
すぐ下の妹に確認すると、確かに1年下の妹は1年上のレイコちゃんと仲が良かったと聞いた。
とにかく賀川豊彦先生が暮らし始めた当時は松沢村だったので教会も松沢教会、
附属の幼稚園は松沢幼稚園。
後年に先生の活躍や遺品を偲んで建てられた、
資料館を含めて地域風景資産に選定されている。
賀川豊彦先生は世界の著名人とともに世界の平和運動に貢献し、
ノーベル平和賞候補に4度推薦された。
タイミング見て、故郷を偲ぶように〈松沢幼稚園資料館〉に妹たちと3人で訪問してみたい。
数枚の写真から、今回はこんな話が浮かび上がってきた。
今となっては父母に聞けない話ばかりだ。
]]>
私が生まれたのは終戦のほぼ1年前だ。
前回のブログで幼児の初めての記憶が継続して、そのまま大人まで維持できるのは、
3歳か4歳という。
こんなことを記載した。
写真からの記憶。1、2歳の幼児の頃なので全く記憶にはないのだが…。
父の故郷は伊勢。母の故郷が佐渡で親戚がある時、全員で東京に移って来た。
母方の墓地は多摩霊園にある。
季節ごとに親戚が多摩霊園に集まることになっていた。
当時の我が家は杉並区の下高井戸にあった。
下高井戸駅から京王電車で多摩霊園駅まで行き、そこからはバスで多摩霊園に行く。
私が車を運転する頃までは、家族で電車に乗って向かったものだ。
〈断・捨・離〉中のアルバムの1冊目には幼児の頃の写真がなぜか少ない。
「天上天下唯我独尊」の写真は一番記憶にある代表的な写真だ。
この写真は〈多摩霊園〉で撮ったものだと母から聞いていた。
しかし、どこを探しても見つからない。
机の中に別に大事にしまっているかなと。
何処を探しても見つからない。
ある時、ふと2冊目の大きなアルバムを開いてみたら、
なんとこの1P目に幼児時代の写真が、たくさん出てきた。
やっと見つかった。
私が幼児時代の写真は1冊目の小型のアルバムにあるはずだと、
思い込んでいたからだ。
最初に見つけた写真は、〈多摩霊園〉で、私がほぼ1歳になるかどうかの頃だ。
でも2本足で、立派に立っている。
1冊目のアルバムは〈日本短波放送〉から私の大学時代のラジオドラマが、
コンクールで入賞し短波放送で40分ドラマとして放送してくれた記念だ。
2冊目のアルバムは、それより遡って中学生の頃にNHKラジオの番組で天文台長に、
人工衛星撮影カメラの前でインタビューをしたときの記念アルバム。
つまり、大学時代の後半から溜まった写真を、
手元にある古いアルバム帳に整理し始めたと思われる。
中学生になるまで、長い間同じ家に住み、
隣の少し大きな家に買い替えたので、
家の周りの景色は変わらずに、全て私の記憶にあり、
いま思えば懐かしい昭和の風景だ。
天上天下唯我独尊の写真と同じ頃、いろいろな幼児時代の写真があった。
父が戦地から戻り、その流れで私が生まれた。
この頃の父は戦地と同じ坊主頭である。
まだ府中にあった軍事施設に通っていたからだ。
終戦間もないのに、父は家の周りや家族で出かけたときに、
幼児の私を何枚もシャターを切っていた。
将校とはいえ戦火を逃れて帰還し、
平和な時代を感じて、よほど我が子の写真を撮りたかったに違いない。
しかし私はそんな父親の行動を覚えているわけがない。
その後も父はカメラを持って、たくさんの写真を撮ってくれた。
この後も家の周りでの写真、家族で出かけた時の写真が、
たくさんアルバムの中に収容されている。
子供の写真をカメラの収めるというこの血は、今、私に立派に引き継がれている。
なにしろ我が家は文字通り〈マミヤカメラ〉だからな。
こんな調子で、この後も幼稚園時代のこと、小学生時代のこと、中学生時代のことと、
時代が進むごとに、写真を整理しながら、徐々に思い出に更けることだろう。
しばらくは、この回想録にお付き合いください。
]]>
1年越しの〈モノレールサミット〉が、先日ようよう開催された。
早速、家から徒歩15分の会場へ向かった。
会場は湘南モノレール「湘南江の島駅ビル」だ。
すでに会場の前は、多くの鉄道ファンで溢れかえっていた。
午後からの鉄道系タレントによりイベントが始まっていて、大変な賑わいだ。
入場するにも、一苦労だった。
入り口に広報の〈いしかわさん〉が、来場者の整理をしている。
おかげでスムースに入場できた。
この〈モノレールサミット〉については、昨年に遡って説明する。
当時、我々の鎌倉のプロジェクトは観光庁の助成金を得て、
さまざまな鎌倉の観光活性化の活動を行っていた。
コロナ禍の影響で〈鉄道、宿、飲食店〉が大きな打撃を被っていた。
観光庁が具体的な解決案を求めていた。
良い活動案には多額な助成金が与えられることになっている。
助成金獲得の条件は〈鉄道、宿、飲食店〉が、
一つのグループになって申請することになっている。
我々のプロジェクトは宿が主体で、すでに周囲の飲食店とは連携をとっていた。
残るは鉄道。
江ノ電か湘南モノレールか。
ちょうど湘南モノレールは〈東京2020オリンピック〉のラッピング広告を行っていた。
オリンピックも終わりに近く、ラッピング広告も終わりに近かった。
タイミングよく我々プロジェクトのラッピング広告の提案がマッチングして、
湘南モノレールと連携を組むことができた。
我々のプロジェクトの知名度、日常の活動を理解してもらい、
活動の認知度を上げるために、鎌倉で有名なイラストレーターの、
〈かおかおパンダさん〉を起用してラッピング車両を走らせることができた。
このラッピング車両は、3ヶ月間、大船から湘南江の島の約7キロを、
空中を駆け抜けた。
おかげさまで我々のプロジェクトのネーミングも浸透した。
一方、湘南モノレールは、大船〜湘南江の島全線開通50周年の記念行事として、
全国からモノレール、新都市交通システム、地方鉄道を集結して、
鉄道系タレントを起用したトークショーなどで、
鉄道の関心や理解を深めてもらう事を企画準備した。
開催場所は〈鎌倉芸術館〉でかなりのスペースで行われる。
ところが初開催となるサミットは、コロナ禍の感染症の影響で、
実施寸前で断腸の思いで延期を余儀なくされた。
そこで今年、湘南モノレールは、改めて第1回モノレールサミットを企画した。
リターンマッチとか、むしろリベンジの気持ちだったろう。
今回は〈湘南江の島駅ビル〉を利用することに変えた。
物販展示イベントに参加するのは、
湘南、大阪、多摩都市、東京、北九州、千葉都市の各モノレール。
横浜シーサイドライン、伊豆急行、大井川鉄道、黒部峡谷鉄道、
しなの鉄道、銚子電気鉄道、IGRいわて銀河鉄道などの鉄道22社。
私自身も、多摩都市モノレール、伊豆急行、黒部峡谷鉄道、しなの鉄道など、
いくつかの鉄道を楽しんだ思い出がある。
懐かしい社名だ。
これに加えて〈鎌倉ビール醸造〉、〈高久製パン〉なども出店する。
鉄道系タレントがトークショーを行う。
これも昨年から準備した企画だが、
私はほとんど知らない世界。
一部熱烈ファンには、極上のメンバー企画と言える。
・南田祐介さん(ホリプロマネージャー)
・吉川正洋さん(ダーリンハニー)
・岡安章介さん(ななめ)
・田中匡史さん(鉄道番組ディレクター)
私は2日目の午後から会場へ向かった。
モノレールについて熱く語るスペシャルトークショーが、
すでに1階のステージで行われていた。
私は昨年11月末に、ある理由で2年間活動していたプロジェクトから離れていた。
なので、少し複雑な気持ちを抱えながら、穏やかな気持ちで一般の観客として会場へ向かったのだ。
まず2階の展示会場から歩き始めた。
会場の中は足の踏み場もないほど、混雑していた。
2階の会場から1階のステージは覗けないないように設計されている。
2階の会場は、江ノ島電鉄、京急電鉄、伊豆急行、銚子電鉄、しなの鉄道以外に、
私の知らない若桜鉄道など鉄道各社のブースが並んでいる。
エスカレーターで3階へ移動する。
