中学生活は30名の仲間と楽しみ切った。
〈いしかわ先生〉はなぜかその中の5名を公立高校への転身を勧めた。
まず、何もしないでクラスでいたら、
私の性格からこのまま一生懸命勉強しないで和光高校へ進んだら、良い成績を取り続ける。
一度、公立高校へ行き勉強で揉まれる方が、後の人生にとって良いと判断してくれた。
同じように〈イナバ君〉〈ホリキリさん〉〈トクマさん〉〈アオキさん〉も、それぞれの理由で、
「青山高校」「新宿高校」と公立高校へ転出をすすめられた。
私は当時、杉並区に住んでいたので「西校」が候補だったが、
私の実力だと真ん中あたりの成績になるだろうと。
「豊多摩高校」ならばトップにいられるということで、
〈いしかわ先生〉に受験校を変えられた。
その通り受験したら、めでたく〈いしかわ先生〉のいう通りになった。
7組のクラス編成を成績順に編成された。
私はE組のメンバーになった。
学校が始まり、早速「硬式野球部」に入部した。受験校の野球部だ、
メンバーは18名しかいかいない。
「中学ではどこを守っていた?」
「サードです」
「ちょうどよかったサードがいないので君に任せた」
いきなり野球部では、ラッキーなスタートになった。
しかし、レギュラーなので練習は過酷だった。
帰宅すると丼飯を食べたら、すぐにバタンキュウだった。
勉強の(べ)のない毎日だった。
中間試験では後ろから数えた方が早い成績だった。
職員室に呼ばれた私は英語担任の〈スケモト先生〉から、
「コンサイスどれほど読み込んでいるのか。一日3時間は単語を覚えないとダメだ!」
と叱られた。
しかし、その時の私は勉強より楽しい野球部活動が中心だった。
もうじき開催される「夏の大会」の方が大事だった。
練習もレギュラーなので、それなりに厳しい練習だった。
マネージャーの〈イトウ君〉が、なんと開幕式の直後、
そのまま神宮球場の開幕第1試合を引き当てた。相手校は都立江戸川高校だ。
当時の東京大会は全校で150校しかいない。
開幕式の直後、一番外側に整列していた我が校は、
〈豊多摩高校、回れ右、そのまま一塁側ベンチへ〉
〈江戸川高校、回れ左、そのまま三塁側ベンチへ〉
〈その他のチームは後ろ向きに、そのまま退場口へ〉
「豊多摩高校、守備練習7分」のアナウンスの元、選手はグランドに飛び出した。
守備についてみるとネット裏は関係者で満席、一塁側観客席も頬満席だ。
グランドは豊多摩校のグランドとは大違い、鏡のようにまっ平だ。
(ここにあの長嶋茂雄が立っていたのだ)
いきなり考えた。
守備練習のノックを打つ先輩も、なぜかあがっているのかノックに力が入る。
ボールは私の股の下をスッとすり抜ける。
2度目も同じ光景だ。
3度目は(ションベン座り)で、なんとかボールを受ける。
こんな感じで試合は始まった。
私は7番サードだ。
結構打順が回ってきた。
「豊多摩高校野球部70年記念誌」によると、その日は4打席2安打の記録がある。
2年生の夏の東京大会は神宮第2球場で対雪谷高校。
今度も抽選運がよく、神宮第2球場での試合になった。
昨年の開会式直後と違って、平穏な雰囲気での試合になった。
私は1番サード、同期の吉田は5番投手で出場。
投手は3年生の田中さんに交代も、2対8で敗戦。
受験進学校のために、私は親父との約束で2年生の夏で野球部を退部したが、
秋の新人戦で吉田の好投で豊多摩はベスト32校のシード校になった。
吉田にチームに戻ってくるように誘われて親父に頭を下げてチームに復帰したが、
みんなが好意的に迎えてくれたのはありがたかった。
キャプテン吉田の意向が伝わっていたのだ。
当時キャプテンだった吉田が、間宮が戻ったので間宮をキャプテンにして、
自分は投手に専念したいと発言。
当然、(出戻りの)私は断ったが、では選挙をやろうとなり少数差で私がキャプテンになった。
吉田の温情に感謝した。
3年生の夏の東京大会はシード校なので3回戦から出場。
立教球場で対専大京王を迎え撃つ事になった。
どうしたことかエースの吉田の乱投で0対15の3回コールド負け。
すごい記録となってしまった。
こうして私の野球部生活は、あっけなく終わった。
さぁ、これからは大学受験生活が始まる。
何も勉強していなくても志望校は一橋大学社会学部だ。
あの、憧れの石原慎太郎の在籍していた大学だ。
「一橋学園」予備校へ合計3年も通うことになった。
いつも模擬試験では「有望コース」「最有望コース」成績を収めたにもかかわらず、
最終的には2浪として慶應義塾大学商学部に入学した。
慶應義塾大学では「硬式野球部」の門を叩くことは無かった。
]]>
【修学旅行の思い出】
あのころの和光中学校の修学旅行は東北旅行だった。
記憶にあるのは中尊寺を中心に毛越寺などを巡った。
上野発の夜行列車だった。
30人のクラスなので、団体専用ではなかったので、夜が更けてもなかなか、
おしゃべりが終わらない。
とうとう最後には他のお客さんに、
「うるさいぞ」
と叱られる有様だった。
夜は宿での枕投げは、誰も教えてくれなくとも結構大声で遊んだ。
当然、担当の〈いしかわ〉先生に毎回怒鳴られたのも当然だ。
中尊寺
毛越寺
写真を見ると記憶が甦るが、現場では、おしゃべりばかりしていたのだろう。
コロナが明けたら、タイミング見てドライブでもしてみたい。
なぜか花巻駅で、みんなで食べたうどんが懐かしい。
花巻鹿踊り(しし踊り)
この群舞は、よく覚えているが、おそらく太鼓の音なども印象深いものに違いないが、
記憶から飛んでいる。
観光会社の担当者は当時の実力俳優さんの〈伊藤雄之助〉にそっくりだった。
何処に行っても結構、彼は受けていた。
現在、〈伊藤雄之助〉という名優は残念ながら知られていないだろう。
【まだまだ・・・】
高尾山登山
妹たちも一緒だった。
多分、写真を撮ったのは、案内役の父だった。
どこまで行ったサイクリング。
冬には冬のスキー旅行。
結構、遊びに徹していた。
【新しいジャケット】
話は違うが、親父の故郷、特に法事のごとに伊勢市はよく行った。
僕の着ているジャケットは母が父の古く着なくなった背広を、
生地をほぐして新しいデザインで作ってくれた。
他には襟付きの背広スタイルの上着もある。
妹二人には、お揃いのワンピースも器用に作っている。二人が間違わないように、
姉のワンピースにはダミーのボタンがついていた。
母親の気遣いに、写真を見て気がついた。
妹たちは、その違いのあり方を感じていたのだろうか。
隣に居る祖母は父の母〈しず〉さんだ。
写真を撮ったのは、おそらく父に違いない。
【すがい君の家族】
映画俳優で監督の菅井一郎さんの長男〈にちと〉君は家も近くクラスメートだった。
ある夏、我が家が千葉館山の米良海岸で遊んでいると、なぜか菅井一家もそばにいた。
「これは奇遇だ!」
カメラを撮っているのは菅井監督、その写真を撮っているのが〈にちと〉君だ。
夕方になるまで一緒に遊んだ記憶がある。
かつて菅井一郎さんが監督をした第1回監督作品「泥だらけの青春」(1954年:作品)。
調布の日活撮影所の野道で我々はスケッチする子供で出演した。
僕たちは10歳のころだった。
僕たちの後ろには、若き〈三國連太郎〉が若い女性と散歩をしながら、
僕たちのスケッチを覗くシーンだった。
僕たちは「ヨーイ、スタート」の監督の掛け声に、改めて緊張しながらスケッチを続けた。
こうして、私は和光中学校を卒業することになる。
その後2006年と2007年の個展に訪れて旧交を暖めた。
その〈にちと〉君は写真家になったが。残念ながら、多くの作品を残して早逝した。合掌!
]]>(*)しばらくなんの連絡もなく、ブログ作成をサボり、ご心配をおかけしました。
小学校時代の僕は30人前後のクラスで「昼行灯」と言われたが、
中学生になり、大きく変わったと周りから言われた。
(*)私の結婚式にお招きした担当の(いしかわ先生)が披露宴のスピーチで、
昼行灯が栴檀は双葉より芳し。
中学生になって間宮君は大きく変わったと持ち上げてくれた。
中学生生活で、記憶に残るトピックスは、
・野球部に参加
・館山の遠泳合宿
・浅間山登山とテント合宿
・生徒会長立候補
写真がたくさん残っているものと、1枚もないものある。
【野球部に参加】
4年生から始めた野球は、中学生になりすぐに入部した。
小さな和光学園では、グランドは同じ場所。
サードの塀の向こう側は大きな「豚小屋」がある。昔の風情だ、
ファールボールを拾うとボールは糞だらけになる。
ポジションはサードを希望したが、1年上に(つちや・ゆう)さんが、
どっしりとかまえていて控えにもなれない。
ピッチャーは、やはり1年上に(かどわき・くにすけ)さんが、
エースとして存在してマウンドは譲らない。
ショートは2年上に(しょーじ)さんが、軽快に守っている。
なぜか私は(かどわき・くにすけ)さんの、球を受けるキャッチャーになった。
背番号は2番。
背番号が5番になったのは3年生からだった。
たまに行う若手男性教員との校内試合も楽しかった。
大人なので動きが早く力強い。
野球は下手でも当たると飛ぶ。
手が抜けない相手だ。
特に〈いとう〉先生は4番でピッチャーだ。
今でいう二刀流の大谷選手のようだ。
背が高く運動神経が良い。
女生徒にも人気があるので、観客は増える。
校庭に裕次郎が現れたような人気が上がる。
すると裕次郎ももっと力が入る。
僕にとっては楽しい試合だった
【館山の遠泳合宿】
小さな和光学園の校庭には、もちろんプールが無い。
東京教育大学(現:筑波大学)のプールで水泳部のコーチから訓練を受けた。
夏になると館山にある東京教育大学の〈北条寮〉を合宿所して5泊6日の水泳訓練を行った。
僕はプール練習では25m泳ぐのが精一杯だった。
館山では東海汽船の桟橋から海への飛び込みから始まる。
結構な高さだ。見た感じ5m以上はあるだろう。
目を瞑って飛び込んだ記憶がある。
当時の僕たちの遠泳は鷹の島から北条海岸へ3km組と、
沖の島から北条海岸へ6km組に分かれていた。
(現在は、もう少し短いコースを安全に泳いでいる)
僕はコーチたちの特訓の結果、1年生で鷹の島組に選ばれて3km泳いだ。
2年生になり沖ノ島組に選ばれて6km組メンバーとして泳いだ。
3年生では沖ノ島組の6km組メンバーとして先頭で真ん中を泳ぐ〈遠泳リーダ〉になった。
生憎その日は台風の影響で波が荒くなり、6組組はわずか男女9名に絞られて、3人のOBと泳いだ。
もちろん教育大の水泳部のメンバーが9名に学生を守るように周囲を囲むように泳いでくれた。
いくつもの和舟では先生が方向づけしてくれる。
「目指すは那古船形観音!!」
和舟の上で〈おおもり〉先生のスピーカーから声がする。
こちらも(エンヤコーラ)とリーダーの声に、(エンヤコーラ)と仲間が返してくれる。
何度も繰り返し大きな波の中を泳いだ。
こちらは大きなうねりの底にいるので那古船形観音は見えない。次のうねりが来て、
うねりのトップに浮き上がると、すべての仲間の泳ぐ姿が見える。
目指す那古船形観音とみるか見えるが、それは一瞬の事で、すぐにうねりの底へ。
こんな事を何度繰り返している。
こんな状況の中でもコーチかこおり砂糖をひとりずつに配ってくれた。
数時間この繰り返してついに、無事に北条海岸に着いた。
皮下脂肪のない私は、浜に着いた全身痙攣でガタガタしていた。
コーチ達にバスタオルに包まれでマッサージを受けた。
小さなコップでブランデーを飲ませてくれた。意識が戻った。
周囲に気がつくと女性の〈とくま〉さん、〈あおき〉さん、先輩コーチの女性は、
みんな浜をぴょんぴょん飛び跳ねていた。
こんなに違うのはなんなのだろうと単純に感じた。
1951年に開始された和光中学校の一大イベントは形を変えながら70年以上も続いている。
【浅間山登山とテント合宿】
中学になって僕たちのクラスは希望者だけ、軽井沢の〈ほりきりさん〉の別荘を借りて、
テント合宿と浅間山登山をすることになった。
クラスのイベントではなくて、〈ほりきりさん家族〉と先生の関係がよく、
自然発生的なものだと感じていた。
男の子達6人は庭にテントを貼り、そこで寝泊まりする。女の子達6人は別荘に泊まる。
一度は外でBBQなど信濃だろうが、全く記憶がない。
翌日はあまり天気も良くなったようだが、雨模様ではない。
男の子たち6名だけ浅間山登頂に挑戦するとになった。
当然だが、街からはバスで登山コースまで乗って、〈いしかわ〉先生、〈いとう〉先生に
道引かれて登山コースへ向かった。
到着日はみんな長袖だったが、登頂姿はそれより軽装だったので、
そんなに気温は低くはなかったようだ。
浅間山に関しては、これ以上記憶が出てこない。
【生徒会長立候補】
「昼行燈」だった私は、なぜ中学に2年生なって「生徒会長」に立候補することになったのだ。
今思い当たるのは私が〈館山遠泳合宿〉が原因だと思う。
もともとそのような気持ちはなかったのだから。
25mしか泳げなかった私が、いきなり鷹の島3km組のメンバーになって、
〈北条海岸〉まで泳ぎ切ったことが、学園の中で大きな話題になった。
合宿の目的は単に水泳技術を学ぶだけでなく、合宿計画を一年がかりで計画し、
生活リーダがグループをまとめて総合運営を目的としている。
私のグループでは、その精神でまとまった行動をしていた。
最初はプールで25mしか泳げない私が、あれよあれよと鷹の島3キロ組に入り込んだ。
2年生ではなんと沖ノ島6キログループで遠泳隊長として全員をリードして泳ぎ切った。
学園としても遠泳合宿の一つのケースとしてとり上げてくれた。
それだけではなく〈親和会〉。
いわゆるPTAも私の行動も〈館山遠泳合宿〉の活動の大きなシンボルになると評価してくれた。
当の本人は確かに自分に自信ができて、少し行動が変わって来たなという自覚はできてきた。
誰からの直接の応援か覚えていないが、気がついたら講堂の演台で出馬演説を説いていた。
(たまに夢に見る)結果は当選した。
1年間の生徒会運営を始めることになった。
(*)だいじな案件は「親」、「生徒」、「先生」の3身一体で討議して決めるのだ。
町で売っている菓子パンの一部は校内販売所でも売っていいのではないなどの議論で、
最後は一部の菓子パンも販売所で売れることになった。
期中で野球部に対する予算配分が緩すぎることが問題になったりしたが、
〈つちや〉野球部長が丁寧に説明してことなきを得た。
いくつかの提案もできて、無事任務終了になった。
(*)これに関しての写真は一才ない。
この写真は一年先輩の〈かどわき・くにすけ〉さんとの打ち合わせの写真をみつけた。
『中学生明日に生きるもの』のカット写真で見つけたのは、
決して野球部予算についての談合ではない。
彼はのちに和光学園の同窓会副会長を務めて、さらに学園評議員を務めた。
残念なことに早逝された。
野球部のピッチャー交代を引き受けられなかったが、副会長、評議員を学園から依頼されて、
卒業生枠として、昨年まで25年もの長い間、学園の課題解決の努力した。
その間、若い教員に〈昔の和光〉の良さを伝えてきた。
鶴川小学校の日韓姉妹校とお付き合いには、鶴川でも韓国浦項においても全て参加させて頂いた。
私か鎌倉市パートナシティ提携の漕ぎ着けた安東市の近郊に浦項があった。
]]>どちらも電車で通う小学校だった。
〈松沢幼稚園〉で電車通学に慣れたと判断したのだろう。
和光学園は〈玉電下高井戸〉からふたつ目の〈玉電山下〉で、
小田急〈豪徳寺〉から下りに一つ目〈経堂〉までの通学だった。
二つの小学校の〈成蹊学園〉は
京王線下高井戸駅から上りに一駅の〈明大前〉で井の頭線に乗り換え、
終着駅の〈吉祥寺〉まで。
その日は雨だった。駅から学園まで10分ほど泥んこ道の往復だった。
〈和光学園〉の方が、同じように乗り換えはあるが、少し近いことも理由だった。
〈成蹊学園〉の方が学園までは泥んこ道の印象が良くなかった事は記憶していた。
一方、和光学園の場合は駅から商店街を歩き「カモメベーカリー」の角を、