多摩都市モノレール、東京モノレール、大阪モノレール、横浜シーサイドライン、
湘南モノレールのモノレール各社のブースが並んでいる。
湘南モノレールの運転台シュミレーターに子供が群がっている。
子供たちは、さながら本物の運転手の気分で、興奮してモノレールを運転している。
さらに4階へ移動する。
大井川鉄道、明知鉄道、樽見鉄道、養老鉄道、樽見鉄道、黒部峡谷鉄道など
魅力ある鉄道が軒を並べている。
鉄道ファンは現地に行かなくても、ここで現物の記念品を買うことが出来る。
このフロアだけでも本州1周ができそうな気分だ。
フロアには出店者や、出演を終えた鉄道タレントが個人的に回遊しているのだが、
熱烈ファンは見逃さない。
立ち止まって会話を楽しんでサインを求めている。
私のような鉄道音痴の人間も、ワクワクしてくるような雰囲気だ。
流石に1時間ほど会場にいると疲れてきた。
屋上の空気を吸いたくなった。
丹沢の山が見えている。
ちなみに今年はテーマを変えてラッピング車両を走らせている。
最後にこのイベントを仕切っている広報の(はなかさん)を見つけて、
お仕事の邪魔にならない程度情報交換をした。
2日間、温暖で晴れていた事が、何よりだと思い、会場を後にした。
後日、地元新聞によると、2日間で約1万人が来場した。
駅ビル内では鉄道22社が出店ブースを設置。
ストラップ、タオル、メモ帳など各社オリジナルの鉄道グッズが並び、
乗務員が実際に使っていた車両の部品など販売する会社もあったと記事にしていた。
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新年を迎えて4週間あまりが経った。
そして喜寿を迎えて半年近くになろうとしている。
御多分にもれず、〈断・捨・離〉の作業が進んでいない。
新年から生まれ変わったように取りかかろうと思い立った。
すでに現役時代に着ていたスーツ類は徐々に減らしていった。
小さめのクローゼットに変えたために、思い切って処分ができた。
宣伝会議の講義や、広告の仕事上、元勤務先の後輩の幹部社員に会う時でも、
クールビジネスで済ますようになった。
相手の方々もクールビジネスなのだ。
ノーネクタイの機会が多くなったので、ネクタイもずいぶん捨てた。
海外出張や韓国赴任時に、デューティフリーショップで、
アホみたいに求めたブランドネクタイも惜しげなく捨てた。
スーツにしてもネクタイにしても〈断・捨・離〉を決めたら、判断の速さで対応できる。
さて、残した本の収容は小さな本箱に買い換えるか。
本箱に入れる本は、できれば背表紙が見えるように置きたい。
新しい本が手に入ると、1冊が押し出される事になる。
新旧交代の戦いが始まる。
ところが、困るのはアルバムにあるプリント写真たちだ。
幼少時代、小学校時代、中学校時代、高校時代、大学時代まではすべてがプリントだ。
捨てがたいカットが、山ほどある。
全てが青春時代のキラキラした写真が多い。
一番多いのは家族との写真だ。ある意味で子供の成長記録になっている。
段ボールにして少なくとも3、4箱以上あるだろう。
枚数は数えていないので相当な枚数になるはずだ。
デジタル化に時間がかかるが、覚悟している。
同じようなタイミングの写真は、象徴的な1枚に絞ることにする。
これでだいぶ整理ができるに違いない。
まず手掛けたのは書斎兼寝室のベッドの位置を変える事だ。
続いて書斎デスクの位置、小物ダンスの位置変えが必要になる。
最初は部屋の中で一番大きなベッドの位置だ。
今までは南側にある大きな開き戸横に枕を東側にしてベッドを置いた。
雨戸を閉めていても冬場は外気に近いところで寝ていることになる。
それなので奥の壁ぞいに枕を北に向かって置き換えてみる。
東向きから北向きに変えるだけでレイアウトが変わり、部屋の雰囲気が大きく変わる。
〈北枕〉は一般的に縁起が悪いと言われているが、実は風水的には一番おすすめの方位なのだ。
地球の磁場の流れに沿っているので、良い睡眠がとれ健康運がアップする。
また、北の方位には「信頼」「落ち着き」などの意味がある。
今回は改めて枕を北にしてベッドの位置を決めた。
さて、アルバムの整理を始めよう。
一番古い幼少期のアルバムを、久しぶりに開いた。
1枚目には1歳くらいの私が写っている写真。
もちろん、写されている記憶はない。当たり前だ。
次に目に入ったのは、眩しそうな笑顔の自分がこっちを向いている。
これは、いつ撮られたか、よく覚えている。
父が社員旅行に連れて行ってくれた熱海温泉の宿屋での朝の写真だ。
「武美、こっち向いて」と父。
差し込む朝日が眩しい。我慢して笑った。
一般的に幼児の初めての記憶が、そのまま大人まで維持できる年齢は3歳から4歳からだという。
まさにこの写真は4歳の私なのだ。
赤子が家族の顔を見て笑うのは、その記憶があるからだ。
しかし、その記憶は長くは続かない。
繰り返し繰り返しの記憶で反応している。
何かの本で読んだことがある。
写真の整理や本の整理は、中身を見始めると中々作業が進まない。
誰でもがそうだろう。
この熱海の写真がそうだった。
多分、次回のブログでも一枚一枚の写真の思い出が作業の手を止めてしまうだろう。
しばらくはお付き合いのほどを、ご勘弁いただきたい。
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扇屋さんは、〈江ノ電もなか〉でも有名だ。
今日の主人公はお嫁さんの杉並夏子さん。看板娘の一人だ。
お父さんが、夏が好きでサーフィンが好きなので、
夏のようにキラキラ育って欲しいと夏子になった。誕生日は冬なのにと笑った。
夏子さんの実家は近くの江ノ電通りの一角。
お店とは目と鼻の先で育った。
モンタナ幼稚園、腰越小学校、腰越中学校、七里ヶ浜高校と根っからの地元っ子だ。
町内のご縁もあって1999年に結婚した。
ご主人は杉並善久さん。
結婚して夏子さんはお店に出た。
それまでは父、母にご主人の兄で、お店を切り回していた。
お父さんの杉並久雄さんは、まだまだ元気ですぐにお嫁さんが継いでくれるとは考えていなかった。
結婚以来20年以上、お店に出ている。
扇屋さんは、最初は目の前の龍口寺の門前に構えていた。
門前にある石碑は天保6年(1835年)に建造されたという。
その石碑に門前扇屋長四郎の名前が彫られている。
最近、「藤沢市商工会議所70周年(2017年)」に、
藤沢市内100企業から選ばれて創業100年以上のお店として選ばれた。
お店には明治30年(1897年)に撮影された写真に、
門前にあるお店が写っているのも証拠の一つだ。
それ以前の写真は現存しないので約126年前には、
確かに門前にあったのだ。
その後、江ノ電通りが拡張されたのに従い、まず三叉路の真ん中に一旦移り、
昭和9年、約89年前に現在の位置にお店が移ったのだ。
写真で追いかけるとわかりやすい。
「写真を見ていると、昔をイメージするのが本当に楽しいです」
夏子さんは微笑んだ。
平成2年3月まで走っていた江ノ電651号車の車両が引退した。
601〜651号車は、在籍:昭和45年〜平成2年までだった。
引退後601号車は生まれ故郷の東急電鉄世田谷線の宮の坂駅横に、
当時の活躍の生き証人として保存されている。
私が海外赴任から帰国後、俳句会仲間で松陰神社の句会で訪ねた時に、
私はこの風景を見ている。
「こんなところに江ノ電が・・・」と記憶に新しい。
また651号車は、江ノ電の当時の社長から廃車になるのでと、
目の前の扇屋に譲られて、お店の店先にお面だけの状態で鎮座している。
それ以来、この651号車はちょうど、目の前を走る後輩車両たちの活躍を、
毎日見守っている。
この一件は当時、お父さんの久雄さんは本当に喜んでいたと聞いた。
その後、やはり引退した江ノ電車両のパンタグラフを、
息子さんの善久さんが譲り受けて、屋根の上に飾っているのだ。
江ノ電本社が昭和50年(1975年)に、今の所に移転した。
以来、扇屋の斜め前に江ノ電本社がある関係で、
このようなご縁が起こったのかもしれない。
何も知らない観光客は〈江ノ電が飛び込んだお店〉と、
信じている方が居るようだと夏子さんは笑いながら説明してくれた。
扇屋の毎日は、特別な注文がある時以外は、朝5時には仕事が始まる。
餡子づくりは前の日から始める。
〈江ノ電もなか〉の(あんこ)と、〈片瀬饅頭〉の(あんこ)では〈こしあん〉〈粒あん〉で、
それぞれ(あんこ)が違うという。
・江ノ電=粒あんが入ったもの。
・チョコ伝=漉し餡が入ったもの。
・赤電=梅あんが入ったもの。
・青電=胡麻あんが入ったもの。
・新車=柚あんが入ったもの。
・新しく登場した車両=抹茶あんが入ったもの。
自家製ならではの、丁寧に手の込んだ作りである。
ほぼ9時には店頭に並ぶように準備している。
土日は観光客も多く、また天気により、季節によっても作る量は変わってくる。
とにかく全商品が〈ナマモノ〉なので、大量生産とは訳が違うのだ。
午後遅くなってお店に来たお客様が、目指す商品が売り切れでも、
せっかくだからと言って、ショーケースにある商品を買って帰るのである。
お客様は、本当にありがたいと夏子さんは説明してくれた。
●他のお店のようにデパートなどに置かないのですかという質問に、
「主人(善久さん)は、お店に置いて貰うために手数料を払うくらいならば、
その分、品質を守るために、コストを掛けてしっかりと作りたい。
このお店だけでの販売が一番良いのだ」
という考えだと夏子さんの説明だった。
●この取材中に地元のお客さん、観光客と商品を買いに来るのを見ていると、
〈江ノ電もなか10本入り〉〈片瀬饅頭〉がどんどん売れている。
直接聞くと自宅でのおやつ、知人への贈答用とそれぞれだった。
●このお店での1番の人気商品はとの質問に夏子さんは、
「よく聞かれるのですが、父(久雄さん)は、自分の子供が全て可愛いように、
分け隔てなく育てたいと、よく言っている。だから、こちらからは答えないのです」
お店のコンセプトとか姿勢がわかりやすい。
さらにデパートなどで買って貰うよりも、とにかく江ノ電に乗って、
この店まで買いに来て欲しいのだと久雄さんは考えている。
お店と江ノ電の強いつながりを感じた。
今後もこのままで良い。明日が食べられたら良い。
店を大きくしたり、デパートに置いたりすると、どこかに歪みができる、
商品づくりのこだわりにも限度がある。
手作りを大事に、小豆、砂糖、粉、米など、できるだけ良いものを選んでいると、
常々言っているそうだ。
御多分に洩れずにコロナ禍での苦労は、並大抵のことではなかった。
東日本大地震の時は、計画停電に悩まされたが、
今回のコロナ禍では、流石の鎌倉も観光客の激減はすごかった。
腰越は何かとお祭りの多い街だ。
主なものでも1月には腰越漁港船祝い、4月には義経祭り、7月には腰越天王祭、
9月には腰越漁港港まつり。
特に腰越天王祭の最終日の神幸祭では、龍口寺前の三叉路で江の島の八坂神社の神輿と、
腰越小動神社の二つの神輿同士がぶつかり合う。
ちょうど扇屋の店の前だ。
山のようにお客さんが集まった。
その腰越の祭りがコロナ禍で3年間も全て中止になった。
少しコロナ禍がおさまったのか、この年末には、まとまった注文があり、本当にありがたかった。
今のお店になる前の頃の写真で、「元祖 片瀬饅頭本舗 扇屋」という看板が見える。
お寺の参詣者が買い求めるのだろうが、
店頭には龍口寺の御住職らしい方も、何か買っている。片瀬饅頭に違いない。
大正中期の日本の普通の姿が見られる。
〈江ノ電もなか〉は昭和60年(1985年)に誕生した。
東京からも観光客が狙うように買いにきた。
東京には〈都電もなか〉が人気あったという。
明治44年から昭和40年代まで都民の足として慕われていた都電を、
何とかして形に残したい。 そんな思いで考案したのが、この〈都電もなか〉だ。
〈都電もなか〉は昭和52年(1977年)に商品化されている。
〈都電もなか〉が、少し兄貴分のようだ。
龍口寺で開催される「龍口テラス」の時に、龍口マルシェで、
〈消難まんじゅう〉を販売していた。
湘南エリアと消(しょう)難(なん)で難を消す。
〈しょうなん〉をかけた楽しいネーミング。コロナをぶっ飛ばせという感じだ。
その時に好評だったので、今ではお店で通年販売している。
餡の味が甘すぎず、上品な味がした。
このほかに9月の龍口寺で行われる法難会では〈難避けぼた餅〉を販売する。
龍口寺と日蓮聖人はご縁が深い。日蓮さんが連行されるときに〈桟敷の尼〉という
尼僧が黒胡麻の〈ぼた餅〉を食べさせてあげたということが由来している。
そんな時に、お留守だと思っていたお母さん(芳子さん)が、お店に戻ってきた。
最近足の怪我をしたのでリハビリに通っているのだ。
私がぜひ、夏子さんと並んで写真を撮らせて欲しいとお願いしたところ、
「少し待っていてください」
とお店の奥へ入っていった。
「二人で撮るならば、いつもの格好にしなくては」
並んで撮影に応じてくれた。
写真ひとつでも、プロの意識を感じた。
「この子は、お嫁さんなんだけれど娘みたい。良い娘だから助かるの」
この仲の良さが、お店のファンづくりに繋がるという。
決して職人イメージをチラつかせない。
お店の江ノ電を撮っても良いですかと、遠来のお客様に言われると、
「この電車は動かないので、慌てないでゆっくり撮ってね」
そういう雰囲気がお客様を、大事にしている証拠だ。
表通りの信号がカンカンとなると、今度はあちらから(こちらから)来るので、
写真を撮ったらいいですよと芳子さんは勧める。
時刻によって鎌倉方面か、藤沢方面がわかるからだ。
また、芳子さんは夏子さんに伝えた有名な話があると聞いた。
「なるべく、近所の方でも名前は覚えないほうが良いよ」
観光客や名前も顔も知らないお客の手前、知っている方と知らない方の間で、
差別をつけた感じを出さない方が良いということだ。
例え知っていても、その方へ名前で対応しないことだと。
ちょっと気が付かないポイントだった。
お母さんの芳子さんは昭和12年生まれの85歳の現役看板娘だ。
母嫁で二人揃って〈看板娘〉なのだ。
お店は不定休なので、夏子さんは家族で旅行の思い出はないとニコリとした。
お店の中にはたくさんの賞状が、ところ狭しと飾ってある。
「神奈川県指定銘菓」で昭和61年に〈江ノ電もなか〉が最優秀賞をいただいている。
インタビューを続けていたら、いつの間に夕方になっていた。
店の入り口に置いてある江ノ電の客席に座って、外を見ると江ノ島駅方面の向こうに、
夕焼け富士が見える。
江ノ電と夕焼け富士。
海岸で撮る風景と、また一味も二味も違う景色だ。
今日も店頭を飾る615号は、夕焼け富士に向かって走る後輩車両を、
優しい眼差しで見送っている。
小さなお店なのに、100年を超えるたくさんのエピソードを聞く事が出来た。
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コロナ禍の中〈鎌倉の四季歩き〉がママにならない。
この個人イベントを始めて、約15年になるだろうか。
〈鎌倉七福神巡り〉〈梅見歩き〉〈桜の鎌倉歩き〉〈紫陽花の鎌倉歩き〉〈紅葉の鎌倉〉
1年に5回もみなさんが鎌倉に集まるのだ。
常連メンバーが20人前後の集まりだ。
最初からのオリジナルメンバーに、同じ職場にいた(めぐりさん)がいる。
毎回、参加する鎌倉が大好きな仲間だ。
コロナ禍になって、自分たちは毎日仕事でたくさんの方に会っている。
(うつらないより「シニア」のみなさんにうつさない。
打ち上げで、お酒を飲むのは避けたい)と、この数年不参加が続いた。
『飲み会なしで、小規模で紅葉狩りはいかがでしょうか?