曲がり農大(東京農業大学)までのアスファルト道の農大通りの途中に、
小さな〈和光学園〉があった。
「どちらも合格しているが、どっちが気に入った?」
父は私に聞いた。
「和光学園!」
答えた理由は学園までの道のりの違いにあった。
確かに、〈成蹊学園〉までは並木道で自然感にあふれていたが泥んこ道だった。
そんな違いでアスファルト道の和光学園を選んだ。
〈和光学園〉は、簡単に説明すると〈成城学園〉の父兄が、
ある教育理念で揉めて、事情が重なり〈玉川学園〉と〈和光学園〉に。
分解し三つの学園に分かれた。
ともに当時は中学校まで一貫教育だった。後に高校までの一貫校に、
最後は長い時間をかけて大学までの一環教育の学園になった。
ただ、小田急線の駅名に「成城学園」「玉川学園」はできたが、
「和光学園」は「経堂」のままである。
まっ、どうでもいいことだと思う。
和光学園の校門にはよく見えないが「子供の成る木」という大きな木があり、
休み時間には子供たちがたくさん木の登り、
始業時間になっても子供たちは木から降りて来ないと有名な話があった。
入学式は大きな講堂で行い、記念写真は学園の前提に生徒、父兄、先生が一緒に写っている。
この時、母は病弱で父が父兄として参加してくれた。
左側後列3人目の背広姿が父だ。
私の位置は説明してもわからない。
自由な環境の中で個性重視の教育を求めた親たちが集まり、
1933年11月10日に、東京都世田谷区経堂に教職員7名、
児童数33名の小さな私立の学園を作った。
1934年4月から、正式に「和光」という学園名の私立学校となる
老子の言葉にある、「和光同塵(わこうどうじん)」からとったとされている。
僕が入学したのは1950年だから、創立26年に入学した。
まだ学園は、まるでマッチ箱のような小さな学園だった。
副担任の野辺先生。
3年生に成るときにそれまでの1組と2組が同じクラスになった。
私はまだ「昼行灯」のような目立たない存在だった。
後列右から3人目。坊ちゃんがりが長い髪になっている。
(*)中学校になって「便所の100ワット!」と言われるほどになって、
「生徒会長」にまでになった理由は次回に譲ります。
小学校で記憶のあるのは、勉強合宿、遠足や体育祭など。
体育祭の最後に当時父は学園の理事をしていたので、
前庭の台に立ち最後の挨拶とスピーチの最後に「和光学園バンザイ!」と大きな声を発した。
この時は二人の妹も4年生、2年生で全生徒の中で3人揃って、
顔を下げて恥ずかしい思いで並んでいたのだ。
クラスの前で「アラジンとふしぎなランプ」を朗読をする私。
特に珍しい記憶の記憶は、和光学園がコア・カリキュラムの実験学校になり。
1950年にはコア・カリキュラム連盟(現、日本生活教育連盟)の実験学校となった。
小学校の卒業式。正門が新しくなっている。
後列の木村先生の右横にネクタイ姿の私。
全生徒で30人弱だった。
私の背景に冒頭に説明した「子供のなる木」がしっかりと見えている。
1954年には日本最初の「ユネスコ協同学校計画」の参加6校のひとつに和光中学校が認められる。
特に驚いたことには授業中に多くの外国人が見学に見えたことだ。
自分たちはその授業の準備をしたのだ。
この先は中学時代の記憶(思い出)の次回掲載に譲ろう。
]]>
一般に幼児の初めての記憶が、そのまま大人まで維持できる年齢は3歳から4歳からだと、
前々回のブログで書いた。
まさに、その時の写真は4歳の私なのだった。
5歳ごろの写真も出てきた。
少し、おすまし、母の手編みのセータ。
この頃の母は、毛糸を染め替えて3人の子供に手編みのセーターを作り、
親父の古い背広をほどいて私の背広なも作ってくれたものだ。
私の進路の幼稚園は父が丹念に調べて、父が選んだ松沢幼稚園に電車で通うことになった。
2年間の間、日常の幼稚園での活動は、ほとんど覚えていないが、
いくつか今日まで、しっかり覚えていることがある。
まず、その前に松沢幼稚園とはどういう幼稚園なのか、
京王線の上北沢駅から徒歩数分にあり園庭の大きな幼稚園。
賀川豊彦先生の創設した教会と幼稚園とだけ、頭に入っているだけだった。
これがクラスの写真なのだろうか。
男の子が6人、女の子が10人
なぜか男の子だけの写真が写っている。
全部で14人の男の子。年少さんは、ふたクラスだったのだろうか。
担当の先生はオサダ先生。
私はなぜか〈オサラ先生〉としか言えなかった。
〈オサラ先生〉の前に私、その二人左が〈ホッタ君〉
上段の一番右が〈カゲアキ君〉、左から2番目が〈エンドウ君〉。
〈エンドウ君〉は地元の高井戸第3小学校へ進学したと覚えている。
後に友人になる(ヨシダマサトシ)からよく聞く名前だった。
なぜ苗字だけ覚え、なぜ名前だけ覚えているのかは、その差はよくわからない。
親しさの差でもないだろう。
とにかく幼稚園に徒歩圏内で通っているのでなく、
多くの園児は京王線に乗って集まってくる。
現在の地元のママ友と一緒に狭い範囲で通ってくる地元仲間の人間関係と、
少し異なるのかもしれない。
改めて〈松沢幼稚園〉を調べ直した。
1931年に世田谷区の松沢村に賀川豊彦先生が〈松沢教会〉と〈松沢幼稚園〉を創設した。
創設当時の松沢幼稚園。
1949年、私は創設して18年目に入園したことになる。
私が通いはじめた幼稚園は、このような小さな教会でも教室でもなかった。
その頃には賀川豊彦先生の偉業に対して海外から当時は珍しい〈パイプオルガン〉が、
贈呈されていて、私も教会の礼拝堂にあるオルガンの美しい音色を神妙に聞いていたに違いない。
我が家は京王線の下高井戸駅を北側にある商店街を200mほど歩き、
まだ砂利道の甲州街道をわたり、滔々と流れる玉川上水の橋を渡り、
側道を道なりに下り、大きな田んぼの手まえに家があった。
駅から子供の足で10分は掛かった。
●入園試験。
覚えている話です。
試験場には沢山の色の積み木が、山のようになっている。
ヨーイドンで、白い丸い積み木を取ってくる。
次に白い四角い積み木を取ってくる。
最後に白い三角の積み木を取ってくる。
○の積み木は「府中」行き。
□の積み木は「京王多摩川」行き。
このふたつは各駅停車で「上北沢」に停まる。
三角形の積み木は「東八王子行き」で準急は上北沢には停まらない。
この識別テストだった。
見事に私は素早く、条件通りの積み木を取ってきた。
そして合格したのだ。
(写真は京王電車のHPから借用させていただいた)
●水のみ場事件。
広い園庭にはジャングルジム、ブランコなどあり、
大きな木の木陰には噴水式の水飲み場がある。
昔もこんな感じだった。
ある時、その水飲み場にいくつもの木の実が落ちていた。
「やーい、うんちだ。うんちだ」と騒いだ。女の子は嫌がって先生に言いつけた。
私はオサラ先生に呼ばれて礼拝堂に連れて行かれた。
神様の前で謝るのだ。それも小さな口に絆創膏を×点に貼られて、何もしゃべれない。
多分、大きな声で泣いたのだろう。午後になって母が礼拝堂へ駆けつけた。
これは後々、母からも何回も聞かされたので、全て原体験が実体験化して詳しく覚えている。
●鯨の肝油ドロップ。
賀川豊彦先生が、幼稚園から帰る前に一人ずつに鯨の肝油ドロップを口に入れてくれた。
当時の食生活では欠乏しがちなビタミン類を補うのに利用されていたのだろう。
八角形でザラ目砂糖がまぶしているようだったが、味は特別に覚えていない。
二人の妹も鮮烈に覚えていた。
●かわいいレイコちゃん。
私の1級下にフランスキャラメルのような髪の毛がクルっとしたレイコちゃんがいた。
髪の毛は黒いし、目も黒目。ただのイメージ写真だ。
いつも一緒に遊んでいたわけではない。
ある日、レイコちゃんは授業中に(おもらし)したようで、おうちに帰ることになった。
1級上でも、なぜか家の近い私が家に連れて帰ることになった。
(おもらし)の下着をビニール袋に入れて、なぜか私が持つことになった。
女の子の手を繋ぎ、京王線の「桜上水駅」で降りて、
甲州街道をわたり、側道を降りた頃がお家だった。
確かに我が家には近かった。
家まで手を繋ぎ、黙々と黙って家まで歩いた記憶は鮮明に残っている。
下の妹が「アネがその〈レイコちゃん〉とは仲が良かったはず」と。
すぐ下の妹に確認すると、確かに1年下の妹は1年上のレイコちゃんと仲が良かったと聞いた。
とにかく賀川豊彦先生が暮らし始めた当時は松沢村だったので教会も松沢教会、
附属の幼稚園は松沢幼稚園。
後年に先生の活躍や遺品を偲んで建てられた、
資料館を含めて地域風景資産に選定されている。
賀川豊彦先生は世界の著名人とともに世界の平和運動に貢献し、
ノーベル平和賞候補に4度推薦された。
タイミング見て、故郷を偲ぶように〈松沢幼稚園資料館〉に妹たちと3人で訪問してみたい。
数枚の写真から、今回はこんな話が浮かび上がってきた。
今となっては父母に聞けない話ばかりだ。
]]>
私が生まれたのは終戦のほぼ1年前だ。
前回のブログで幼児の初めての記憶が継続して、そのまま大人まで維持できるのは、
3歳か4歳という。
こんなことを記載した。
写真からの記憶。1、2歳の幼児の頃なので全く記憶にはないのだが…。
父の故郷は伊勢。母の故郷が佐渡で親戚がある時、全員で東京に移って来た。
母方の墓地は多摩霊園にある。
季節ごとに親戚が多摩霊園に集まることになっていた。
当時の我が家は杉並区の下高井戸にあった。
下高井戸駅から京王電車で多摩霊園駅まで行き、そこからはバスで多摩霊園に行く。
私が車を運転する頃までは、家族で電車に乗って向かったものだ。
〈断・捨・離〉中のアルバムの1冊目には幼児の頃の写真がなぜか少ない。
「天上天下唯我独尊」の写真は一番記憶にある代表的な写真だ。
この写真は〈多摩霊園〉で撮ったものだと母から聞いていた。
しかし、どこを探しても見つからない。
机の中に別に大事にしまっているかなと。
何処を探しても見つからない。
ある時、ふと2冊目の大きなアルバムを開いてみたら、
なんとこの1P目に幼児時代の写真が、たくさん出てきた。
やっと見つかった。
私が幼児時代の写真は1冊目の小型のアルバムにあるはずだと、
思い込んでいたからだ。
最初に見つけた写真は、〈多摩霊園〉で、私がほぼ1歳になるかどうかの頃だ。
でも2本足で、立派に立っている。
1冊目のアルバムは〈日本短波放送〉から私の大学時代のラジオドラマが、
コンクールで入賞し短波放送で40分ドラマとして放送してくれた記念だ。
2冊目のアルバムは、それより遡って中学生の頃にNHKラジオの番組で天文台長に、
人工衛星撮影カメラの前でインタビューをしたときの記念アルバム。
つまり、大学時代の後半から溜まった写真を、
手元にある古いアルバム帳に整理し始めたと思われる。
中学生になるまで、長い間同じ家に住み、
隣の少し大きな家に買い替えたので、
家の周りの景色は変わらずに、全て私の記憶にあり、
いま思えば懐かしい昭和の風景だ。
天上天下唯我独尊の写真と同じ頃、いろいろな幼児時代の写真があった。
父が戦地から戻り、その流れで私が生まれた。
この頃の父は戦地と同じ坊主頭である。
まだ府中にあった軍事施設に通っていたからだ。
終戦間もないのに、父は家の周りや家族で出かけたときに、
幼児の私を何枚もシャターを切っていた。
将校とはいえ戦火を逃れて帰還し、
平和な時代を感じて、よほど我が子の写真を撮りたかったに違いない。
しかし私はそんな父親の行動を覚えているわけがない。
その後も父はカメラを持って、たくさんの写真を撮ってくれた。
この後も家の周りでの写真、家族で出かけた時の写真が、
たくさんアルバムの中に収容されている。
子供の写真をカメラの収めるというこの血は、今、私に立派に引き継がれている。
なにしろ我が家は文字通り〈マミヤカメラ〉だからな。
こんな調子で、この後も幼稚園時代のこと、小学生時代のこと、中学生時代のことと、
時代が進むごとに、写真を整理しながら、徐々に思い出に更けることだろう。
しばらくは、この回想録にお付き合いください。
]]>
1年越しの〈モノレールサミット〉が、先日ようよう開催された。
早速、家から徒歩15分の会場へ向かった。
会場は湘南モノレール「湘南江の島駅ビル」だ。
すでに会場の前は、多くの鉄道ファンで溢れかえっていた。
午後からの鉄道系タレントによりイベントが始まっていて、大変な賑わいだ。
入場するにも、一苦労だった。
入り口に広報の〈いしかわさん〉が、来場者の整理をしている。
おかげでスムースに入場できた。
この〈モノレールサミット〉については、昨年に遡って説明する。
当時、我々の鎌倉のプロジェクトは観光庁の助成金を得て、
さまざまな鎌倉の観光活性化の活動を行っていた。
コロナ禍の影響で〈鉄道、宿、飲食店〉が大きな打撃を被っていた。
観光庁が具体的な解決案を求めていた。
良い活動案には多額な助成金が与えられることになっている。
助成金獲得の条件は〈鉄道、宿、飲食店〉が、
一つのグループになって申請することになっている。
我々のプロジェクトは宿が主体で、すでに周囲の飲食店とは連携をとっていた。
残るは鉄道。
江ノ電か湘南モノレールか。
ちょうど湘南モノレールは〈東京2020オリンピック〉のラッピング広告を行っていた。
オリンピックも終わりに近く、ラッピング広告も終わりに近かった。
タイミングよく我々プロジェクトのラッピング広告の提案がマッチングして、
湘南モノレールと連携を組むことができた。
我々のプロジェクトの知名度、日常の活動を理解してもらい、
活動の認知度を上げるために、鎌倉で有名なイラストレーターの、
〈かおかおパンダさん〉を起用してラッピング車両を走らせることができた。
このラッピング車両は、3ヶ月間、大船から湘南江の島の約7キロを、
空中を駆け抜けた。
おかげさまで我々のプロジェクトのネーミングも浸透した。
一方、湘南モノレールは、大船〜湘南江の島全線開通50周年の記念行事として、
全国からモノレール、新都市交通システム、地方鉄道を集結して、
鉄道系タレントを起用したトークショーなどで、
鉄道の関心や理解を深めてもらう事を企画準備した。
開催場所は〈鎌倉芸術館〉でかなりのスペースで行われる。
ところが初開催となるサミットは、コロナ禍の感染症の影響で、
実施寸前で断腸の思いで延期を余儀なくされた。
そこで今年、湘南モノレールは、改めて第1回モノレールサミットを企画した。
リターンマッチとか、むしろリベンジの気持ちだったろう。
今回は〈湘南江の島駅ビル〉を利用することに変えた。
物販展示イベントに参加するのは、
湘南、大阪、多摩都市、東京、北九州、千葉都市の各モノレール。
横浜シーサイドライン、伊豆急行、大井川鉄道、黒部峡谷鉄道、
しなの鉄道、銚子電気鉄道、IGRいわて銀河鉄道などの鉄道22社。
私自身も、多摩都市モノレール、伊豆急行、黒部峡谷鉄道、しなの鉄道など、
いくつかの鉄道を楽しんだ思い出がある。
懐かしい社名だ。
これに加えて〈鎌倉ビール醸造〉、〈高久製パン〉なども出店する。
鉄道系タレントがトークショーを行う。
これも昨年から準備した企画だが、
私はほとんど知らない世界。
一部熱烈ファンには、極上のメンバー企画と言える。
・南田祐介さん(ホリプロマネージャー)
・吉川正洋さん(ダーリンハニー)
・岡安章介さん(ななめ)
・田中匡史さん(鉄道番組ディレクター)
私は2日目の午後から会場へ向かった。
モノレールについて熱く語るスペシャルトークショーが、
すでに1階のステージで行われていた。
私は昨年11月末に、ある理由で2年間活動していたプロジェクトから離れていた。
なので、少し複雑な気持ちを抱えながら、穏やかな気持ちで一般の観客として会場へ向かったのだ。
まず2階の展示会場から歩き始めた。
会場の中は足の踏み場もないほど、混雑していた。
2階の会場から1階のステージは覗けないないように設計されている。