ただ、週末が思いのほか埋まっていまして。
12月17日になってしまいそうです」
健気な連絡があった。
私は対応できる。さて誰に声をかけようか。
最大で4人のウォーキングかな。
一番の候補者は、その日はソウル仲間との合唱の練習日で無理。
あれこれで結局4人が参加することになったが、
一人が前日になってキャンセルになった。
わずか3人だけの鎌倉歩きだ。
もう1人は、私の〈鎌倉からソウルまでの徒歩の旅〉の初日、
鎌倉から小田原まで一緒に歩いてくれた(たかはしさん)だ。
鎌倉の紅葉は年々遅くなっているが流石に候補は少ない。
観光案内所と相談して、大体、私のプラン通りのコースになった。
・まず鎌倉駅からバスで鎌倉宮へ。
夕方から小雨になるかもしれない。
スタートは時間の節約で鎌倉駅前から「鎌倉宮」までバスに乗る。
歩く時間の半分ですむ。
神社の周りでは見事な紅葉が迎えてくれる。
・そこから永福寺(ようふくじ)に向かい、脇道の小径をどんどん登る。
史跡永福寺(ようふくじ)跡は源頼朝が建立した寺院の跡。
発掘調査により見つかった。
建物に基壇や苑池などを復元して、史跡公園として公開している。
・獅子舞という渓谷の紅葉の名所まで登っていく。
最初は住宅街を抜けていくのだが、脇道が見え、そのままその小径をどんどん進む。
いくほどに自然感たっぷりの小径になっていく。
いつの間にか渓谷のような小径になり、足を滑らせないように気をつけて歩く。
20分も歩くだろうか、山の中を歩く感覚になる。
・多分、素晴らしい紅葉を楽しめるはずだ。
このコースを歩けば、鎌倉の紅葉のフィナーレを楽しむことができる。
久しぶりに鎌倉訪問の(めぐりさん)も満足してくれるに違いない。
獅子舞という谷は、意外と知られていない。
ここは鎌倉市の市有地ではないので、観光協会も紹介しにくいからだ。
観光地図にも紹介がない場合が多い。
目印は大きな岩で獅子の顔のように見える。〈獅子岩〉という名前だ。
岩全体ではなく、上の部分が獅子の顔部分だ。
言われると、そう見えるでしょう。
・そのまま登り坂を進んで(天園ハイキングコース)へ上がる。
〈獅子岩〉の周りで写真を撮り、また歩き始める。
しばらく登り坂を進むとTの字のつきあたりに出る。
この横切っている本線は〈天園ハイキングコース〉。
建長寺から瑞泉寺を結ぶ山脈型ハイキングコースだ。
貝吹地蔵?
覗いてみるとお地蔵さんが見えた。
我々は〈瑞泉寺〉を目指す。あと1.4kmともう少しだ。
・右方向は目標の(瑞泉寺)。鎌倉の奥地にある静かな寺だ。
瑞泉寺は鎌倉二階堂紅葉ヶ谷の奥に、夢窓国師によって建てられた。
風光明媚な環境の中に鎌倉時代末期に創建された。
私はこの寺が好きだ。どの季節に来てもハズレがない。
庭園の裏に大きなヤグラが見える。昔は僧が修行をした後が見える。
瑞泉寺の紅葉も鎌倉の秋の最後を飾るように輝いている。
・二階堂まで戻り(源頼朝の墓)へ。
翌日の18日(日)がNHKの「鎌倉殿の13人」の最終回なので、
普段には見られないほどの観光客で混雑している。
・その隣にある(北条義時の法華堂へ)
この隣地にある北条義時の法華堂は、今まで見たことのないような混雑ぶりだ。
最終回では義時がどのような最後を迎えるのだろう。
そんな想いで、集まってきたようだ。
やっぱりドラマでは義時の人気が凄かったと実感した。
法華堂はARでも偲ばれる。
とにかく、こんな大行列は見たことがない。
・大蔵幕府跡の碑を眺めて、一気に駅のそばにある妙法寺へ。
清泉小学校の敷地の角に大蔵幕府跡の碑がある。
そこから小町大路を一気に1キロほど南下すると、最後の目的地(妙本寺)に着く。
鎌倉の中心地にありながらも、ここ比企谷は多くの自然があふれている。
春の桜、初夏には蛍が舞い、播州には楓や銀杏の紅葉が彩を添えてくれる。
まだ、なんとか鎌倉の紅葉を楽しませてくれた。
妙本寺は元:比企能員の屋敷で、比企の乱で比企一族が北条氏を中心とする大軍に、
責められて滅ばされた地でもある。
比企一族の墓もある。
今回は、珍しい3人の紅葉歩きだったが、なんとか見事な紅葉を楽しむことができた。
約束通り(飲み会)は行わずに、温かいコーヒーで1日の総括をした次第だ。
年末、鎌倉を離れていたので、蔵出しテーマのような感じで掲載が遅れました。
大河ドラマの追いかけがすんだので、以前のように週1回を目処に、
楽しいテーマを探して、発信してまいります。
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2023年鎌倉の新春。とっても寒い。外気は5度もないだろう。
だけれど、天気予報の通り雲ひとつない良い天気になった。
この浜で見る初日の出は、ちょうど40年目になる。
数回、伊豆のロッジで、家族と元旦を迎えたことは除くと、
海外赴任中も、おそらく元旦は鎌倉にいた。
あけましておめでとうございます。
コロナ禍に悩まされたこの3年。
このままおさまって欲しいと思うのは、皆さんも同じ願いに違いないですね。
我が家から日坂(にっさか)を鎌倉高校正門まで登り江ノ電の踏切りに下る。
アニメの〈スラムダンク〉の聖地で、彼の国のファンで人だかりになるところだ。
国道134号線を渡ると、そこは初日の出の聖地でもある。
家からわずか10分足らずのところだ。
朝、6時52分三浦半島の山影から太陽が姿を現した。
ゴミゼロの浜を照らすか初茜 武舟
波打ちぎわまで、多くの人が出て、日の出を待っていた。
一瞬、周囲のどよめきのなかで、私は手を合わせて、自らの健康に、今まで以上に感謝した。
年末にちょっとした身体に問題が見つかり10日間ほど入院した。
体は正直ものだ。たった10日間で足が弱っている。
かつて〈鎌倉からソウルまでの徒歩の旅〉を実行した健脚が弱っている。
だから、余計に何げないこの一瞬を人一倍感謝した。
しかし今年はこの2年間には、見られないほどの人の数だ。
コロナ禍の前のような混雑ぶりだった。
すでに、この浜辺は、マスクをしていたが、
ウィズ・コロナのような日常感が漂っていた。
帰途は少しまわり道をして、小動神社に参拝した。
ここも、例年見ないほどの参列者が並んでいた。
腰越漁港から霊峰富士もしっかりと姿を見せている。
ここでもこの一年、無事に過ごせますようにと祈った。
帰り際に〈富士より高いビルディング〉のワンカットも撮ってみた(笑)
134号線沿いに、腰越仲間のかおかおパンダさんのイラスト壁画がある。
Sunshine for all.
昼からは長男家族がやってきた。
8歳、11歳のふたりの孫も久しぶりに会う。
ちょっと見ないうちに、大きくなった。
1日中、食べて、おしゃべりして、みんなでゲームを遊んで、また食べた。
夕飯は浜松の友人の店から取り寄せた鰻だ。
今日の徒歩は、わずかに約6800歩だった。
〈追記〉
後輩の年賀状で「久しぶりに先輩のブログを見たら、
NHKの大河ドラマを追いかけてばかりで、がっかりしました」と。
確かに、そうかもしれません。
鎌倉のあるプロジェクトに関わっていたために、
「鎌倉殿の13人」の番組と〈ドラマのゆかりの地〉を毎週掲載しなければならなかった。
「鎌倉から、こんにちは」の読者の皆さんは、
他のテーマだと最低でも200アクセスから500アクセスになるのだが、
このドラマは30から50アクセスしかいかない。
やめるわけにもいかずに48話(最終回)まで追いかけていた。
この結果は番組視聴率と同じようだった。
今年は、まだ鎌倉蟄居が続くものと思う。
〈あじ、サバ、回遊魚〉は難しいので、新しいシリーズを考えたいと思います。
今年も「鎌倉から、こんにちは」(略して〈かまこん〉)。
よろしくお願いします。
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12月20日の大河ドラマ第48話のブログを発信して、10日間鎌倉を留守にしていました。
一昨日帰宅して、早速、留守中の録画の中から〈グランドフィナーレ「鎌倉殿の13人」〉
を見ました。
とにかく今年は「鎌倉殿」に始まり「鎌倉殿」で終わったと言える年だった。
特にブログに掲載するために1話を最低3回は見直していた。
日帰りで往復できる〈ドラマのゆかりの地〉は、可能な限り訪ねた。
一ヶ所で3回行った韮山、三島、静岡など、自身素晴らしい思い出になった。
家では〈夕飯に帰ってくる徘徊老人〉と言われ、青春18キップのお世話にもなった。
おかげで急行は使えないが旅費をだいぶセーブできた。
伊豆では閉館時間寸前の〈北條寺〉などで、
「鎌倉から来ました。1日中、韮山を歩き、最後に北條寺を訪ねました。おしまいですか」
「えっ鎌倉からここへ?頼朝さまは伊豆から鎌倉へ行った方。では、特別に本堂へ」
と特別に本堂にご案内され、DVDもセットし直して見せてくれた。
これは伊豆では効き目のある殺し文句になった。
では〈グランドフィナーレ〉を振り返ってみよう。
この会場は大船にある鎌倉女子大の岩瀬キャンパス松本講堂。
座席数1300に対して観覧応募数は6万人を超えたようだ。
私も落選するのは当たり前だった。
ステージに登場したのは、小栗旬(義時)、小池栄子(政子)、坂口健太郎(泰時)、
宮澤エマ(実衣)、山本耕史(義村)、宮沢りえ(りく)、菊地凛子(のえ)の皆さん。
司会者「いらっしゃいました。北条家のみなさんです」
「クイズ形式の「お題トーク」で、みなさんお答え願いたいです」
この番組を応援してくれた全国の武衛の皆さんが、忘れないで欲しいことは。
「みなさんの応援の声は、私たちに届いていました。皆さんが見守ってくれて、
一緒にドラマを作っていたと思っています」
「さすが姉上」
「来年も一年大河ドラマを走ってほしいと言われたら」
「全然やれる。やります。やります。あと3年もやれる」
「そういえば、ここには最後まで生きていた方ばかりだ」
「どこかで、やり直しができたらとか、居なくなっても済むかもとか、
何度も正しい生き方になるまでやり直すとか」
「それぞれのスピンオフが見てみたいな」
「今回のようにすごい散り際を描いてくれるならば、さっさと死んでいたら良かった。」
「大河ドラマとは、花火をあげて散っていくのが普通。義村のように生き続けているのも醍醐味で、
まだ終わっていない感じがする」
「みんな散り際が格好良すぎる」
「最後まで死なないで欲しい登場人物の一位は」
「一位は難しいが、47話の義時の演説の名前を思ったら、この人がまだいたらと。
和田か、畠山か、どういう行動を取ったか。知りたい気持ちになる」
「畠山さんは、辛かったな」
「もし転生できるならば、政子が頼朝と結婚すると分かったら、止めていた。
伊豆の小さな北条家でいたら、めちゃめちゃ平和だったろう。
こんなに大変な権力の真ん中に放り込められなくてもよかった(笑)」
「頼朝が亡くならなかったら、あんまりドロドロしなかったかもね」
「それはあるかもね」
VTRの用意はないのですが、「鎌倉殿の13人」といえば、これというシーンは。
「自分が出ていないのですが、家族の悲しみ、苦しみのなか最後に集まって、
オンパラ・・・(全然言えてないよ)とか、北条家の家族が、そこから散らばっていく。
三谷さんらしい家族の良さを描いていたと思う」
「第1話の政子さんが頼朝さんと出会うシーン。キャピっとするシーン。あれが可愛かったな。
何者でもない娘だった頃の政子さん、素敵でした」
台本を受け取って、最も悩んだシーンはなんですか・
義村
「唯一、今日の最後の最後に、三谷さんからこのシーンは難しいです。
なんとかやってくれると信じていると言われた。すごい計算をした」
「りくさんが子供を亡くして、取り乱している姿見て、ようやく自分の苦しみがわかったと。
自分の気持ちに関係なく(すべて忘れて前に進みなさい)。本当にわかっていないなと思った」
クランクインした時に自分に言いたいことは。
「その日の自分に労いの言葉をかけるとダメになると思い、お前!結構ヤバイよ。
よく考えた方がいいよと言い続けた」
「めちゃ格好いい」
(*)ここからキャストたちは別室でスタッフとともにオンエアを見る。
「ご苦労様でした、小四郎」涙声。
小四郎に覆い被さるように寄り添う政子。ドラマが終わる
見終わって、小栗旬は後ろを向いてスタッフに一礼し、
「かっこいい終らせ方を撮ってくれて、本当にありがとうございました」
「これ、どの面して、ステージに戻れば良いのか、ちょっとわからないけれど・・・」
ステージ上でキャストのみなさんが余韻に浸っている。
「毒がはいっていなくてよかったね」
「そう、思いってすごい、本当に気持ちが悪くなった」
「小栗さんの肩が全てを語るようだった。背中の演技も凄かった」
「前の週までは元気な姿で出ていたので、1週間でご飯抜くしかないと。
何日も食べないでいようと」
「それなのに、美味しいパンなんか持って行ったの」
「あぁ、ありましたね。あれは、持って帰りました」
撮影の最終日の時だった。
みんなに挨拶する義時役の小栗旬。
「素晴らしい脚本と、素晴らしいスタッフに囲まれ・・・」
話し始めて声を詰まらせる小栗。後ろを向いて手で涙を拭い、
「チクショー・・・」
気持ちを取り戻して、
「本当に幸せでした。(ふぅーとため息)・・・それしかないです。本当に感謝しています」
(*)関西から大江広元役の栗原英雄さん。
札幌から頼家役の金子大地さん、トウ役の山本千尋さんがオンラインで参加した。
最後は懐かしい登場者が追悼されるように、次々と顔を並べる。
その瞬間、彼らが活躍したシーンが目に浮かんだ。
武家社会を作る話し、挙兵、権力を求めて殺し合いが続く凄惨なシーン、
時には人情が垣間見え、笑い声の中にユーモアに溢れ、三谷脚本が続いた。
しかし、今日のグランドフィナーレのステージは、家族の良さ、まるでホームドラマの、
打ち上げ会のような雰囲気だったと感じてしまった。
三谷幸喜さんの脚本作りの本当の狙いは、どこにあったのだろうか。
登場者の皆さんの言葉に反応して、表情を見て、VTR画面に涙ぐむ自分がいました。
本当に鎌倉は「鎌倉殿の13人」で始まり「鎌倉殿の13人」で終わる一年でした。
来年の「鎌倉から、こんにちは」は、しばらくはコロナ禍の延長で、
「アジ、さば、回遊魚」が困難で、鎌倉蟄居が続くと思います。
新しい企画の芯を立てて邁進したいと思います。
みなさん、良いお年をお迎えください。
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上皇は全国に義時追討を命じた。
鎌倉は徹底抗戦を選ぶ。
この国の成り立ちを変える戦乱が、目の前に迫っている。
(ドラマのプロローグより)
反目する北条義時を討ち取るために、義時追討の宣旨を出し、兵をあげた後鳥羽上皇。
「みんな、できれば戦いを望んでいない」
義村は冷ややかに見ている。
「なぜ、婿を止めなかった」
二階堂行政は、のえを叱った。
「良いではないですか。もしも太郎、五郎に何かあった時は、我が息子が執権に…」
「馬鹿者、その時、鎌倉は焼け野原じゃ」
「平家の失敗は、すみやかに追討軍に向かわなかった。すみやかに出兵すべきだ」