2階の会場は、江ノ島電鉄、京急電鉄、伊豆急行、銚子電鉄、しなの鉄道以外に、
私の知らない若桜鉄道など鉄道各社のブースが並んでいる。
エスカレーターで3階へ移動する。
多摩都市モノレール、東京モノレール、大阪モノレール、横浜シーサイドライン、
湘南モノレールのモノレール各社のブースが並んでいる。
湘南モノレールの運転台シュミレーターに子供が群がっている。
子供たちは、さながら本物の運転手の気分で、興奮してモノレールを運転している。
さらに4階へ移動する。
大井川鉄道、明知鉄道、樽見鉄道、養老鉄道、樽見鉄道、黒部峡谷鉄道など
魅力ある鉄道が軒を並べている。
鉄道ファンは現地に行かなくても、ここで現物の記念品を買うことが出来る。
このフロアだけでも本州1周ができそうな気分だ。
フロアには出店者や、出演を終えた鉄道タレントが個人的に回遊しているのだが、
熱烈ファンは見逃さない。
立ち止まって会話を楽しんでサインを求めている。
私のような鉄道音痴の人間も、ワクワクしてくるような雰囲気だ。
流石に1時間ほど会場にいると疲れてきた。
屋上の空気を吸いたくなった。
丹沢の山が見えている。
ちなみに今年はテーマを変えてラッピング車両を走らせている。
最後にこのイベントを仕切っている広報の(はなかさん)を見つけて、
お仕事の邪魔にならない程度情報交換をした。
2日間、温暖で晴れていた事が、何よりだと思い、会場を後にした。
後日、地元新聞によると、2日間で約1万人が来場した。
駅ビル内では鉄道22社が出店ブースを設置。
ストラップ、タオル、メモ帳など各社オリジナルの鉄道グッズが並び、
乗務員が実際に使っていた車両の部品など販売する会社もあったと記事にしていた。
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新年を迎えて4週間あまりが経った。
そして喜寿を迎えて半年近くになろうとしている。
御多分にもれず、〈断・捨・離〉の作業が進んでいない。
新年から生まれ変わったように取りかかろうと思い立った。
すでに現役時代に着ていたスーツ類は徐々に減らしていった。
小さめのクローゼットに変えたために、思い切って処分ができた。
宣伝会議の講義や、広告の仕事上、元勤務先の後輩の幹部社員に会う時でも、
クールビジネスで済ますようになった。
相手の方々もクールビジネスなのだ。
ノーネクタイの機会が多くなったので、ネクタイもずいぶん捨てた。
海外出張や韓国赴任時に、デューティフリーショップで、
アホみたいに求めたブランドネクタイも惜しげなく捨てた。
スーツにしてもネクタイにしても〈断・捨・離〉を決めたら、判断の速さで対応できる。
さて、残した本の収容は小さな本箱に買い換えるか。
本箱に入れる本は、できれば背表紙が見えるように置きたい。
新しい本が手に入ると、1冊が押し出される事になる。
新旧交代の戦いが始まる。
ところが、困るのはアルバムにあるプリント写真たちだ。
幼少時代、小学校時代、中学校時代、高校時代、大学時代まではすべてがプリントだ。
捨てがたいカットが、山ほどある。
全てが青春時代のキラキラした写真が多い。
一番多いのは家族との写真だ。ある意味で子供の成長記録になっている。
段ボールにして少なくとも3、4箱以上あるだろう。
枚数は数えていないので相当な枚数になるはずだ。
デジタル化に時間がかかるが、覚悟している。
同じようなタイミングの写真は、象徴的な1枚に絞ることにする。
これでだいぶ整理ができるに違いない。
まず手掛けたのは書斎兼寝室のベッドの位置を変える事だ。
続いて書斎デスクの位置、小物ダンスの位置変えが必要になる。
最初は部屋の中で一番大きなベッドの位置だ。
今までは南側にある大きな開き戸横に枕を東側にしてベッドを置いた。
雨戸を閉めていても冬場は外気に近いところで寝ていることになる。
それなので奥の壁ぞいに枕を北に向かって置き換えてみる。
東向きから北向きに変えるだけでレイアウトが変わり、部屋の雰囲気が大きく変わる。
〈北枕〉は一般的に縁起が悪いと言われているが、実は風水的には一番おすすめの方位なのだ。
地球の磁場の流れに沿っているので、良い睡眠がとれ健康運がアップする。
また、北の方位には「信頼」「落ち着き」などの意味がある。
今回は改めて枕を北にしてベッドの位置を決めた。
さて、アルバムの整理を始めよう。
一番古い幼少期のアルバムを、久しぶりに開いた。
1枚目には1歳くらいの私が写っている写真。
もちろん、写されている記憶はない。当たり前だ。
次に目に入ったのは、眩しそうな笑顔の自分がこっちを向いている。
これは、いつ撮られたか、よく覚えている。
父が社員旅行に連れて行ってくれた熱海温泉の宿屋での朝の写真だ。
「武美、こっち向いて」と父。
差し込む朝日が眩しい。我慢して笑った。
一般的に幼児の初めての記憶が、そのまま大人まで維持できる年齢は3歳から4歳からだという。
まさにこの写真は4歳の私なのだ。
赤子が家族の顔を見て笑うのは、その記憶があるからだ。
しかし、その記憶は長くは続かない。
繰り返し繰り返しの記憶で反応している。
何かの本で読んだことがある。
写真の整理や本の整理は、中身を見始めると中々作業が進まない。
誰でもがそうだろう。
この熱海の写真がそうだった。
多分、次回のブログでも一枚一枚の写真の思い出が作業の手を止めてしまうだろう。
しばらくはお付き合いのほどを、ご勘弁いただきたい。
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扇屋さんは、〈江ノ電もなか〉でも有名だ。
今日の主人公はお嫁さんの杉並夏子さん。看板娘の一人だ。
お父さんが、夏が好きでサーフィンが好きなので、
夏のようにキラキラ育って欲しいと夏子になった。誕生日は冬なのにと笑った。
夏子さんの実家は近くの江ノ電通りの一角。
お店とは目と鼻の先で育った。
モンタナ幼稚園、腰越小学校、腰越中学校、七里ヶ浜高校と根っからの地元っ子だ。
町内のご縁もあって1999年に結婚した。
ご主人は杉並善久さん。
結婚して夏子さんはお店に出た。
それまでは父、母にご主人の兄で、お店を切り回していた。
お父さんの杉並久雄さんは、まだまだ元気ですぐにお嫁さんが継いでくれるとは考えていなかった。
結婚以来20年以上、お店に出ている。
扇屋さんは、最初は目の前の龍口寺の門前に構えていた。
門前にある石碑は天保6年(1835年)に建造されたという。
その石碑に門前扇屋長四郎の名前が彫られている。
最近、「藤沢市商工会議所70周年(2017年)」に、
藤沢市内100企業から選ばれて創業100年以上のお店として選ばれた。
お店には明治30年(1897年)に撮影された写真に、
門前にあるお店が写っているのも証拠の一つだ。
それ以前の写真は現存しないので約126年前には、
確かに門前にあったのだ。
その後、江ノ電通りが拡張されたのに従い、まず三叉路の真ん中に一旦移り、
昭和9年、約89年前に現在の位置にお店が移ったのだ。
写真で追いかけるとわかりやすい。
「写真を見ていると、昔をイメージするのが本当に楽しいです」
夏子さんは微笑んだ。
平成2年3月まで走っていた江ノ電651号車の車両が引退した。
601〜651号車は、在籍:昭和45年〜平成2年までだった。
引退後601号車は生まれ故郷の東急電鉄世田谷線の宮の坂駅横に、
当時の活躍の生き証人として保存されている。
私が海外赴任から帰国後、俳句会仲間で松陰神社の句会で訪ねた時に、
私はこの風景を見ている。
「こんなところに江ノ電が・・・」と記憶に新しい。
また651号車は、江ノ電の当時の社長から廃車になるのでと、
目の前の扇屋に譲られて、お店の店先にお面だけの状態で鎮座している。
それ以来、この651号車はちょうど、目の前を走る後輩車両たちの活躍を、
毎日見守っている。
この一件は当時、お父さんの久雄さんは本当に喜んでいたと聞いた。
その後、やはり引退した江ノ電車両のパンタグラフを、
息子さんの善久さんが譲り受けて、屋根の上に飾っているのだ。
江ノ電本社が昭和50年(1975年)に、今の所に移転した。
以来、扇屋の斜め前に江ノ電本社がある関係で、
このようなご縁が起こったのかもしれない。
何も知らない観光客は〈江ノ電が飛び込んだお店〉と、
信じている方が居るようだと夏子さんは笑いながら説明してくれた。
扇屋の毎日は、特別な注文がある時以外は、朝5時には仕事が始まる。
餡子づくりは前の日から始める。
〈江ノ電もなか〉の(あんこ)と、〈片瀬饅頭〉の(あんこ)では〈こしあん〉〈粒あん〉で、
それぞれ(あんこ)が違うという。
・江ノ電=粒あんが入ったもの。
・チョコ伝=漉し餡が入ったもの。
・赤電=梅あんが入ったもの。
・青電=胡麻あんが入ったもの。
・新車=柚あんが入ったもの。
・新しく登場した車両=抹茶あんが入ったもの。
自家製ならではの、丁寧に手の込んだ作りである。
ほぼ9時には店頭に並ぶように準備している。
土日は観光客も多く、また天気により、季節によっても作る量は変わってくる。
とにかく全商品が〈ナマモノ〉なので、大量生産とは訳が違うのだ。
午後遅くなってお店に来たお客様が、目指す商品が売り切れでも、
せっかくだからと言って、ショーケースにある商品を買って帰るのである。
お客様は、本当にありがたいと夏子さんは説明してくれた。
●他のお店のようにデパートなどに置かないのですかという質問に、
「主人(善久さん)は、お店に置いて貰うために手数料を払うくらいならば、
その分、品質を守るために、コストを掛けてしっかりと作りたい。
このお店だけでの販売が一番良いのだ」
という考えだと夏子さんの説明だった。
●この取材中に地元のお客さん、観光客と商品を買いに来るのを見ていると、
〈江ノ電もなか10本入り〉〈片瀬饅頭〉がどんどん売れている。
直接聞くと自宅でのおやつ、知人への贈答用とそれぞれだった。
●このお店での1番の人気商品はとの質問に夏子さんは、
「よく聞かれるのですが、父(久雄さん)は、自分の子供が全て可愛いように、
分け隔てなく育てたいと、よく言っている。だから、こちらからは答えないのです」
お店のコンセプトとか姿勢がわかりやすい。
さらにデパートなどで買って貰うよりも、とにかく江ノ電に乗って、
この店まで買いに来て欲しいのだと久雄さんは考えている。
お店と江ノ電の強いつながりを感じた。
今後もこのままで良い。明日が食べられたら良い。
店を大きくしたり、デパートに置いたりすると、どこかに歪みができる、
商品づくりのこだわりにも限度がある。
手作りを大事に、小豆、砂糖、粉、米など、できるだけ良いものを選んでいると、
常々言っているそうだ。
御多分に洩れずにコロナ禍での苦労は、並大抵のことではなかった。
東日本大地震の時は、計画停電に悩まされたが、
今回のコロナ禍では、流石の鎌倉も観光客の激減はすごかった。
腰越は何かとお祭りの多い街だ。
主なものでも1月には腰越漁港船祝い、4月には義経祭り、7月には腰越天王祭、
9月には腰越漁港港まつり。
特に腰越天王祭の最終日の神幸祭では、龍口寺前の三叉路で江の島の八坂神社の神輿と、
腰越小動神社の二つの神輿同士がぶつかり合う。
ちょうど扇屋の店の前だ。
山のようにお客さんが集まった。
その腰越の祭りがコロナ禍で3年間も全て中止になった。
少しコロナ禍がおさまったのか、この年末には、まとまった注文があり、本当にありがたかった。
今のお店になる前の頃の写真で、「元祖 片瀬饅頭本舗 扇屋」という看板が見える。
お寺の参詣者が買い求めるのだろうが、
店頭には龍口寺の御住職らしい方も、何か買っている。片瀬饅頭に違いない。
大正中期の日本の普通の姿が見られる。
〈江ノ電もなか〉は昭和60年(1985年)に誕生した。
東京からも観光客が狙うように買いにきた。
東京には〈都電もなか〉が人気あったという。
明治44年から昭和40年代まで都民の足として慕われていた都電を、
何とかして形に残したい。 そんな思いで考案したのが、この〈都電もなか〉だ。
〈都電もなか〉は昭和52年(1977年)に商品化されている。
〈都電もなか〉が、少し兄貴分のようだ。
龍口寺で開催される「龍口テラス」の時に、龍口マルシェで、
〈消難まんじゅう〉を販売していた。
湘南エリアと消(しょう)難(なん)で難を消す。
〈しょうなん〉をかけた楽しいネーミング。コロナをぶっ飛ばせという感じだ。
その時に好評だったので、今ではお店で通年販売している。
餡の味が甘すぎず、上品な味がした。
このほかに9月の龍口寺で行われる法難会では〈難避けぼた餅〉を販売する。
龍口寺と日蓮聖人はご縁が深い。日蓮さんが連行されるときに〈桟敷の尼〉という
尼僧が黒胡麻の〈ぼた餅〉を食べさせてあげたということが由来している。
そんな時に、お留守だと思っていたお母さん(芳子さん)が、お店に戻ってきた。
最近足の怪我をしたのでリハビリに通っているのだ。
私がぜひ、夏子さんと並んで写真を撮らせて欲しいとお願いしたところ、
「少し待っていてください」
とお店の奥へ入っていった。
「二人で撮るならば、いつもの格好にしなくては」
並んで撮影に応じてくれた。
写真ひとつでも、プロの意識を感じた。
「この子は、お嫁さんなんだけれど娘みたい。良い娘だから助かるの」
この仲の良さが、お店のファンづくりに繋がるという。
決して職人イメージをチラつかせない。
お店の江ノ電を撮っても良いですかと、遠来のお客様に言われると、
「この電車は動かないので、慌てないでゆっくり撮ってね」
そういう雰囲気がお客様を、大事にしている証拠だ。
表通りの信号がカンカンとなると、今度はあちらから(こちらから)来るので、
写真を撮ったらいいですよと芳子さんは勧める。
時刻によって鎌倉方面か、藤沢方面がわかるからだ。
また、芳子さんは夏子さんに伝えた有名な話があると聞いた。
「なるべく、近所の方でも名前は覚えないほうが良いよ」
観光客や名前も顔も知らないお客の手前、知っている方と知らない方の間で、
差別をつけた感じを出さない方が良いということだ。
例え知っていても、その方へ名前で対応しないことだと。
ちょっと気が付かないポイントだった。
お母さんの芳子さんは昭和12年生まれの85歳の現役看板娘だ。
母嫁で二人揃って〈看板娘〉なのだ。
お店は不定休なので、夏子さんは家族で旅行の思い出はないとニコリとした。
お店の中にはたくさんの賞状が、ところ狭しと飾ってある。
「神奈川県指定銘菓」で昭和61年に〈江ノ電もなか〉が最優秀賞をいただいている。
インタビューを続けていたら、いつの間に夕方になっていた。
店の入り口に置いてある江ノ電の客席に座って、外を見ると江ノ島駅方面の向こうに、
夕焼け富士が見える。
江ノ電と夕焼け富士。
海岸で撮る風景と、また一味も二味も違う景色だ。
今日も店頭を飾る615号は、夕焼け富士に向かって走る後輩車両を、
優しい眼差しで見送っている。
小さなお店なのに、100年を超えるたくさんのエピソードを聞く事が出来た。
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コロナ禍の中〈鎌倉の四季歩き〉がママにならない。
この個人イベントを始めて、約15年になるだろうか。
〈鎌倉七福神巡り〉〈梅見歩き〉〈桜の鎌倉歩き〉〈紫陽花の鎌倉歩き〉〈紅葉の鎌倉〉
1年に5回もみなさんが鎌倉に集まるのだ。
常連メンバーが20人前後の集まりだ。
最初からのオリジナルメンバーに、同じ職場にいた(めぐりさん)がいる。
毎回、参加する鎌倉が大好きな仲間だ。
コロナ禍になって、自分たちは毎日仕事でたくさんの方に会っている。
(うつらないより「シニア」のみなさんにうつさない。
打ち上げで、お酒を飲むのは避けたい)と、この数年不参加が続いた。
『飲み会なしで、小規模で紅葉狩りはいかがでしょうか?
ただ、週末が思いのほか埋まっていまして。
12月17日になってしまいそうです」
健気な連絡があった。
私は対応できる。さて誰に声をかけようか。
最大で4人のウォーキングかな。
一番の候補者は、その日はソウル仲間との合唱の練習日で無理。
あれこれで結局4人が参加することになったが、
一人が前日になってキャンセルになった。
わずか3人だけの鎌倉歩きだ。
もう1人は、私の〈鎌倉からソウルまでの徒歩の旅〉の初日、
鎌倉から小田原まで一緒に歩いてくれた(たかはしさん)だ。
鎌倉の紅葉は年々遅くなっているが流石に候補は少ない。
観光案内所と相談して、大体、私のプラン通りのコースになった。
・まず鎌倉駅からバスで鎌倉宮へ。
夕方から小雨になるかもしれない。
スタートは時間の節約で鎌倉駅前から「鎌倉宮」までバスに乗る。
歩く時間の半分ですむ。
神社の周りでは見事な紅葉が迎えてくれる。
・そこから永福寺(ようふくじ)に向かい、脇道の小径をどんどん登る。
史跡永福寺(ようふくじ)跡は源頼朝が建立した寺院の跡。
発掘調査により見つかった。
建物に基壇や苑池などを復元して、史跡公園として公開している。
・獅子舞という渓谷の紅葉の名所まで登っていく。
最初は住宅街を抜けていくのだが、脇道が見え、そのままその小径をどんどん進む。
いくほどに自然感たっぷりの小径になっていく。
いつの間にか渓谷のような小径になり、足を滑らせないように気をつけて歩く。
20分も歩くだろうか、山の中を歩く感覚になる。
・多分、素晴らしい紅葉を楽しめるはずだ。
このコースを歩けば、鎌倉の紅葉のフィナーレを楽しむことができる。
久しぶりに鎌倉訪問の(めぐりさん)も満足してくれるに違いない。
獅子舞という谷は、意外と知られていない。
ここは鎌倉市の市有地ではないので、観光協会も紹介しにくいからだ。
観光地図にも紹介がない場合が多い。
目印は大きな岩で獅子の顔のように見える。〈獅子岩〉という名前だ。
岩全体ではなく、上の部分が獅子の顔部分だ。
言われると、そう見えるでしょう。
・そのまま登り坂を進んで(天園ハイキングコース)へ上がる。
〈獅子岩〉の周りで写真を撮り、また歩き始める。
しばらく登り坂を進むとTの字のつきあたりに出る。
この横切っている本線は〈天園ハイキングコース〉。
建長寺から瑞泉寺を結ぶ山脈型ハイキングコースだ。
貝吹地蔵?
覗いてみるとお地蔵さんが見えた。
我々は〈瑞泉寺〉を目指す。あと1.4kmともう少しだ。
・右方向は目標の(瑞泉寺)。鎌倉の奥地にある静かな寺だ。
瑞泉寺は鎌倉二階堂紅葉ヶ谷の奥に、夢窓国師によって建てられた。
風光明媚な環境の中に鎌倉時代末期に創建された。
私はこの寺が好きだ。どの季節に来てもハズレがない。
庭園の裏に大きなヤグラが見える。昔は僧が修行をした後が見える。
瑞泉寺の紅葉も鎌倉の秋の最後を飾るように輝いている。
・二階堂まで戻り(源頼朝の墓)へ。
翌日の18日(日)がNHKの「鎌倉殿の13人」の最終回なので、
普段には見られないほどの観光客で混雑している。
・その隣にある(北条義時の法華堂へ)
この隣地にある北条義時の法華堂は、今まで見たことのないような混雑ぶりだ。
最終回では義時がどのような最後を迎えるのだろう。
そんな想いで、集まってきたようだ。
やっぱりドラマでは義時の人気が凄かったと実感した。
法華堂はARでも偲ばれる。
とにかく、こんな大行列は見たことがない。
・大蔵幕府跡の碑を眺めて、一気に駅のそばにある妙法寺へ。
清泉小学校の敷地の角に大蔵幕府跡の碑がある。
そこから小町大路を一気に1キロほど南下すると、最後の目的地(妙本寺)に着く。
鎌倉の中心地にありながらも、ここ比企谷は多くの自然があふれている。
春の桜、初夏には蛍が舞い、播州には楓や銀杏の紅葉が彩を添えてくれる。
まだ、なんとか鎌倉の紅葉を楽しませてくれた。
妙本寺は元:比企能員の屋敷で、比企の乱で比企一族が北条氏を中心とする大軍に、
責められて滅ばされた地でもある。
比企一族の墓もある。
今回は、珍しい3人の紅葉歩きだったが、なんとか見事な紅葉を楽しむことができた。
約束通り(飲み会)は行わずに、温かいコーヒーで1日の総括をした次第だ。
年末、鎌倉を離れていたので、蔵出しテーマのような感じで掲載が遅れました。
大河ドラマの追いかけがすんだので、以前のように週1回を目処に、
楽しいテーマを探して、発信してまいります。
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2023年鎌倉の新春。とっても寒い。外気は5度もないだろう。
だけれど、天気予報の通り雲ひとつない良い天気になった。
この浜で見る初日の出は、ちょうど40年目になる。
数回、伊豆のロッジで、家族と元旦を迎えたことは除くと、
海外赴任中も、おそらく元旦は鎌倉にいた。
あけましておめでとうございます。
コロナ禍に悩まされたこの3年。
このままおさまって欲しいと思うのは、皆さんも同じ願いに違いないですね。
我が家から日坂(にっさか)を鎌倉高校正門まで登り江ノ電の踏切りに下る。
アニメの〈スラムダンク〉の聖地で、彼の国のファンで人だかりになるところだ。
国道134号線を渡ると、そこは初日の出の聖地でもある。
家からわずか10分足らずのところだ。
朝、6時52分三浦半島の山影から太陽が姿を現した。
ゴミゼロの浜を照らすか初茜 武舟
波打ちぎわまで、多くの人が出て、日の出を待っていた。
一瞬、周囲のどよめきのなかで、私は手を合わせて、自らの健康に、今まで以上に感謝した。
年末にちょっとした身体に問題が見つかり10日間ほど入院した。
体は正直ものだ。たった10日間で足が弱っている。
かつて〈鎌倉からソウルまでの徒歩の旅〉を実行した健脚が弱っている。
だから、余計に何げないこの一瞬を人一倍感謝した。
しかし今年はこの2年間には、見られないほどの人の数だ。
コロナ禍の前のような混雑ぶりだった。
すでに、この浜辺は、マスクをしていたが、
ウィズ・コロナのような日常感が漂っていた。
帰途は少しまわり道をして、小動神社に参拝した。
ここも、例年見ないほどの参列者が並んでいた。
腰越漁港から霊峰富士もしっかりと姿を見せている。
ここでもこの一年、無事に過ごせますようにと祈った。
帰り際に〈富士より高いビルディング〉のワンカットも撮ってみた(笑)
134号線沿いに、腰越仲間のかおかおパンダさんのイラスト壁画がある。
Sunshine for all.
昼からは長男家族がやってきた。
8歳、11歳のふたりの孫も久しぶりに会う。
ちょっと見ないうちに、大きくなった。
1日中、食べて、おしゃべりして、みんなでゲームを遊んで、また食べた。
夕飯は浜松の友人の店から取り寄せた鰻だ。
今日の徒歩は、わずかに約6800歩だった。
〈追記〉
後輩の年賀状で「久しぶりに先輩のブログを見たら、
NHKの大河ドラマを追いかけてばかりで、がっかりしました」と。
確かに、そうかもしれません。
鎌倉のあるプロジェクトに関わっていたために、
「鎌倉殿の13人」の番組と〈ドラマのゆかりの地〉を毎週掲載しなければならなかった。
「鎌倉から、こんにちは」の読者の皆さんは、
他のテーマだと最低でも200アクセスから500アクセスになるのだが、
このドラマは30から50アクセスしかいかない。
やめるわけにもいかずに48話(最終回)まで追いかけていた。
この結果は番組視聴率と同じようだった。
今年は、まだ鎌倉蟄居が続くものと思う。
〈あじ、サバ、回遊魚〉は難しいので、新しいシリーズを考えたいと思います。
今年も「鎌倉から、こんにちは」(略して〈かまこん〉)。
よろしくお願いします。
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12月20日の大河ドラマ第48話のブログを発信して、10日間鎌倉を留守にしていました。
一昨日帰宅して、早速、留守中の録画の中から〈グランドフィナーレ「鎌倉殿の13人」〉
を見ました。
とにかく今年は「鎌倉殿」に始まり「鎌倉殿」で終わったと言える年だった。
特にブログに掲載するために1話を最低3回は見直していた。
日帰りで往復できる〈ドラマのゆかりの地〉は、可能な限り訪ねた。
一ヶ所で3回行った韮山、三島、静岡など、自身素晴らしい思い出になった。
家では〈夕飯に帰ってくる徘徊老人〉と言われ、青春18キップのお世話にもなった。
おかげで急行は使えないが旅費をだいぶセーブできた。
伊豆では閉館時間寸前の〈北條寺〉などで、
「鎌倉から来ました。1日中、韮山を歩き、最後に北條寺を訪ねました。おしまいですか」
「えっ鎌倉からここへ?頼朝さまは伊豆から鎌倉へ行った方。では、特別に本堂へ」
と特別に本堂にご案内され、DVDもセットし直して見せてくれた。
これは伊豆では効き目のある殺し文句になった。
では〈グランドフィナーレ〉を振り返ってみよう。
この会場は大船にある鎌倉女子大の岩瀬キャンパス松本講堂。
座席数1300に対して観覧応募数は6万人を超えたようだ。
私も落選するのは当たり前だった。
ステージに登場したのは、小栗旬(義時)、小池栄子(政子)、坂口健太郎(泰時)、
宮澤エマ(実衣)、山本耕史(義村)、宮沢りえ(りく)、菊地凛子(のえ)の皆さん。
司会者「いらっしゃいました。北条家のみなさんです」
「クイズ形式の「お題トーク」で、みなさんお答え願いたいです」
この番組を応援してくれた全国の武衛の皆さんが、忘れないで欲しいことは。
「みなさんの応援の声は、私たちに届いていました。皆さんが見守ってくれて、
一緒にドラマを作っていたと思っています」
「さすが姉上」
「来年も一年大河ドラマを走ってほしいと言われたら」
「全然やれる。やります。やります。あと3年もやれる」
「そういえば、ここには最後まで生きていた方ばかりだ」
「どこかで、やり直しができたらとか、居なくなっても済むかもとか、
何度も正しい生き方になるまでやり直すとか」
「それぞれのスピンオフが見てみたいな」
「今回のようにすごい散り際を描いてくれるならば、さっさと死んでいたら良かった。」
「大河ドラマとは、花火をあげて散っていくのが普通。義村のように生き続けているのも醍醐味で、
まだ終わっていない感じがする」
「みんな散り際が格好良すぎる」
「最後まで死なないで欲しい登場人物の一位は」
「一位は難しいが、47話の義時の演説の名前を思ったら、この人がまだいたらと。
和田か、畠山か、どういう行動を取ったか。知りたい気持ちになる」
「畠山さんは、辛かったな」
「もし転生できるならば、政子が頼朝と結婚すると分かったら、止めていた。
伊豆の小さな北条家でいたら、めちゃめちゃ平和だったろう。
こんなに大変な権力の真ん中に放り込められなくてもよかった(笑)」
「頼朝が亡くならなかったら、あんまりドロドロしなかったかもね」
「それはあるかもね」
VTRの用意はないのですが、「鎌倉殿の13人」といえば、これというシーンは。
「自分が出ていないのですが、家族の悲しみ、苦しみのなか最後に集まって、
オンパラ・・・(全然言えてないよ)とか、北条家の家族が、そこから散らばっていく。
三谷さんらしい家族の良さを描いていたと思う」
「第1話の政子さんが頼朝さんと出会うシーン。キャピっとするシーン。あれが可愛かったな。
何者でもない娘だった頃の政子さん、素敵でした」
台本を受け取って、最も悩んだシーンはなんですか・
義村
「唯一、今日の最後の最後に、三谷さんからこのシーンは難しいです。
なんとかやってくれると信じていると言われた。すごい計算をした」
「りくさんが子供を亡くして、取り乱している姿見て、ようやく自分の苦しみがわかったと。
自分の気持ちに関係なく(すべて忘れて前に進みなさい)。本当にわかっていないなと思った」
クランクインした時に自分に言いたいことは。
「その日の自分に労いの言葉をかけるとダメになると思い、お前!結構ヤバイよ。
よく考えた方がいいよと言い続けた」
「めちゃ格好いい」
(*)ここからキャストたちは別室でスタッフとともにオンエアを見る。
「ご苦労様でした、小四郎」涙声。
小四郎に覆い被さるように寄り添う政子。ドラマが終わる
見終わって、小栗旬は後ろを向いてスタッフに一礼し、
「かっこいい終らせ方を撮ってくれて、本当にありがとうございました」
「これ、どの面して、ステージに戻れば良いのか、ちょっとわからないけれど・・・」
ステージ上でキャストのみなさんが余韻に浸っている。
「毒がはいっていなくてよかったね」
「そう、思いってすごい、本当に気持ちが悪くなった」
「小栗さんの肩が全てを語るようだった。背中の演技も凄かった」
「前の週までは元気な姿で出ていたので、1週間でご飯抜くしかないと。
何日も食べないでいようと」
「それなのに、美味しいパンなんか持って行ったの」
「あぁ、ありましたね。あれは、持って帰りました」
撮影の最終日の時だった。
みんなに挨拶する義時役の小栗旬。
「素晴らしい脚本と、素晴らしいスタッフに囲まれ・・・」
話し始めて声を詰まらせる小栗。後ろを向いて手で涙を拭い、
「チクショー・・・」
気持ちを取り戻して、
「本当に幸せでした。(ふぅーとため息)・・・それしかないです。本当に感謝しています」
(*)関西から大江広元役の栗原英雄さん。
札幌から頼家役の金子大地さん、トウ役の山本千尋さんがオンラインで参加した。
最後は懐かしい登場者が追悼されるように、次々と顔を並べる。
その瞬間、彼らが活躍したシーンが目に浮かんだ。
武家社会を作る話し、挙兵、権力を求めて殺し合いが続く凄惨なシーン、
時には人情が垣間見え、笑い声の中にユーモアに溢れ、三谷脚本が続いた。
しかし、今日のグランドフィナーレのステージは、家族の良さ、まるでホームドラマの、
打ち上げ会のような雰囲気だったと感じてしまった。
三谷幸喜さんの脚本作りの本当の狙いは、どこにあったのだろうか。
登場者の皆さんの言葉に反応して、表情を見て、VTR画面に涙ぐむ自分がいました。
本当に鎌倉は「鎌倉殿の13人」で始まり「鎌倉殿の13人」で終わる一年でした。
来年の「鎌倉から、こんにちは」は、しばらくはコロナ禍の延長で、
「アジ、さば、回遊魚」が困難で、鎌倉蟄居が続くと思います。
新しい企画の芯を立てて邁進したいと思います。
みなさん、良いお年をお迎えください。