大江広元は強い口調で言った。
「その時は、この私が総大将になって…、こうなったのは、そもそも私のせい・・・」
義時が口火を切った。
「あなたは首を狙われてるの。ここに居なさい」
政子が遮った。
その時、三好泰信が会議に加わった。
「今こそ、議論をしている場合ではない、一刻も早く兵を出すべき」
大江と同じ考えだった。
「ここは、三善殿の意見に違いましょう」
政子の言葉で奮起し徹底抗戦を選んだ幕府は、大江広元や三善泰信の忠言を聞き入れて速やかに京へ派兵することになった。
泰時や、平盛綱らが先発隊として向かい、時房らが、これに続くことになった。
「泰時、鎌倉の命運、総大将はお前に託した」
義時は熟慮のあまり、泰時の肩を叩いた。
泰時は先陣を切り、わずか17人の兵を率いて東海道を京へ向かった。
その途上、北条の覚悟に感じ入った周囲の御家人たちが、次々と軍勢に加わった。
鎌倉勢は泰時出陣の後、東山道、北陸道からも京へと進軍し、総勢19万もの兵力に膨れ上がった。
後鳥羽上皇の近臣・藤原秀康は1万の官軍を率いて出陣していた。
鎌倉勢を都に入れまいとして宇治川で必死に戦う。
官軍は橋板を外して、京を死守するつもりだ。
「川を渡ろうとしても下流に流されてしまう」
「そんな時は、川上から入れば良い」
義村が自慢げに指示した。
「・・・やはり、あれしかない・和田合戦の時、家々の戸板を外して戦った」
「水中で筏を運ぶには鎧を脱がねばならぬ」
「今すぐ、筏を作れぇ!」
泰時が号令をかけた。兵は一斉に筏を作ることにした。
矢が飛んでくる。戸板が矢を防ぐ。
「ひるむな!!」
泰時の号令が飛ぶ。
義時は祈っている。
政子も祈っている。
「あれほど勝てると言ったのに何故?」
兼子は秀康を叱責する。
「敵の数を読み違えました。上皇様が戦に出れば流れが、一気に変わります」
秀康は上皇に懇願した。
「よし、わかった、わしが行く」
「ダメです。もしものことがあれば、どうなりますか。後白河様の言葉を思い出してください」
兼子が遮った。
小さな頃、直接聞いた後白河の言葉を思い出して考え込む後醍醐上皇。
「ここは、わしは出るわけにはいかん」
官軍は兵力の差と、泰時の作戦の前に敗北した。
「姉上、宇治川を越えたばかりか、ついに京に入りました。太郎が、やってくれました」
寝こんでいた政子に対して義時が伝えた。
「あの子は、そういう子です」
政子の言葉に重ねて実衣も、
「おめでとうございます」と。
御所では時房が後白河上皇を訪ねていた。上皇と会うのは蹴鞠以来だ。
「よう、久しぶり。時房。此度の大勝利、よくやった、見事だった」
わしを担ぎ出そうとした官軍を、よく倒した。褒めるぞ」
「時房、このことを義時によーく伝えてくれよ。時房、頼りにするぞ」
「後白河上皇様も、同じことを仰せだったな」
義時は泰時の文を読みながら懐古した。
「この言葉、お許しになりますか」
大江広元が確認するように言った。
京では泰時が後醍醐に会っている。
「我が父、北条義時の上皇に対して沙汰が届きました」
「隠岐へお移りませ。期日は七月十三日。以上でござる!」
「待て!待て、待て、わしは上皇でござるぞ」
「いやじゃ!思い知るがよい義時!」
泰時は勝ち戦に安堵したものの、その結果、朝廷を裁くという重責を担った。
「私が次の帝を決めるか、この私が…」
後鳥羽上皇は生涯、隠岐を離れることはなかった。
「太郎、先の戦いぶりは見事であった」
「見事な総大将ぶりでした」
「太郎、どうした?うかぬ顔つきじゃ」
「上皇様の一件は、あれで良かったのでしょうか」
「世のあり方が変わったのと、西の奴らに見せしめるためには、あれしかなかった」
「しかし、おかげで我らは、大悪人になってしまった」
「大悪人になったのは、この私だ。お前たちではない」
泰時と父・義時の会話だ。
義時は大江広元と協議し後鳥羽上皇を隠岐島に、その直系の皇族たちも各地に流罪とした。
さらに直孫の天皇を退位させ、後鳥羽上皇の甥を天皇として即位させた。
さらに泰時と時房を六波羅探題として京にとどめ、朝廷の動きや、さまざまな問題の対処に当たらせた。
義時は鎌倉に戻った泰時や時房から積もる話をしているときに、不意に昏倒した。
大事に至らなかったが、義時の後妻・のえが勧める薬草を煎じた物を渋々飲む。
戦いの恩賞として、東国の御家人たちに西国の所領を分け与えた。
これに西国の者たちが不満を募らせ、先の天皇を担ぎ出そうとという、怪しい動きもあるようだ。
「さっそく京で怪しい動きがあります」
「懲りない奴だ」
「わざわいの元は摘むのみ」
「都のことは私に任せてください、新しい世を作るのは私だ」
泰時は父、大江の会話に割って入った。
「やって良いことを、ちゃんと区別することだ」
六波羅探題で泰時は自信をつけたようだ。
「腹のたつ息子だ」
義時は自嘲的に言った。
「東国と西国を問わず。誰もが従うべき公平な決まりが必要だ」
泰時は考えた。
そこで武家社会の裁判規範として〈御成敗式目〉を制定することになった。
義時が運慶に作らせた「私に似せた仏像」が完成した。
「さんざ、待たせた挙句に、これか」
阿弥陀如来の胴に邪気の顔がついた像だ。
怒った義時は像を切りつけようとした途端、突然、目眩を覚えて倒れ込んだ。
「医者が言うには、誰かが毒をもったとか。誰が盛ったか気になる」
義時は茶を運んできた(のえ)につぶやいた。
「お前しか思い当たらない。そんなに家族を継がせたいか」
「執権が妻に毒をもられたとは、聞こえが悪い」
「二度と俺の前に現れるな」
義時は妻の(のえ)に訥々と言いはなった。
「もちろん、息子が後を継げないのならば・・・」
「出ていけぇ〜!」
その言葉に(のえ)は出て行こうとするが立ち止まって、義時にささやくように、
「言い忘れた、毒を手に入れてくれたのは三浦の義村」
(のえ)は、そう言い残して出て行った。
義時が小康を得た頃、三浦義村が顔を出した。
「まぁ、一杯やってくれ、のえが体に効く薬を用意してくれた」
「俺は体が丈夫なので、いらない」
「飲まないのか、他に飲まない理由があるのか」
「では、頂くとしよう」
義村は気のせいか、口が回らずに苦しんだ。
「これはただの酒だ」
義時の謎をかけた言葉の意味を理解して、仕方がなく答えた。
「俺の負けだ」
義時にとって義村は、幼馴染でもあり、盟友でもあった。
泰時への力添えを頼む義時に、
「これからも先、北条は三浦を守る」
義村は笑って言った。
義時の体調が悪化し、政子が見舞いに訪れた。
「たまに考えるの。先の人は私たちのことをどう思うかを」
「あなたは上皇様を島流しにした大悪人。私は身内を追いやって尼将軍に昇りつめた希代の悪女」
「それは言い過ぎでしょう」
と言いながらも頼朝から鎌倉を受け継ぎ、次代に繋いだ。
これからは、争いのない世が来るだろう。
「姉上は大したお方だ」
「そう思わないとやっていられない」
「それにしても頼朝様がなくなってから、多くの人が亡くなった。そりゃ顔も悪くなるはずだ」
義時はすでに鬼籍に入った顔を浮かべながら次々と名を連ねた。
その中に頼家の名前が入っていた。
説明を求める姉に話し始めた。
「頼家様は上皇様と手を組んで、この鎌倉を攻め滅ぼそうとした。
私が善児に頼んで死んでもらった。頼家様は最後まで自ら太刀を取って生き延びようと。
見事なご最後だったと聞いております」
「あの子はそう言う子です。ありがとう教えてくれて」
政子と語るうちに義時の最期が近づく。
「私には、まだやろうと言うことがある。なんとかしなくては」
「まだ、手を汚そうとするのですか」
「私は、全て地獄へもっていく。太郎のためです」
「私たちは長く生きすぎたのかもしれない」
「そこの薬を、姉上。まだ死ねない、まだ・・・」
「姉上……」
「ご苦労様でした。小四郎」
義時はじっと政子を見つめ、息を引き取った。
「鎌倉から、こんにちは」の間宮武美です。
長い間、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」におつきあいくださいました。
第48話の最終回まで、お付き合いいただきありがとうございます。
私も、大河ドラマを追いかけると言う初めての経験でした。
ゆかりの地の訪問も数多く体験しました。
家では〈夕飯に帰ってくる徘徊老人〉と揶揄されていました。
結構、疲れました。少しゆっくりさせていただきたいものです。
しばらく鎌倉を離れるので、「鎌倉から、こんにちは」休みます。
読者の皆さま、良いお年をお迎えください。
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現在、有名な鎌倉のドラマは「最後から2番目の放送」になってしまったが、