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上皇は全国に義時追討を命じた。
鎌倉は徹底抗戦を選ぶ。
この国の成り立ちを変える戦乱が、目の前に迫っている。
(ドラマのプロローグより)
反目する北条義時を討ち取るために、義時追討の宣旨を出し、兵をあげた後鳥羽上皇。
「みんな、できれば戦いを望んでいない」
義村は冷ややかに見ている。
「なぜ、婿を止めなかった」
二階堂行政は、のえを叱った。
「良いではないですか。もしも太郎、五郎に何かあった時は、我が息子が執権に…」
「馬鹿者、その時、鎌倉は焼け野原じゃ」
「平家の失敗は、すみやかに追討軍に向かわなかった。すみやかに出兵すべきだ」
大江広元は強い口調で言った。
「その時は、この私が総大将になって…、こうなったのは、そもそも私のせい・・・」
義時が口火を切った。
「あなたは首を狙われてるの。ここに居なさい」
政子が遮った。
その時、三好泰信が会議に加わった。
「今こそ、議論をしている場合ではない、一刻も早く兵を出すべき」
大江と同じ考えだった。
「ここは、三善殿の意見に違いましょう」
政子の言葉で奮起し徹底抗戦を選んだ幕府は、大江広元や三善泰信の忠言を聞き入れて速やかに京へ派兵することになった。
泰時や、平盛綱らが先発隊として向かい、時房らが、これに続くことになった。
「泰時、鎌倉の命運、総大将はお前に託した」
義時は熟慮のあまり、泰時の肩を叩いた。
泰時は先陣を切り、わずか17人の兵を率いて東海道を京へ向かった。
その途上、北条の覚悟に感じ入った周囲の御家人たちが、次々と軍勢に加わった。
鎌倉勢は泰時出陣の後、東山道、北陸道からも京へと進軍し、総勢19万もの兵力に膨れ上がった。
後鳥羽上皇の近臣・藤原秀康は1万の官軍を率いて出陣していた。
鎌倉勢を都に入れまいとして宇治川で必死に戦う。
官軍は橋板を外して、京を死守するつもりだ。
「川を渡ろうとしても下流に流されてしまう」
「そんな時は、川上から入れば良い」
義村が自慢げに指示した。
「・・・やはり、あれしかない・和田合戦の時、家々の戸板を外して戦った」
「水中で筏を運ぶには鎧を脱がねばならぬ」
「今すぐ、筏を作れぇ!」
泰時が号令をかけた。兵は一斉に筏を作ることにした。
矢が飛んでくる。戸板が矢を防ぐ。
「ひるむな!!」
泰時の号令が飛ぶ。
義時は祈っている。
政子も祈っている。
「あれほど勝てると言ったのに何故?」
兼子は秀康を叱責する。
「敵の数を読み違えました。上皇様が戦に出れば流れが、一気に変わります」
秀康は上皇に懇願した。
「よし、わかった、わしが行く」
「ダメです。もしものことがあれば、どうなりますか。後白河様の言葉を思い出してください」
兼子が遮った。
小さな頃、直接聞いた後白河の言葉を思い出して考え込む後醍醐上皇。
「ここは、わしは出るわけにはいかん」
官軍は兵力の差と、泰時の作戦の前に敗北した。
「姉上、宇治川を越えたばかりか、ついに京に入りました。太郎が、やってくれました」
寝こんでいた政子に対して義時が伝えた。
「あの子は、そういう子です」
政子の言葉に重ねて実衣も、
「おめでとうございます」と。
御所では時房が後白河上皇を訪ねていた。上皇と会うのは蹴鞠以来だ。
「よう、久しぶり。時房。此度の大勝利、よくやった、見事だった」
わしを担ぎ出そうとした官軍を、よく倒した。褒めるぞ」
「時房、このことを義時によーく伝えてくれよ。時房、頼りにするぞ」
「後白河上皇様も、同じことを仰せだったな」
義時は泰時の文を読みながら懐古した。
「この言葉、お許しになりますか」
大江広元が確認するように言った。
京では泰時が後醍醐に会っている。
「我が父、北条義時の上皇に対して沙汰が届きました」
「隠岐へお移りませ。期日は七月十三日。以上でござる!」
「待て!待て、待て、わしは上皇でござるぞ」
「いやじゃ!思い知るがよい義時!」
泰時は勝ち戦に安堵したものの、その結果、朝廷を裁くという重責を担った。
「私が次の帝を決めるか、この私が…」
後鳥羽上皇は生涯、隠岐を離れることはなかった。
「太郎、先の戦いぶりは見事であった」
「見事な総大将ぶりでした」
「太郎、どうした?うかぬ顔つきじゃ」
「上皇様の一件は、あれで良かったのでしょうか」
「世のあり方が変わったのと、西の奴らに見せしめるためには、あれしかなかった」
「しかし、おかげで我らは、大悪人になってしまった」
「大悪人になったのは、この私だ。お前たちではない」
泰時と父・義時の会話だ。
義時は大江広元と協議し後鳥羽上皇を隠岐島に、その直系の皇族たちも各地に流罪とした。
さらに直孫の天皇を退位させ、後鳥羽上皇の甥を天皇として即位させた。
さらに泰時と時房を六波羅探題として京にとどめ、朝廷の動きや、さまざまな問題の対処に当たらせた。
義時は鎌倉に戻った泰時や時房から積もる話をしているときに、不意に昏倒した。
大事に至らなかったが、義時の後妻・のえが勧める薬草を煎じた物を渋々飲む。
戦いの恩賞として、東国の御家人たちに西国の所領を分け与えた。
これに西国の者たちが不満を募らせ、先の天皇を担ぎ出そうとという、怪しい動きもあるようだ。
「さっそく京で怪しい動きがあります」
「懲りない奴だ」
「わざわいの元は摘むのみ」
「都のことは私に任せてください、新しい世を作るのは私だ」
泰時は父、大江の会話に割って入った。
「やって良いことを、ちゃんと区別することだ」
六波羅探題で泰時は自信をつけたようだ。
「腹のたつ息子だ」
義時は自嘲的に言った。
「東国と西国を問わず。誰もが従うべき公平な決まりが必要だ」
泰時は考えた。
そこで武家社会の裁判規範として〈御成敗式目〉を制定することになった。
義時が運慶に作らせた「私に似せた仏像」が完成した。
「さんざ、待たせた挙句に、これか」
阿弥陀如来の胴に邪気の顔がついた像だ。
怒った義時は像を切りつけようとした途端、突然、目眩を覚えて倒れ込んだ。
「医者が言うには、誰かが毒をもったとか。誰が盛ったか気になる」
義時は茶を運んできた(のえ)につぶやいた。
「お前しか思い当たらない。そんなに家族を継がせたいか」
「執権が妻に毒をもられたとは、聞こえが悪い」
「二度と俺の前に現れるな」
義時は妻の(のえ)に訥々と言いはなった。
「もちろん、息子が後を継げないのならば・・・」
「出ていけぇ〜!」
その言葉に(のえ)は出て行こうとするが立ち止まって、義時にささやくように、
「言い忘れた、毒を手に入れてくれたのは三浦の義村」
(のえ)は、そう言い残して出て行った。
義時が小康を得た頃、三浦義村が顔を出した。
「まぁ、一杯やってくれ、のえが体に効く薬を用意してくれた」
「俺は体が丈夫なので、いらない」
「飲まないのか、他に飲まない理由があるのか」
「では、頂くとしよう」
義村は気のせいか、口が回らずに苦しんだ。
「これはただの酒だ」
義時の謎をかけた言葉の意味を理解して、仕方がなく答えた。
「俺の負けだ」
義時にとって義村は、幼馴染でもあり、盟友でもあった。
泰時への力添えを頼む義時に、
「これからも先、北条は三浦を守る」
義村は笑って言った。
義時の体調が悪化し、政子が見舞いに訪れた。
「たまに考えるの。先の人は私たちのことをどう思うかを」
「あなたは上皇様を島流しにした大悪人。私は身内を追いやって尼将軍に昇りつめた希代の悪女」
「それは言い過ぎでしょう」
と言いながらも頼朝から鎌倉を受け継ぎ、次代に繋いだ。
これからは、争いのない世が来るだろう。
「姉上は大したお方だ」
「そう思わないとやっていられない」
「それにしても頼朝様がなくなってから、多くの人が亡くなった。そりゃ顔も悪くなるはずだ」
義時はすでに鬼籍に入った顔を浮かべながら次々と名を連ねた。
その中に頼家の名前が入っていた。
説明を求める姉に話し始めた。
「頼家様は上皇様と手を組んで、この鎌倉を攻め滅ぼそうとした。
私が善児に頼んで死んでもらった。頼家様は最後まで自ら太刀を取って生き延びようと。
見事なご最後だったと聞いております」
「あの子はそう言う子です。ありがとう教えてくれて」
政子と語るうちに義時の最期が近づく。
「私には、まだやろうと言うことがある。なんとかしなくては」
「まだ、手を汚そうとするのですか」
「私は、全て地獄へもっていく。太郎のためです」
「私たちは長く生きすぎたのかもしれない」
「そこの薬を、姉上。まだ死ねない、まだ・・・」
「姉上……」
「ご苦労様でした。小四郎」
義時はじっと政子を見つめ、息を引き取った。
「鎌倉から、こんにちは」の間宮武美です。
長い間、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」におつきあいくださいました。
第48話の最終回まで、お付き合いいただきありがとうございます。
私も、大河ドラマを追いかけると言う初めての経験でした。
ゆかりの地の訪問も数多く体験しました。
家では〈夕飯に帰ってくる徘徊老人〉と揶揄されていました。
結構、疲れました。少しゆっくりさせていただきたいものです。
しばらく鎌倉を離れるので、「鎌倉から、こんにちは」休みます。
読者の皆さま、良いお年をお迎えください。
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現在、有名な鎌倉のドラマは「最後から2番目の放送」になってしまったが、
「鎌倉殿の13人」。あの有名な〈承久の乱〉は、まだ始まらない
収まったかに見えた義時と後鳥羽上皇の対立が、再び燃え上がる。
その火は、どちらかを焼くまで終わらぬほどの勢いとなる。
決戦が近い。
京で異変が起きた。
源氏の末流・源頼茂は、鎌倉の時期将軍が三寅に決まったことを不服として、
謀反を起こし内裏に火をつけて自害した。
内裏は燃えて宝物と共に焼け落ちた。
京の街が燃えてている。
「あれは内裏の方角、代々の宝物が消えてなくなるぞ」
後鳥羽上皇は驚きと共に、憎き義朝を思った。
「焼け残ったところを全て壊し、一から直そう。日の本から財を集めるのじゃ」
この一言が〈承久の乱〉のきっかけになった。
朝廷の象徴である内裏が焼け落ちると、後鳥羽上皇は再建費用を日本中の武士から、
取り立てることを決めた。
しかし、北条義時は政子、大江広元の支持を得て取り立てを先送りにする事を決断。
泰時を始め御家人たちが後鳥羽上皇との関係を心配する中、三浦義村は動いた。
後鳥羽上皇は内裏再建のために、御家人たちに費用の捻出を求めた。
おそらく、義時は命に従わず、御家人たちとの関係に亀裂が生じるだろう。
義時を嫌う後鳥羽上皇の計略だった。
「鎌倉の義時なくして世は治りません」
慈円が提言すると、
「私には日の本を治められないのか。私は決して鎌倉を許さん」
後鳥羽上皇は京都守護で義時の義兄・伊賀光季(みつき)を襲撃し、自害させた。
「これをもって、北条討伐の狼煙といたす」
義時は〈着袴の儀〉を行い三寅が鎌倉の新しい最高指導者と、御家人の前で示した。
数日後、三浦館に後鳥羽上皇の使者が現れ、義時追放を命じる院宣が三浦義村に手渡された。
義村が長沼宗政に話すと、自分にもすでに院宣が届いていると答えた。
「御家人の中には、義時をよく思っていないものもいる。
そうだ、私を頼ってくれば取り立ては免除じゃ」
義時は光季が描いた文により、後鳥羽上皇の挙兵を知って驚いた。
政子、泰時、時房、広元が御所に呼び出されて、対策の会議に加わった。
宗政も同席した。
「これは父上と御家人の間を割くことになる。上皇様の狙いは、そこだったのでは」
泰時は父に伝えた。
広元が後鳥羽上皇は有力な御家人に院宣を出しているはずだと考えを伝えると、直ぐに義村、
宗政が慌てて、院宣を差し出した。
調べると、八通の院宣が出されていることが分かった。
「これを見ろ。これは鎌倉に攻め込むのではなく、私を追討せよということだ」
自分のために鎌倉を戦場にはできない。
義時は泰時に鎌倉の今後を託したのちに政子に会いに行った。
執権として最後の役目を果たす決意を表すためだ。
「元はとはいえ、伊豆の片田舎の次男坊に、上皇様が私の討伐のために兵を差し向けようとする。
思えば検非違使の源九郎・源義経、征夷大将軍・源頼朝と並んだのです」
「北条四郎の小倅が……。おもしろき人生でありました。良い頃合いだと…」
「鎌倉にとって一番良いのはこのまま…」
「私は許しません」
政子は義時にきつい言葉で返した。
義時の召集により、御所に御家人たちが集まった。
義時が皆の前に立ち、後鳥羽上皇との経緯を話そうとし始めた時、
政子が毅然と現れた。
「あなたは下がりなさい」
「静まれ!尼将軍様から、お言葉があるぞ」
時房が大声で御家人たちを制した。
「私が話すのは最初で最後です」
義時を下がらせると、政子は紙を出して読み始めた。
「源頼朝様が朝敵を討ち果たし、関東を治めてこの方、その頼朝様のご恩は山よりも高く、
海よりも深い…」
広元に書かせた文章だ。
朝廷が仕掛けた戦により鎌倉に危機が迫っている。
ご家人の心に響くように訴えかけている。
だが、政子は途中で紙をしまった。
「これから本当のことを言います。後鳥羽上皇が狙っているのは鎌倉ではなくて、ここにいる義時の首だ」
真実を語り出した。
「鎌倉が守られるのならば、命を捨てようとこの人は言った。あなたたちのために犠牲になろうと決めた」
政子は鎌倉を守るために、執権殿は自分を犠牲にしようと強調した。
「この人は気真面目なだけ。この鎌倉を守るため、私利私欲のためではありません」
「ここで上皇様に従って、未来永劫、西の言いなりになるか。
馬鹿にするな!」
「戦って坂東武者の世を作るか…頼朝様の御に今こそ答える時だ。ならば、答えは決まっている」
続いて泰時は御家人たちに投げかけた。
「こうなったら、道は一つ。上皇様と一戦交えるしかありません」
「官軍と戦うのか!」
泰時に義時は、激しい調子で叱責した。
「そのような卑怯者は、鎌倉には一人もいないということを上皇様に教えましょう」
泰時は奮い立って声をあげ、ご家人館は雄叫びを上げた。
義時は、その状況を見て、気持ちがこみあげ涙した。
(最終回につづく)
【滋賀県長浜市】
「聖福寺」
源頼朝公よりこの地を賜り創建された日本初の禅寺である。
後に後鳥羽上皇から「扶桑最初禅窟」の勅額をいただいた。
「後鳥羽神社」「名超寺」
後鳥羽神社は、その名の通り後鳥羽天皇にゆかりのある神社。
鎌倉執権、北条義時打倒を目指して挙兵した承久の乱に敗れて、隠岐島に配流された。