「鎌倉殿の13人」。あの有名な〈承久の乱〉は、まだ始まらない
収まったかに見えた義時と後鳥羽上皇の対立が、再び燃え上がる。
その火は、どちらかを焼くまで終わらぬほどの勢いとなる。
決戦が近い。
京で異変が起きた。
源氏の末流・源頼茂は、鎌倉の時期将軍が三寅に決まったことを不服として、
謀反を起こし内裏に火をつけて自害した。
内裏は燃えて宝物と共に焼け落ちた。
京の街が燃えてている。
「あれは内裏の方角、代々の宝物が消えてなくなるぞ」
後鳥羽上皇は驚きと共に、憎き義朝を思った。
「焼け残ったところを全て壊し、一から直そう。日の本から財を集めるのじゃ」
この一言が〈承久の乱〉のきっかけになった。
朝廷の象徴である内裏が焼け落ちると、後鳥羽上皇は再建費用を日本中の武士から、
取り立てることを決めた。
しかし、北条義時は政子、大江広元の支持を得て取り立てを先送りにする事を決断。
泰時を始め御家人たちが後鳥羽上皇との関係を心配する中、三浦義村は動いた。
後鳥羽上皇は内裏再建のために、御家人たちに費用の捻出を求めた。
おそらく、義時は命に従わず、御家人たちとの関係に亀裂が生じるだろう。
義時を嫌う後鳥羽上皇の計略だった。
「鎌倉の義時なくして世は治りません」
慈円が提言すると、
「私には日の本を治められないのか。私は決して鎌倉を許さん」
後鳥羽上皇は京都守護で義時の義兄・伊賀光季(みつき)を襲撃し、自害させた。
「これをもって、北条討伐の狼煙といたす」
義時は〈着袴の儀〉を行い三寅が鎌倉の新しい最高指導者と、御家人の前で示した。
数日後、三浦館に後鳥羽上皇の使者が現れ、義時追放を命じる院宣が三浦義村に手渡された。
義村が長沼宗政に話すと、自分にもすでに院宣が届いていると答えた。
「御家人の中には、義時をよく思っていないものもいる。
そうだ、私を頼ってくれば取り立ては免除じゃ」
義時は光季が描いた文により、後鳥羽上皇の挙兵を知って驚いた。
政子、泰時、時房、広元が御所に呼び出されて、対策の会議に加わった。
宗政も同席した。
「これは父上と御家人の間を割くことになる。上皇様の狙いは、そこだったのでは」
泰時は父に伝えた。
広元が後鳥羽上皇は有力な御家人に院宣を出しているはずだと考えを伝えると、直ぐに義村、
宗政が慌てて、院宣を差し出した。
調べると、八通の院宣が出されていることが分かった。
「これを見ろ。これは鎌倉に攻め込むのではなく、私を追討せよということだ」
自分のために鎌倉を戦場にはできない。
義時は泰時に鎌倉の今後を託したのちに政子に会いに行った。
執権として最後の役目を果たす決意を表すためだ。
「元はとはいえ、伊豆の片田舎の次男坊に、上皇様が私の討伐のために兵を差し向けようとする。
思えば検非違使の源九郎・源義経、征夷大将軍・源頼朝と並んだのです」
「北条四郎の小倅が……。おもしろき人生でありました。良い頃合いだと…」
「鎌倉にとって一番良いのはこのまま…」
「私は許しません」
政子は義時にきつい言葉で返した。
義時の召集により、御所に御家人たちが集まった。
義時が皆の前に立ち、後鳥羽上皇との経緯を話そうとし始めた時、
政子が毅然と現れた。
「あなたは下がりなさい」
「静まれ!尼将軍様から、お言葉があるぞ」
時房が大声で御家人たちを制した。
「私が話すのは最初で最後です」
義時を下がらせると、政子は紙を出して読み始めた。
「源頼朝様が朝敵を討ち果たし、関東を治めてこの方、その頼朝様のご恩は山よりも高く、
海よりも深い…」
広元に書かせた文章だ。
朝廷が仕掛けた戦により鎌倉に危機が迫っている。
ご家人の心に響くように訴えかけている。
だが、政子は途中で紙をしまった。
「これから本当のことを言います。後鳥羽上皇が狙っているのは鎌倉ではなくて、ここにいる義時の首だ」
真実を語り出した。
「鎌倉が守られるのならば、命を捨てようとこの人は言った。あなたたちのために犠牲になろうと決めた」
政子は鎌倉を守るために、執権殿は自分を犠牲にしようと強調した。
「この人は気真面目なだけ。この鎌倉を守るため、私利私欲のためではありません」
「ここで上皇様に従って、未来永劫、西の言いなりになるか。
馬鹿にするな!」
「戦って坂東武者の世を作るか…頼朝様の御に今こそ答える時だ。ならば、答えは決まっている」
続いて泰時は御家人たちに投げかけた。
「こうなったら、道は一つ。上皇様と一戦交えるしかありません」
「官軍と戦うのか!」
泰時に義時は、激しい調子で叱責した。
「そのような卑怯者は、鎌倉には一人もいないということを上皇様に教えましょう」
泰時は奮い立って声をあげ、ご家人館は雄叫びを上げた。
義時は、その状況を見て、気持ちがこみあげ涙した。
(最終回につづく)
【滋賀県長浜市】
「聖福寺」
源頼朝公よりこの地を賜り創建された日本初の禅寺である。
後に後鳥羽上皇から「扶桑最初禅窟」の勅額をいただいた。
「後鳥羽神社」「名超寺」
後鳥羽神社は、その名の通り後鳥羽天皇にゆかりのある神社。
鎌倉執権、北条義時打倒を目指して挙兵した承久の乱に敗れて、隠岐島に配流された。
名越町の名超寺には在任中と退位となってからも同てらを訪れた。
「後鳥羽上皇腰掛け石」
倉敷市に隣接する由加山の東側に位置する玉野市滝地区に後鳥羽上皇が滞在していたと言い伝えられる場所がある。後鳥羽上皇が隠岐島へ流される途中に滞在されたという。
その地域の中には「御所」という屋号のお宅がある。古い庭の片隅に「腰掛け石」がある。
後鳥羽上皇が腰をかけたと言われる。
「北条義時追悼院宣(複製)」
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鎌倉の景色になった人力車の青木登さんの生き方を紹介しよう。
1948年(昭和23年)3月の生まれ。今も74歳で毎日、鎌倉で人力車を引き続けている。
老舗人力車、昭和から平成、そして令和の鎌倉の街を駆け抜ける。
そんな青木さんを永六輔さんは「体で表現する職人」と紹介していた。
「鎌倉には青木さんがいる」(1ミリ:刊)は2018年3月、青木さんの誕生日に発刊されているが、
その本の帯には〈百歳まで生きて、九十歳まで人力車を引く〉と記されている。
このシリーズではお店訪問を軸に展開してきたが、人力車も青木さんの大事なお店だと、
気がついて取材をお願いしたいと考えていた。
以前から面識があり、小町通りで人力車を引いているときにお声をかけ取材の了解を頂いた。
(*)ちなみに小町通りは青木さんだけが人力車を引くことができる。
青木さんは茨城県の結城郡八千代町の農家で生まれた。
父母が畑へ出ている時は、赤子の登さんは籠に寝かされていた。
時々お姉さんが家に戻りに様子を見に行くと籠の中は空っぽ。
青木さんは籠をひっくり返し、段差を超えて土間までハイハイで動き回っていたと言う。
生まれた時から健康優良児そのものだった。
そのまま、小学校時代には家から田舎道を片道4キロを1時間、往復8キロ歩いていた。
中学になって自転車通学が許されていたが、上り坂あり下り坂あり毎日通ったと言う。
勉強は苦手で体力だけは自信があった。
中学では野球部に入り、捕手から投手として地区大会で優勝するなど活躍した。
当時は高校へは3割ほどしか進まずに「金の卵」などと言われて、農家の次男坊や三男坊は、
高校へは進まずに東京へ出ていた。
青木さんはご縁があり横浜市戸塚のブリヂストンに入社した。
高度成長期のど真ん中、工場は昼夜24時間の3勤務交代制。
流石に3週間毎に1週間回ってくる夜勤は寝不足になり、それでも10年は頑張った。
ご存知の通りの健康体だが、夜はキチンと眠りたい性格で10年目に転職を迎えた。
ハローワークで紹介されたのは横浜駅の相鉄ジョイナスにできる新店舗の婦人服販売店。
場違いな職場とはいえ、工場の作業着からネクタイ、背広姿で一生懸命に頑張った。
その頑張りが認められて、数年後にハンドバッグの販売店に引き抜かれて成績を上げた。
そのために怖いもの知らずの独立をしたが上手くは行かずに、
親切な知人がバッグの販売店を紹介してくれた。
その会社では千葉や栃木の支店長を任されて、静岡の浜松店の支店長になった。
そこで時流に乗り欧州のブランドバッグを仕入れて成績をあげ、大きな仕事を任された。
全国で1番の成績をあげた店は、褒賞として欧州旅行へ行けることになっていた。
東京で開かれた発表会の日に、なんと第2位の店が視察旅行に行くと知った。
会社から理由は何の説明もなかった。
この結果にショックを覚えて、浜松に戻る新幹線であまりの悔しさに泣いた。
これを転機にその会社を辞めることに決めた。