名越町の名超寺には在任中と退位となってからも同てらを訪れた。
「後鳥羽上皇腰掛け石」
倉敷市に隣接する由加山の東側に位置する玉野市滝地区に後鳥羽上皇が滞在していたと言い伝えられる場所がある。後鳥羽上皇が隠岐島へ流される途中に滞在されたという。
その地域の中には「御所」という屋号のお宅がある。古い庭の片隅に「腰掛け石」がある。
後鳥羽上皇が腰をかけたと言われる。
「北条義時追悼院宣(複製)」
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鎌倉の景色になった人力車の青木登さんの生き方を紹介しよう。
1948年(昭和23年)3月の生まれ。今も74歳で毎日、鎌倉で人力車を引き続けている。
老舗人力車、昭和から平成、そして令和の鎌倉の街を駆け抜ける。
そんな青木さんを永六輔さんは「体で表現する職人」と紹介していた。
「鎌倉には青木さんがいる」(1ミリ:刊)は2018年3月、青木さんの誕生日に発刊されているが、
その本の帯には〈百歳まで生きて、九十歳まで人力車を引く〉と記されている。
このシリーズではお店訪問を軸に展開してきたが、人力車も青木さんの大事なお店だと、
気がついて取材をお願いしたいと考えていた。
以前から面識があり、小町通りで人力車を引いているときにお声をかけ取材の了解を頂いた。
(*)ちなみに小町通りは青木さんだけが人力車を引くことができる。
青木さんは茨城県の結城郡八千代町の農家で生まれた。
父母が畑へ出ている時は、赤子の登さんは籠に寝かされていた。
時々お姉さんが家に戻りに様子を見に行くと籠の中は空っぽ。
青木さんは籠をひっくり返し、段差を超えて土間までハイハイで動き回っていたと言う。
生まれた時から健康優良児そのものだった。
そのまま、小学校時代には家から田舎道を片道4キロを1時間、往復8キロ歩いていた。
中学になって自転車通学が許されていたが、上り坂あり下り坂あり毎日通ったと言う。
勉強は苦手で体力だけは自信があった。
中学では野球部に入り、捕手から投手として地区大会で優勝するなど活躍した。
当時は高校へは3割ほどしか進まずに「金の卵」などと言われて、農家の次男坊や三男坊は、
高校へは進まずに東京へ出ていた。
青木さんはご縁があり横浜市戸塚のブリヂストンに入社した。
高度成長期のど真ん中、工場は昼夜24時間の3勤務交代制。
流石に3週間毎に1週間回ってくる夜勤は寝不足になり、それでも10年は頑張った。
ご存知の通りの健康体だが、夜はキチンと眠りたい性格で10年目に転職を迎えた。
ハローワークで紹介されたのは横浜駅の相鉄ジョイナスにできる新店舗の婦人服販売店。
場違いな職場とはいえ、工場の作業着からネクタイ、背広姿で一生懸命に頑張った。
その頑張りが認められて、数年後にハンドバッグの販売店に引き抜かれて成績を上げた。
そのために怖いもの知らずの独立をしたが上手くは行かずに、
親切な知人がバッグの販売店を紹介してくれた。
その会社では千葉や栃木の支店長を任されて、静岡の浜松店の支店長になった。
そこで時流に乗り欧州のブランドバッグを仕入れて成績をあげ、大きな仕事を任された。
全国で1番の成績をあげた店は、褒賞として欧州旅行へ行けることになっていた。
東京で開かれた発表会の日に、なんと第2位の店が視察旅行に行くと知った。
会社から理由は何の説明もなかった。
この結果にショックを覚えて、浜松に戻る新幹線であまりの悔しさに泣いた。
これを転機にその会社を辞めることに決めた。
退社を控えたある日、銀行の待合席にある雑誌で飛騨高山の観光人力車の小さな記事を見つけた。
見た瞬間「これだ!」と閃いた。
人力車を引く体力は自信があり、観光案内も販売の仕事の接客業で慣れている。
高山や長崎には観光人力車はあっても、東日本には鎌倉はもちろん京都、浅草に観光人力車はない。
これはチャンスだと、早速、飛騨高山へ向かい、手始めに人力車に乗ってみた。
「自分ならもっと丁寧にやれる」と確信した。
それから毎週末に飛騨高山へ向かい、いろいろ情報収集を行った。
飛騨高山で中古の人力車を探し、譲ってもらう交渉をした。
かなり良い条件で 手に入れることができ、ありがたい話であった。
これは青木さんにとって素晴らしい転機になった。
ヨーロッパ旅行への褒賞を逃したことがピンチをチャンスに変えたことになる。
青木さんにとって人力車の記事との出会いが結果的にラッキーだったと思う。
偶然のターニングポイント。天職とはこういうことを言うのだろう。
自分にも若い時あったんですよ(笑)
鎌倉で仕事を始めるので家を探したが、収入が不安定、観光人力車という仕事が理解されずに、
困難を極めた。
そんな中、建長寺の近くに理解のある大家さんが部屋を貸してくれた。
後に雪の下に移転するまで約27年もお世話になった。
人力車の運送を待つ間、車夫としての体力づくり、鎌倉の歴史などを学習した。
数ヶ月後、飛騨高山から中古の人力車が届いたが、格安中古のために鎌倉の鍛冶屋さんで、
修理のために溶接などで人力車を補強した。
次に家の周りのコースを考え、空車で何度も何度も登り下りの坂道で練習を重ねた。
もちろん周囲に経験者もいなくて、操作マニュアルなどもなく、全くの独学だった。
有風亭以前。
実際に人に乗ってもらう練習をするために円覚寺にある幼稚園へ行き、
送り迎えするお母さんたちに、無料で協力をお願いした。
皆さん珍しい話だと興味半分に快く協力してくれた。
雪の下から北鎌倉駅へ向かう巨福呂坂は、短い距離の間で20mの勾配のある坂道だ。
北鎌倉駅周辺を回り、明月院の方まで行ったりして練習を重ねた。
営業許可を取るために奔走したが、人力車は道路交通法的には自転車と同じ軽車両扱いで、
運転免許証も不要、営業許可も不要だと分かった。
もっとも、現在街で見る全国チェーン店の営業許可の場合は、もろもろ規制も厳しいという。
開業後は故障続きで、タイヤがパンクして営業中と故障が同じ頻度の感じで、
近所の自転車屋さんと仲良くなった。
54歳。20年前の姿だ。
そのうち新聞社や雑誌社の取材が始まる。テレビの取材も重なる。
観光人力車は東日本では鎌倉以外にないからだ。
しかし、順調に仕事は始まったわけではない。
あまりに物珍しい、恥ずかしいで「乗ってみよう」というお客は増えない。
これでは食べていけない。
その頃、大船の喫茶店のオーナーさんが、事情を知り夜だけでも手伝って欲しいと。
しばらくは本業とウエィーターのアルバイトの二重生活が続いた。
「お店のお客さんとのご縁で乗車する人を紹介してもらい本当に助かりました」
「こうなると仕事が面白くなり、どうしたら快適に乗って頂き、楽しんで乗って頂けるか、
考え始めた」。
この日まで「仕事が辛い」と感じたことはなかったと言う。
しかし楽しいことばかりではないが…。
鶴岡八幡宮の新郎新婦さん
ちょうど開業して1年経った頃、鶴ヶ岡会館で結婚式を挙げた地元のお客さんが、
若宮大路の中程から段葛を歩いて行く代わりに、人力車で鶴岡八幡宮に向かいたいと
要望があった。
鎌倉駅前。
(*)鶴岡八幡宮の中を走れるのは青木さんしかいない。
鎌倉駅前のロータリーも然り。長年の経験と信頼の賜物と言える。
こうして始まった結婚式の仕事は、徐々に増えて3年目には40組ぐらいになった。
こうなると鶴ヶ岡会館の婚礼メニューに組み込んでくれて、4年目には120組にもなった。
おかげで観光案内と結婚式で売り上げが半々になった。
クチコミで広がっていく、ありがたいお話になったのだ。
夏場の鎌倉は、海水浴客は多いが暑さのあまり市内の観光客は激減する。
ところが、良いご縁が続くもので、草津の温泉街の旅館組合が町おこしのために、
夏場のイベントに何かないかと考えていた。
メンバーの中から観光人力車がいいという結論になった。
新車の人力車を準備したが、これを引く人がいない。
「鎌倉に青木さんと言う人がいますので紹介します」と言う人が現れた。
冬になると雪が多くスキー場の客だけになる。人力車は不要になる。
草津温泉にて
青木さんにとっても夏だけの草津温泉で仕事という絶好のチャンスになった。
二つ返事でOKした。
この夏場の草津温泉ゆきは35年以上も続いて、
今も夏の草津温泉での仕事は続いている。
30周年イベントにて。
海抜1000mの避暑地でもある草津温泉の夏場の企画は、
従来の〈草津町夏季音楽アカデミー〉に加えて、
〈観光人力車〉が長い間、夏場のイベントとして続いている。
コロナ前の繁忙期はお弟子さんも加えて、通常3〜4台が稼働して、
コロナの時期は青木さん一人で対応している。
ご縁とはいえ、絶好のwin-winの関係になった。
屋号が有風亭になったのは、鎌倉在住で詩人の崎南海子さんのお陰だ。
崎さんは永六輔さんのラジオ番組の構成作家を担当していて、
お母さんが小町通りの「くるみ」と言う甘味処を開いていた。
青木さんは、よく通っていて、崎さんがいつもお店に来ると知っていた。
自分は昔から永六輔さんの大ファンであり、崎さんのこともラジオでよく聞いていた。
自分の屋号を崎さんにお願いしたいと言うと、偶然に奥の部屋に崎さんがいらして、
「少し時間をいただけますか」と。
しばらくして3案の中で「有風亭」と言う鎌倉の風情を感じる屋号を青木さんは選んだ。
半纏の襟に有風亭、背中には笹竜胆(ササリンドウ)を染め込んで走っている。
(*)ササリンドウは鎌倉市のシンボル・市章。源頼朝の常紋とも言われている。
現在、雪の下のご自宅を「茶房有風亭」と名付けて奥様のいずみさんが、
「和の魅力を気軽に楽しめる空間」としてお抹茶と和菓子を楽しめるお店を開業した。
同時に着物の着付け体験など、本物の和の心を楽しめるお店と評判になっている。
崎さんとのご縁から始まり、長く憧れていた永六輔さんとのご縁に広がり、
節目の時には永さんは鎌倉を訪れて〈有風亭十周年記念祝賀会〉に参加し講演をするなど、
青木さんとの交流を続けてくれた。
冒頭で書いた「体で表現する職人」と言う言葉を、
永さんはラジオ番組やエッセイで紹介してくれたと笑顔で説明してくれた。
個人的には永さんのこの言葉は、もっとも深く心に刻んでいると真顔に戻って話してくれた。
最後に青木さんの仕事哲学について伺った。
一つ目は「お客さまに良い思い出をお持ち帰りいただくこと」。
鎌倉においで下さる方の気持ちになって、“おもてなし”をしたい。
前もってご予約いただければ、ご案内コースの下準備もできる。旬な情報をお伝えできる。
こうやってコツコツと地道に続けてきたので、今の私がある。
新興グループの人力車夫のように無理して“呼び込み”の声をかける必要もない。
円覚寺の山門前や、若宮大路付近で、静かに“客待ち”をしているのが信条になっている。
二つ目は「鎌倉の品格を大切にする」。
鎌倉は都会とは違い、ゆったりとした時間が流れている。
こうした鎌倉の風土や文化的な香りを伝えていきたい。
何気ない毎日でも、毎日旅に出ているつもりで、
日々新しい鎌倉を自分で演出していきたいと語ってくれた。
〈知らない街角を曲がると、そこから旅が始まる〉
永六輔さんの有名な言葉だ。
そんな気分をお客さまに味わってもらいたいと、今日も青木さんは鎌倉の街で人力車を走らせている。
最近出版された文字のない絵本「ウインメルブック鎌倉」(1ミリ:刊)では、
鎌倉の風景として、青木さんの人力車に頼朝さんと政子さんが乗っている。
中身の濃い取材が終わった頃は、どっぷりと日が暮れていた。
青木さんは、家に帰る道は遠くはないけれど、人力車に提灯と後方にもライトをつけて、
小町通りを抜けて帰途に着きました。
素晴らしいお話を、友達のようにお話ししてくれた。
本当にありがとうございました。
鎌倉の青木さんの日常をもっと知りたい方は「鎌倉には青木さんがいる」(1ミリ:刊)を、
お求めいたくと、よくご理解ができると思います。
私も再読し、今回の詳細な部分の表現に役立ちました。
(*)なお、著書の中の写真使用、お客様との写真は、全て許可を得て掲載しております。
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鎌倉殿の不在が続いている。
政権崩壊の危機が迫る中、義時と後鳥羽上皇の根比べは、
緊張を増していく。
(ドラマのプロローグより)
新たな鎌倉殿を迎えようと朝廷に伺いを立てる北条義時、大江広元たち、実衣が野心を燃やし、三浦義村が暗躍する中、京では鎌倉への不信感を高めた後鳥羽上皇が、藤原兼子、慈円とともに今後を見据えて鎌倉への圧力を強めていく。
実朝と公卿の死により、源氏の嫡流は、頼朝の異母弟で謀反の罪で斬首された阿野全成と、
妻・実衣の息子の阿野時元だ。実衣は時元を鎌倉殿にしたい気持ちでいっぱいだ。
鎌倉殿になるには朝廷が出す宣旨が必要だと知った実衣は義村に相談した。
「次の鎌倉殿は時元になったと朝廷に伝えるのだ。この三浦にお任せください」
「息子が鎌倉殿になったら、執権は平六殿、あなたに」
この実衣の言質を、義時に、
「実衣は食いついて来た。あとは時元を挙兵に追い込むだけだ。それを謀反人として討ち取る」
義時と義村の計略に実衣ははまってしまった。
後鳥羽上皇は頼仁親王の下向を催促して来た鎌倉からの文に苦虫を潰したような顔に。
「不始末を詫びて辞退するかと思ったら、ぬけぬけと催促してきおった」
「あくまでも、こちらから断らせようしているようだ」
慈円は鎌倉を出し抜く思案を始めた。
実朝の死からひと月もしないうちに、時元は踊らされているとは気がつかずに、挙兵を試み、
義時の差し向けた塀に囲まれて自害した。
御所において実衣の詮議が始まった。
「覚えがありません」
実衣は一切の関わりを繰り返し、繰り返し否定した。
ところが、時元に書き送った文が見つかり、文面を読み上げられた。
実衣は関わりを認めざるを得なくなった。
実衣の部屋からも書きかけの文が見つかった。
実衣の言い逃れる術が無くなった。
「厳罰に処すべきです」
義時はどこまでが本気か、死罪が相当だと主張した。
政子は、驚き、懸命に実衣を擁護して、
泰時も源氏嫡流の立場の時元に同情して、政子に同調した。
「大切な肉親でも、罪を犯した時は罰する。そうすれば御家人たちは、
尼御台への忠義を誓うことになる」
大江広元は加えて言った。
実衣が女であることも考慮されて、処罰が決まるまで部屋に閉じ込められた。
翌月になって、後醍醐上皇から返書が届いた。
二人の親王のうち、どちらにするか、時間をかけて吟味すると。
すでに、頼仁新王に決まっていた話が後退してしまった。
義時を怒らせ、鎌倉が断るのを待つ作戦にでた。
義時、後鳥羽上皇、どちらが駆け引きに勝つかの戦いになった。
(*)どちらもしたたかだ。
政子は、気晴らしに御所を出て、町の人の暮らしぶりを見て、直接言葉を交わしたいと考えた。
「私は私の政をしたいのです」
政子は広元に相談した。
「施餓鬼(せがき)をしたらいかがですか」
施餓鬼とは子爵用の儀式で、法要の後、備えられた供物を、貧しい民百姓にふるまうことだ。
「民と触れ合うには良い機会かと」
早速、施餓鬼を行うと、御所の庭に人が集い、泰時、平盛綱が手伝って供物を下げ渡していく。
政子は辛い生活をしている民百姓を励まそうとしたのだが、気づくと政子が励まされていた。
次の鎌倉殿は皇族ではなく、摂関家から選んでくれる方が、
鎌倉の意のままになりやすくて望ましい。
政子はこの件について広元以外の宿老たちから承諾を得たのかと確かめた。
「私の考えが鎌倉の考えです」
義時は有無を言わせなかった。
時房は1000の兵を率いて上洛した。
軍勢は護衛であり、朝廷への脅しではないと申し開きするが、
後鳥羽上皇は額面通り受け取るはずがない。
「これでは埒があかぬ」
後鳥羽上皇は蹴鞠での真剣勝負を挑んでくる。
「望むところでございます」
時房と、後鳥羽上皇はどちらも必死で激しい蹴り合いになった。
後鳥羽上皇がよろめいた。
「引き分けじゃ」
審判役の藤原兼子が鞠を取り上げた。
時房は、勝ちを目前で撮り逃したが、兼子が耳元で囁いた。
「上皇様を負かせたとなれば、上皇はあなたを許しはすまい。
末代まで朝敵の汚名を着ることになる」
縁側で休む後鳥羽上皇の前に時房が手をついた。
「わしを負かすことはできなかったが、そなたの力は認めよう」
後鳥羽上皇は親王ではなく、代わりのものを鎌倉に送ることで手を打った。
しばらくして慈円が極秘で鎌倉を訪れた。
「我が九条の一門、道家公の三男は寅の年、寅の月、
寅の刻の生まれゆえ、三寅と呼ばれておる…」
三寅の出自を早口で語る慈円を、義時と政子は穴のあくほど見つめて聞いたが理解できない。
「摂関家の流れをくみ、なおかつ源氏の血を引くお方だ」
「ちなみに三寅様はおいくつになられるのですか」
「……二歳でござる」
政子と義時は顔を見合わせた。
京の後鳥羽上皇は、腹の虫が収まらない。
「結局は鎌倉の思いのまま。どう思う秀康」
再面の武士。藤原秀康に聞いた。
「私の気になるのは慈円」
鎌倉の次の将軍は、慈円の一存で同じ九条一門の三寅に決まった。
その後、三寅が鎌倉に到着した。
三寅はまだ幼く、元服するまで待ってから征夷大将軍に就任してもらいしかない。
「私が執権として政を執り行うので問題はないかと」
政子が反対した。
「あなたは、自分を過信しています」
二歳の三寅に御家人が敬意を持って従うはずがなく、鎌倉が再び乱れかねない。
「私が鎌倉殿の代わりになりましょう」
思いがけない政子の態度に義時が驚いた。
だが、そもそも頼朝の威光を示すことのできるのは政子だけだと言い含めたのは義時だった。
「鎌倉殿と同じ力を認めていただきます。呼び方は…、尼将軍にいたします」
その日の夕方、政子は三寅を膝に乗せて首座につき、その前に御家人がずらりと並んだ。
尼将軍の・政子のお披露目でもあった。
政子はこれで、義時でも刃向かえない力を手に入れた。
真っ先に、捕えの身である実衣を助け出した。
(つづく)
【東京都大田区】
「多摩川浅間神社」
浅間神社は、今から800年前の創建と言われる。出陣した右大将源頼朝の跡を追って政子は
ここまできたが、草鞋の傷が痛みだし、やむなく多摩川畔できずの治療をすることになった。
裏の亀甲山へ登と富士山が鮮やかに見えた。富士吉田には、自分の守り神である「浅間神社」がある。
政子はその浅間神社に手を合わせ、頼朝の武運長久をお乗り身につけていた「正観音像」を、
この岡に建てました。
「雲林寺」
雲林寺の創建年代などは不詳ながら、北条政子が頼朝の冥福を祈念するために、
草創したとも伝えられています。
【神奈川県鎌倉市】
「安養院」
源頼朝の菩提を弔うため妻の北条政子が、笹目が谷に建立した祇園山長楽寺が前身。
その後、鎌倉時代末期にこの地に移り安養院になったと言われる。
寺名は政子の法名「安養院」にちなんで改められた。
早速、朝から天気が良いので訪れた。
北条政子の墓(安養院)
「鎌倉文学館(長楽寺跡)」
笹目の長楽寺は、頼朝の菩提を弔うために北条政子によって建立された。
政子がなくなり、三代執権北条泰時が伽藍を整備し、寺名を安養院と改めた。
「北条政子像」(安養院蔵)
安養院の名は政子の法名。本堂には本尊阿弥陀如来像と北条政子像が安置されている。
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定年後〈あじ、サバ、回遊魚〉を標榜して、海外、国内のあちこちに回遊していた私。
〈80日間掛けて歩いた鎌倉からソウルまでの徒歩の旅〉という行動を通じて、
『鎌倉―ソウル2328キロを歩く』(講談社+α新書:刊)を上梓した。
HPを通じて、毎日の旅を発信していた。
日韓関係が良好だった頃の5年間の韓国赴任から生まれた個人的な大イベントだ。
ソウルの仲間に対する歩いて伝える感謝の旅の記録だった。
そこから発展した鎌倉市と韓国安東市との姉妹都市目指して、鎌倉、韓国を行ったり来たり。
最終的には8年かかってパートナーシティとして提携した。
会社員時代には、考えられないほど、たくさんの地元の仲間が増えた。
〈八ヶ岳農場を愛する会〉では信州を行ったり来たり。
加藤登紀子の農場音楽祭、農場に2000人の観客を集めた。
JR信州キャンペーンに参加のために「八ヶ岳農場 鶏めし にわっとり」、
駅弁を開発して駅や農場で売った。地元の定番商品になった。
駅弁ネーミング、「にわっとり音頭」の作詞まで、調子に乗って担当した。
〈考えるのは自分、行動するのは自分。責任とるのは自分〉。
これが定年後の私の基本の行動原則だ。
回遊魚として動く理由は、それなりに自分で考えての行動だった。
定年後、ご縁があり宣伝会議で、広告業界の若者に対して講義を担当した。
「広告営業職養成講座(現:提案営業力養成講座)」を今年の秋まで17年間も継続して、
表参道へ通った。
このコロナ禍で行動範囲が、極端に限られてしまった。
10年通った東京の広告制作会社。副社長を経て特別顧問と年齢的なことや、
やるべきことが一段落して、この組織から離れた。
密度の濃い、広告業界、元勤務先の広告会社との関係も意義ある関係性が保たれた。
ちょうど、数年書き続けていた著作『僕たちの広告時代』(宣伝会議:刊)を、
上梓した途端にコロナ禍に見舞われた。
書店はビルごと閉まり、準備していた出版パーティーもキャンセル、トークショーも延期。
まさに〈鎌倉蟄居〉が強いられた。
仲間との飲み会も毎日の〈家飲み〉に変わった。
同時進行した糖質制限で、数キロ減量ができた。仲間はコロナ太りと嘆いていたのに。
そんな頃、偶然にご縁のできた〈鎌倉農泊協議会〉。
空き家、古民家を再生して宿として泊まってもらい、町で鎌倉野菜、
湘南の魚を食べていただくプロジェクト。
アドバイザーとして参加した。
鎌倉中心の活動範囲も良かった。
まさに、広告業界で得た知見を地元の活性化に生かせる仕事だった。
行政と近い関係で鎌倉市長とも理解ある協働ができ、協議会のプレステージも上がった。
今年はNHKで大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まった。
ブログでも追いかけて、ドラマのゆかりの地を巡って、伊豆、房総半島、埼玉、
静岡と日帰りで行けるところは、ぼぼ全地域、取材という形で訪問取材。
〈あじ、サバ、回遊魚〉が復活した。
約2年間、十分に楽しい地元活性化の活動だったが、
「鎌倉農泊協議会」をある理由で11月30日に退会した。
その内容は11月30日のこの「鎌倉から、こんにちは」で紹介した通りだ。
定年退職後、17年間、息つく暇もなく、多くのミッションの中、現役並みに動いていた。
急に、ぽっかりと有り余る時間ができた。
気がついたら、5月からご縁のできた〈鎌倉インテル〉の熱烈サポーターになっていた。
隔週、ホームの〈鳩スタ〉やアウエイのスタジアムへ、
同じく熱烈サポーターの仲間と応援に駆けつけている。
試合後の打ち上げで、飲みながらゲームの解説を受けるなど、
サッカー音痴の私は学ぶことが多かった。
〈野田の湯の奇跡〉から始まった鎌倉インテルとの関係は、
銭湯であった選手の(高澤さん)から、一気にオーナーの(四方さん)
(C OOの杉之尾さん)(堀米さん)(GM吉田さん)(岡崎さん)とも親しくなり、
観光庁事業の鎌倉の活性化に参加していただいた。
今季、神奈川社会人サッカーリーグ2部で、16チーム中1位を走り続けていたが、
最終戦で勝利、得失点3点以上で勝たないと優勝できないことになった。
結果的に相手チームに5対0で完璧な勝利。優勝のためには得失点の最低3点差を簡単にクリア。
2位のチームと勝ち点、試合数、勝利数、引き分け数で同数で並び、
得失点+31で2位に差をつけて優勝した。
鳩スタに大勢のサポーターが熱い応援をし、喜びもひとしおだった。
1部との昇格戦は、18日新横浜にある〈しんよこフットボールパーク〉で行われる。
当然、熱烈観戦のために行く予定。
寒いので厚着のセーターの中には、鎌倉インテルの応援Tシャツを着て行く。
さて、もう一つの熱中しているのは、鎌倉密着型のウクレレソングユニットの
「小川コータ&とまそん(通称コタとま)」。
お二人は、FMヨコハマの日曜日の朝「SHONAN by the Sea」で、
DJ秀島史香さんと一緒にレギュラーコーナー「小川コータ&とまそんB3PO」で、
ビーチサンダル(ビーサン)履いて、湘南の各所からレポートを行なっている。
気持ちの良い日曜日の朝、ウォーキングしながら彼らのラジオから流れるトークを聴いてていた。
ある時にコータさんとはFBで友達になった。
10月10日に行われた鎌倉インテル主催の「鳩スタ誕生1周年記念感謝祭」で、
サッカーグラウンドで行われるイベントの最期の目玉のステージに出演する。
会場でコータさんに、直に初めて会った。
しばらくして友人の藤沢駅近くにある〈さざなみコーヒー〉に行っていたら、
このあと「コタとま」が雑誌の取材でこの店に来るとオーナーの沢田さんから聞いた。
すると、早速二人が媒体社のかたと一緒に入ってきた。
しばらく、おしゃべりをして、仕事の邪魔になるとお店を出た。
これを機会に拙著をお二人に署名を入れて贈った。
コータさんは大学の後輩でもある。
最近は鎌倉農泊協議会が観光庁の助成金事業で、
湘南モノレール〈湘南江の島駅〉で行ったイベントに、〈コタとま〉が目玉企画としてが出演した。
当初はこのイベントも私が担当することになっていたが、
鎌倉農泊協議会を退会寸前なので担当をはずれていた。
スタッフでもない、一般参加者でもない不思議な感覚でステージを楽しんだ。
そして12月2日に鎌倉芸術館で行われた〈コタとま10周年記念コンサート〉。
定員600人の会場に老若男女に子供たちで満席になった。
タイトルは「3910 =10年分のありがとう」。前売り券も3910円。
鎌倉在住のお二人が、地域密着型の演奏活動をしている。
オープニングは「10年分のありがとう」
・旅に出よう
・江ノ電メドレー
・由比ヶ浜
・極楽月夜
・江ノ島
・金木犀(柳小路)
・ビーチコーミング
・ちょい待ち、大町
・稲村ヶ崎音頭
・材木座
(*)鎌倉・湘南の地名、風景や人、お祭りを歌い込んだ沢山の楽曲を披露してくれた。
アンコールはお祭り姿の仲間が現れて、楽しいトークと歌と踊りで終わった。
ステージには鎌倉竹部の竹で作られたモニュメントや大きな竹提灯が飾られていた。
最後は出演者が観客席を背にして、奥のカメラが出演者と観客が、
一体になって一枚の写真に収まった。
これは鳩スタで試合後に選手一堂の後ろにサポーターたちが一緒に収まる風景と全く同じだ。
地域のファンを大事に、一緒に楽しもうというコンセプトだ。
私が、最近〈ハマる〉大きな理由だ。
年甲斐もなく、鎌倉を楽しんでいる、今日この頃だ。
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実朝の右大臣就任を祝う武家の都。
しかし、三代鎌倉殿代替わりで生まれた歪みは、
取り返しのつかないところまで来ていた。
(ドラマのプロローグより)
京から大納言ら公卿を招き、鶴岡八幡宮で盛大に執り行われる源実朝の右大臣拝賀式。
泰時が警固をする中、公卿は門弟と共に木の陰に潜んでいた。御家人たちに交じり、
状況を生還する三浦義村。
今後の鎌倉と自身に運命を賭し、儀式を見守る義時と時房。
式を終えて楼門から出てきた実朝を公卿と源仲章が迎えて整列すると、牡丹雪が積もる中・・・。
雪の降りしきる夜、源実朝は 鶴岡八幡宮本宮での拝賀式を終えて廊下へ出た。
大階段上の楼門前に、 公卿5人と太刀持ちが控えている。
実頼が庭に目をやると、巫女のおばばがいる。
「天命に逆らうな…天命に逆らうな!」と言い残し、おばばは暗闇に消えていった。
大階段下では、殿上人や御家人たちが待機している。そこに三浦義村が来て、
大階段を見上げていたが、肩を叩かれて振り返ると、驚いたことに義時がいた。
太刀持ちとして楼門まで実朝に従ったはずだ。
義時は拝賀式の直前になって、実朝からの命令だと源仲章に言われ、太刀持ちの役から外された。
義時は気が付かれないように義村を近くに呼んだ。
「公卿殿はどこに隠れている」
「公卿殿が打ち損じたら、私は終わりだ」
泰時が駆けつけてきて、公卿が義時の命を狙っていると知らせた。
実朝が楼門を出たのを見て、泰時が実朝に危険を知らせようと階段を駆け上がろうとした。
すると、義時がその腕を掴んで止めた。時房も義村も、泰時の行く手を立ちふさいだ。
実朝が誇らしい表情で大階段を降り始め、公卿たちが後に続く。
「覚悟!」
雄叫びを上げながら公卿と門弟たちが銀杏の木の影から飛び出し、
どどっと大階段を駆け上がる。
一瞬のうちに公卿が、太刀持ちを目掛けて斬りつけた。
あっ!義時ではない。仲章にとどめを刺したのだ。
その後、公卿は実朝に狙いを定めた。
それを感じて実朝の脳裏では「天命に逆らうな」というおばばの声が聞こえた。