退社を控えたある日、銀行の待合席にある雑誌で飛騨高山の観光人力車の小さな記事を見つけた。
見た瞬間「これだ!」と閃いた。
人力車を引く体力は自信があり、観光案内も販売の仕事の接客業で慣れている。
高山や長崎には観光人力車はあっても、東日本には鎌倉はもちろん京都、浅草に観光人力車はない。
これはチャンスだと、早速、飛騨高山へ向かい、手始めに人力車に乗ってみた。
「自分ならもっと丁寧にやれる」と確信した。
それから毎週末に飛騨高山へ向かい、いろいろ情報収集を行った。
飛騨高山で中古の人力車を探し、譲ってもらう交渉をした。
かなり良い条件で 手に入れることができ、ありがたい話であった。
これは青木さんにとって素晴らしい転機になった。
ヨーロッパ旅行への褒賞を逃したことがピンチをチャンスに変えたことになる。
青木さんにとって人力車の記事との出会いが結果的にラッキーだったと思う。
偶然のターニングポイント。天職とはこういうことを言うのだろう。
自分にも若い時あったんですよ(笑)
鎌倉で仕事を始めるので家を探したが、収入が不安定、観光人力車という仕事が理解されずに、
困難を極めた。
そんな中、建長寺の近くに理解のある大家さんが部屋を貸してくれた。
後に雪の下に移転するまで約27年もお世話になった。
人力車の運送を待つ間、車夫としての体力づくり、鎌倉の歴史などを学習した。
数ヶ月後、飛騨高山から中古の人力車が届いたが、格安中古のために鎌倉の鍛冶屋さんで、
修理のために溶接などで人力車を補強した。
次に家の周りのコースを考え、空車で何度も何度も登り下りの坂道で練習を重ねた。
もちろん周囲に経験者もいなくて、操作マニュアルなどもなく、全くの独学だった。
有風亭以前。
実際に人に乗ってもらう練習をするために円覚寺にある幼稚園へ行き、
送り迎えするお母さんたちに、無料で協力をお願いした。
皆さん珍しい話だと興味半分に快く協力してくれた。
雪の下から北鎌倉駅へ向かう巨福呂坂は、短い距離の間で20mの勾配のある坂道だ。
北鎌倉駅周辺を回り、明月院の方まで行ったりして練習を重ねた。
営業許可を取るために奔走したが、人力車は道路交通法的には自転車と同じ軽車両扱いで、
運転免許証も不要、営業許可も不要だと分かった。
もっとも、現在街で見る全国チェーン店の営業許可の場合は、もろもろ規制も厳しいという。
開業後は故障続きで、タイヤがパンクして営業中と故障が同じ頻度の感じで、
近所の自転車屋さんと仲良くなった。
54歳。20年前の姿だ。
そのうち新聞社や雑誌社の取材が始まる。テレビの取材も重なる。
観光人力車は東日本では鎌倉以外にないからだ。
しかし、順調に仕事は始まったわけではない。
あまりに物珍しい、恥ずかしいで「乗ってみよう」というお客は増えない。
これでは食べていけない。
その頃、大船の喫茶店のオーナーさんが、事情を知り夜だけでも手伝って欲しいと。
しばらくは本業とウエィーターのアルバイトの二重生活が続いた。
「お店のお客さんとのご縁で乗車する人を紹介してもらい本当に助かりました」
「こうなると仕事が面白くなり、どうしたら快適に乗って頂き、楽しんで乗って頂けるか、
考え始めた」。
この日まで「仕事が辛い」と感じたことはなかったと言う。
しかし楽しいことばかりではないが…。
鶴岡八幡宮の新郎新婦さん
ちょうど開業して1年経った頃、鶴ヶ岡会館で結婚式を挙げた地元のお客さんが、
若宮大路の中程から段葛を歩いて行く代わりに、人力車で鶴岡八幡宮に向かいたいと
要望があった。
鎌倉駅前。
(*)鶴岡八幡宮の中を走れるのは青木さんしかいない。
鎌倉駅前のロータリーも然り。長年の経験と信頼の賜物と言える。
こうして始まった結婚式の仕事は、徐々に増えて3年目には40組ぐらいになった。
こうなると鶴ヶ岡会館の婚礼メニューに組み込んでくれて、4年目には120組にもなった。
おかげで観光案内と結婚式で売り上げが半々になった。
クチコミで広がっていく、ありがたいお話になったのだ。
夏場の鎌倉は、海水浴客は多いが暑さのあまり市内の観光客は激減する。
ところが、良いご縁が続くもので、草津の温泉街の旅館組合が町おこしのために、
夏場のイベントに何かないかと考えていた。
メンバーの中から観光人力車がいいという結論になった。
新車の人力車を準備したが、これを引く人がいない。
「鎌倉に青木さんと言う人がいますので紹介します」と言う人が現れた。
冬になると雪が多くスキー場の客だけになる。人力車は不要になる。
草津温泉にて
青木さんにとっても夏だけの草津温泉で仕事という絶好のチャンスになった。
二つ返事でOKした。
この夏場の草津温泉ゆきは35年以上も続いて、
今も夏の草津温泉での仕事は続いている。
30周年イベントにて。
海抜1000mの避暑地でもある草津温泉の夏場の企画は、
従来の〈草津町夏季音楽アカデミー〉に加えて、
〈観光人力車〉が長い間、夏場のイベントとして続いている。
コロナ前の繁忙期はお弟子さんも加えて、通常3〜4台が稼働して、
コロナの時期は青木さん一人で対応している。
ご縁とはいえ、絶好のwin-winの関係になった。
屋号が有風亭になったのは、鎌倉在住で詩人の崎南海子さんのお陰だ。
崎さんは永六輔さんのラジオ番組の構成作家を担当していて、
お母さんが小町通りの「くるみ」と言う甘味処を開いていた。
青木さんは、よく通っていて、崎さんがいつもお店に来ると知っていた。
自分は昔から永六輔さんの大ファンであり、崎さんのこともラジオでよく聞いていた。
自分の屋号を崎さんにお願いしたいと言うと、偶然に奥の部屋に崎さんがいらして、
「少し時間をいただけますか」と。
しばらくして3案の中で「有風亭」と言う鎌倉の風情を感じる屋号を青木さんは選んだ。
半纏の襟に有風亭、背中には笹竜胆(ササリンドウ)を染め込んで走っている。
(*)ササリンドウは鎌倉市のシンボル・市章。源頼朝の常紋とも言われている。
現在、雪の下のご自宅を「茶房有風亭」と名付けて奥様のいずみさんが、
「和の魅力を気軽に楽しめる空間」としてお抹茶と和菓子を楽しめるお店を開業した。
同時に着物の着付け体験など、本物の和の心を楽しめるお店と評判になっている。
崎さんとのご縁から始まり、長く憧れていた永六輔さんとのご縁に広がり、
節目の時には永さんは鎌倉を訪れて〈有風亭十周年記念祝賀会〉に参加し講演をするなど、
青木さんとの交流を続けてくれた。
冒頭で書いた「体で表現する職人」と言う言葉を、
永さんはラジオ番組やエッセイで紹介してくれたと笑顔で説明してくれた。
個人的には永さんのこの言葉は、もっとも深く心に刻んでいると真顔に戻って話してくれた。
最後に青木さんの仕事哲学について伺った。
一つ目は「お客さまに良い思い出をお持ち帰りいただくこと」。
鎌倉においで下さる方の気持ちになって、“おもてなし”をしたい。
前もってご予約いただければ、ご案内コースの下準備もできる。旬な情報をお伝えできる。
こうやってコツコツと地道に続けてきたので、今の私がある。
新興グループの人力車夫のように無理して“呼び込み”の声をかける必要もない。
円覚寺の山門前や、若宮大路付近で、静かに“客待ち”をしているのが信条になっている。
二つ目は「鎌倉の品格を大切にする」。
鎌倉は都会とは違い、ゆったりとした時間が流れている。
こうした鎌倉の風土や文化的な香りを伝えていきたい。
何気ない毎日でも、毎日旅に出ているつもりで、
日々新しい鎌倉を自分で演出していきたいと語ってくれた。
〈知らない街角を曲がると、そこから旅が始まる〉
永六輔さんの有名な言葉だ。
そんな気分をお客さまに味わってもらいたいと、今日も青木さんは鎌倉の街で人力車を走らせている。
最近出版された文字のない絵本「ウインメルブック鎌倉」(1ミリ:刊)では、
鎌倉の風景として、青木さんの人力車に頼朝さんと政子さんが乗っている。
中身の濃い取材が終わった頃は、どっぷりと日が暮れていた。
青木さんは、家に帰る道は遠くはないけれど、人力車に提灯と後方にもライトをつけて、
小町通りを抜けて帰途に着きました。
素晴らしいお話を、友達のようにお話ししてくれた。
本当にありがとうございました。
鎌倉の青木さんの日常をもっと知りたい方は「鎌倉には青木さんがいる」(1ミリ:刊)を、
お求めいたくと、よくご理解ができると思います。
私も再読し、今回の詳細な部分の表現に役立ちました。
(*)なお、著書の中の写真使用、お客様との写真は、全て許可を得て掲載しております。
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