隠し持っていた小刀を手放すと、するりと小刀は雪の降る地面に落ちた。
一瞬の出来事であった。
実朝は白く降り積もった雪を赤く染めて倒れ、絶命した。
「この公卿、親の仇を討ったぞ」
「切り捨てよ」
義時が命じ、逃げ惑う公卿を追う御家人の間を、おばばが「天命に逆らうな」と、
誰彼かまわず話しかけていた。
実朝の亡骸は御所に移された。
後鳥羽上皇にこの一件を知らせる文を出し、鎌倉に動揺は一切ないと記して、
自ら隙のないところを見せなくてはならない。
政子は実衣がもたらした突然の悲報に茫然自失となった。
実朝の死を嘆いて、公卿の命は助けたいと心が乱れる。
そこへ実朝の妻・千世が現れて、和歌を詠んだ紙を政子に渡した。
〈出ならば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな〉
実朝の別れの歌だ。
義村は公卿と三浦家の関わりを示すものは、全てを焼き捨てるよう命じた。
「我らが謀反に加担していたことを、公卿にしゃべられたら、三浦は終わりなんだ」
その時、公卿は、ひと目政子に会いたくて御所に忍び込み、政子がこっそり居室に招きこんでいた。
実朝を殺した謀反人に御家人の信頼は得られずに、鎌倉殿になれないと公卿は分かっていた。
「分かっているならば、どうして」
公卿は抱えていた布包みを広げた。鎌倉殿の証である髑髏だった。
「四代目は私です」
公卿は髑髏を抱えて、その場から走り去った。
義時から追及されて義村は公卿をたきつけたことを認めた。
実朝の代わりに公卿を据えて、自分が武士の頂点に立ちたかったが、
義時の姿を見て嫌気がさしたと言った。
「今のお前は、力にしがみついて、恨みを集め怯えている。そんなお前を見て、
誰が取って代わろうとするか」
「私にはもう敵はいない。天も味方してくれる。これからは好きにやらせもらう」
「頼朝気取りか」
義村は言い置き帰ろうとする。
「私が狙われていた事は知っていた?私に死んで欲しかったのではないか?」
義村は義時の殺意を知っていたなら、その場で公卿を殺していたと言い切って立ち去った。
義村が三浦館に戻ると、公卿が逃げ込んでいる。
「円成寺ならば、かくまってくれる」
義村は段取りをつけると言いながら、公卿の後ろに回って一気に刺し殺した。
御所に御家人たちが集まった。
義村が公卿の首桶を差し出し、義時が中を確認した。
「鎌倉殿の仇は義村が取ってくれたぞ」
義時が一同を見渡し、大江広元がうなずいた。
「この先もこの三浦一門が、鎌倉のために身命を賭して働く所存にございます」
このあと、義時は、夢で見た犬そっくりの白い犬が目の前に現れ、
急に気分が悪くなり、仲章に立ち元の役目を代わってもらったと宿老や泰時に話した。
「あの時、何ゆえ、私の腕を掴まれたのですか」
泰時は義時を非難し、鎌倉を思い通りにするならば、きっと阻んで見せると挑むように言った。
政子は実朝も公卿も失い、生きる希望を失った。小刀を首に当てたときに義時の雑色・トウが、
止めたのだった。
後鳥羽上皇は、鎌倉での殺戮に動揺した。
「つくづく鎌倉とは忌まわしいところだ」
「恐ろしや恐ろしや、鎌倉なんぞに親王さまを行かせてはなりません」
藤原兼子が話をして差し戻してほしいとと望み、後鳥羽上皇も白紙に戻そうとする。
「そうすれば、ますます北条のやりたい放題になります」
慈円が首をひねった。
鎌倉でも親王を迎えるかどうか意見が分かれていた。
「ならば向こうから断ってくるように仕向けたい。
1日も早く鎌倉に親王が来て頂きたいと強く催促するのだ」
義時は朝廷と駆け引きを始めた。
義時は運慶に「自分に似せた仏像」を依頼した。
「天下の運慶に、神仏と一体になった自分の像を作らせる。頼朝さまがなしえなかったことをする」
(つづく)
【神奈川県鎌倉市】
「鶴岡八幡宮」
鎌倉幕府を築いた源頼朝の祖先源頼義が、京都の石清水八幡宮を勧請した。
頼義は石清水八幡宮を篤く信仰しており、源氏の氏神として八幡神を鎌倉の由比ヶ浜辺に祀った。
(現:元八幡)
その後、源頼朝が現在の地に鶴岡八幡宮の基礎を造った。
以来、源氏をここに祀ることになった。
「白旗神社」
朝廷から白旗大明神の神号を賜り、源頼朝を祭神として創建された。
のちに源実朝を祀る柳営社と合祀され、現在の祭神は頼朝と実朝である。
【神奈川県秦野市】
「源実朝御首塚」
実朝を殺害した公卿は、その首を放さず持ち続けた。
三浦義村や肩の赴くときに殺害された。
首の行方は、不明であるが三浦一族の武常晴により秦野の地へ運び、
波多野忠綱に供養を願い出て葬られたと言われるが、実朝の暗殺の背景とともに謎である。
「金剛寺」
鎌倉で暗殺された源実朝の御首を武常晴が秦野忠綱に埋葬を委ねたことから、
実朝の五輪塔が建てられた。
金剛寺は実朝の法号の金剛寺殿にちなんでつけられた。
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ある日、FBで「鎌倉のために一緒に活動しませんか」という情報を見た。
鎌倉農泊協議会という任意団体の広告だった。
(えつこさん)と(ようこさん)が笑顔で出演していた。
早速社長の(おおかわさん)と鎌倉で会った。
「鎌倉は観光に冷たい街ですね」
第一声の言葉だった。
「鎌倉は、もうこれ以上は来ないでという街です。強い市民感情があるので、
どんなに良い意見でも、市は簡単には動きません」
「どうしたら良いですか」
「そうですね。鎌倉市とあなたたちの課題は共通しているようです。
市長と会って共通の課題を共有する対談をしたいと言えばどうですか」
「そんなことできますか」
すぐに松尾市長に連絡したら、間宮さんがそういう活動に参加するならばと即座に了解してくれた。
その瞬間、このプロジェクトで一緒に活動することになった。
双方予定を調整して市役所で松尾市長と40分の対談を動画に収め、YouTubeで発信した。
石渡前市長、浅尾慶一郎さんとも同様のテーマで対談をした。
高齢化、空き家問題、オーバーツーリズム、SDGs(継続可能な開発目標)、
鎌倉ブランドという共通課題について中身の濃い討論ができた。
以降、市役所の多くの部署とも対応して、我々のプロジェクトのプレゼンスも高まった。
【作文コンクール】
社長から「歌姫コンクール」を企画していると聞いた。
そのイベントはプロジェクトのゴール目標と方向が違いすぎると指摘した。
空き家、古民家を再生して宿として泊まって街で鎌倉野菜、湘南のお魚を食べることで、
第1次生産者が元気になる。
このコンセプトで農水省の助成金を受けているプロジェクトと説明を受けている。
その考え方に沿うならばと、次に提案したのは「お魚大好き!お野菜大好き!」
小中学生の作文コンクールだ。
早速、鎌倉市、鎌倉市教育委員会の後援事業申請が受理された。
2回目は「鎌倉大好き!」というテーマで展開した。
松尾市長、岩岡教育長、面白法人カヤックの柳沢大輔さんに、優秀作品の総評をお願いした。
タウンニュース、J:COMなど地元マスコミにも紹介されて任意団体の名前が浸透し始めた。
2021年になりコロナ禍の中で観光産業(鉄道、宿、飲料店)の落ち込みを活性化する企画を、
観光庁が募集し、スタッフ全員で企画提案をした結果、観光庁の多額な助成金を得ることができた。
社長始め、スタッフの力の賜物だった。
【湘南モノレールのラッピング車両】
湘南モノレールとのコラボ企画だ。
地元の人気イラストレーターのかおかおパンダさんに、多忙の中お願いして、
3車両を一つのキャンバスとして太陽、虹、パンダ、ペンギン、ブタなどの
キャラクターを描いてもらった。
2021年12月から今年の2月まで3ヶ月、大船駅と湘南江の島駅の間の景色の中で元気に走行した。
我々のプロジェクトの名前もしっかりとレイアウトし話題になった。
【岡田サリーさんの料理セミナー】
サリーさんとは小さな時からのご縁で、観光庁の実証実験企画として、
腰越の宿のキッチンで8名ほどの(サリ飯)料理セミナーを3回に分けて実行した。
祖母のデンマークの味、一家で住んだハワイの料理をベースにした野菜中心の大皿料理。
私は傍で写真撮影やセミナーのサポート役で、最後はワインと美味しい料理のご相伴に預かった。
【湘南天狼院のモデル撮影会】
天狼院書店は全国で10店舗の新しい形の書店だ。
書店でありなが店内ではコーヒー、食事もでき、
各種セミナー、トークショーと活動する本屋さんだ。
湘南天狼院とコラボして腰越地区、材木座地区の活性化のためにモデル撮影会を行った。
カメラを撮るイベント参加者10名にプロの指導者がついて楽しい撮影会。
最後は宿のテレビを通じて作品発表と講習会を行い、鎌倉の風景として天狼院を通じて拡散した。
【高校生たちによるイベントサポート】
Cominia(コミニア)という鎌倉在住の学生団体の活動をサポートするために、
腰越、材木座の宿を利用して会としてイベントのサポートを行った。
孫のような若者たちと楽しい時間を共有できた。
【鎌倉インテルとの出会い】
大船の富士見町にある銭湯で二人の若者と知り合いになった。
「野田の湯の奇跡」というタイトルで既にこのブログでも紹介した。
その若者は「鎌倉インテル」という地元の社会人サッカーで、
神奈川社会人リーグ2部のチームメンバーだった。
鎌倉インテルは、現在、リーグ16チーム中で暫定1位の魅力的なチームだ。
あれよあれよという間に責任者の(よもさん)(すぎのおさん)と、
プロジェクトとの連携の話まで上り詰めた。
鎌倉インテルは湘南深沢に鳩スタというホームグラウンドを期限付きだが自前で持っている。
シーズン中はサッカーの試合が日曜の9時から始まる。
しっかりした応援の仕組みもできている。
クラウドファンディングもしっかりしている。
深沢地区も鎌倉市のオーバーツーリズムからは外れた地域。
市役所移転も抱えている重要な地域だ。
今年の観光庁のプロジェクトで深沢地区の活性化でコラボした。
【腰越の優れた若者たちの町おこし】
これは我々のプロジェクトのイベントではないが腰越の町おこしの一環で行っているお祭りだ。
龍口寺で行った「腰越スカイランタン祭り」。
腰越が好きで、腰越のために何かをしたいメンバーを「チーム腰越」という。
このメンバーと組んで先日、観光庁の一環のイベントを行った。
(*)モノレールの湘南江の島駅ビルでのイベントは初期企画は自ら推進していたが、
途中から、ある事情により担当から外れた。
第一部の「コータ&とまそん」は仲間なので、客席の前の方で楽しんだ。
後のイベントの企画の流れは把握していないので、腰越のイベントを回遊した。
腰越の街では「ぶらり呑み歩きの日(ぶら呑み)」企画とコラボしている。
リーダーのじゅんさんを見つけたところから、実施については私はじゅんさんにお任せになった。
スタッフでもない、一般参加者でもない不思議な感覚で過ごした1日だった。
私が誘った若い仲間たちが元気に活動しているのが嬉しい。
約2年前に鎌倉農泊協議会にはアドバイザーの役割で参加したが、
スタッフが少なくプレーヤーとしての役目も多かった。
最近になって社長の〈鎌倉への想い、ゴール目標〉にすれ違いが多くなり、
残念ながらプロジェクトを去る事になった。
スタッフとしては今後の課題に対して展開したいことも案も残っているが、
ほぼ〈やり切った〉感があり、もはや何の未練はない。
とにかく約2年間、年齢の割には目的に向かってやりたいことを、
新しいスタッフたちと活動させていただいたことを、プロジェクトの皆さんには感謝している。
これからは鎌倉人として、地元の若いメンバーと鎌倉の活性化について、
ともに行動していければ良いなと考えている。
鎌倉農泊協議会の(えつこさん)(ただおさん)(ようこさん)(たどころさん)(さがわさん)
(なみさん)(他のみなさん)
作文コンクールの審査員の(きむらさん)(カマゾウさん)(しまざきさん)(ふるやさん)
(サリーさん)(すみれさん)
料理セミナーの(サリーさん)(アシスタントのリンコさん)
モデル撮影会の湘南天狼院(やまなかさん)(くさまさん)
湘南モノレールの(はなかさん)(いしかわさん)
鎌倉インテルのチームの(ほりごめさん)(おかざきさん)(たかはらさん)(GMよしださん)
応援仲間の(ごとうさん)(まちださん)
腰越の若者(じゅんさん)(かんちゃん)(ひらのさん)(なみへいさん)(かおかおパンダさん)
(ひなたさん)(なかじまさん)(つちやさん)。
一時は「人脈づくりの天才」と会議で評されたが、鎌倉在住の私にとって、
今後の大事な人間的な関係として財産になる。
退会しても、その関係は変わりない。
鎌倉の若いみなさん全てに、感謝、感謝、感謝。
会議では(おじいちゃん)と揶揄されていたが、本当に楽しい2年間だった。
「鎌倉農泊協議会」には、ますますの発展を祈ってやまない。
これからの私は「Team MAMIYA」主宰に戻って、
考えるのは自分。
行動するのは自分。
責任とるのは自分。
鎌倉にとって良かれということを、前向きでポジティブに、GO!GO!
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ともに鎌倉殿の子として生まれながら、別々の道を歩んできた二人。
運命は、神仏の前で交錯しようとしている。
(大河ドラマのプロローグより)
後鳥羽上皇の計らいにより、右大臣に叙されることとなった源実朝。
政子が愛息の栄達を喜ぶ中、鎌倉殿への野心に燃える公卿は三浦義村の元を訪れ、
鶴岡八幡宮で執り行われる拝賀式について密談を交わす。
三浦館の動きに胸騒ぎを覚えるたすとき。
一方、義時の周りでは、朝廷と鎌倉の掛橋しとして存在感を高める源仲章がのえを…。
実朝は 目覚ましい昇進を遂げている。
左大将から右大将の官職が授けられ、北条家はこの栄誉に喜びを増している。
義時は夢に現れた白い犬が不吉に思い、急遽、薬師堂を建立し、運慶に戌神像を像立させた。
戌の神は義時の守り神だ。
静まり返った鶴岡八幡宮の御堂で、公卿が図面を広げ、三浦義村、義村の弟・胤義を前に、
練り上げた計画を語った。
「明日、 実朝を打つ 。右大臣の拝賀式。実朝が拝礼を終えた帰りを襲う」
「私は弟子の僧たちと銀杏の木の陰に潜み、実朝が前を通ったら、背後から飛び出す」
「実朝の首を討てば、謀反人だ」
公卿は声明文を用意してある。
「北条が我が父を闇討ちにした事、実朝がひどい戦略で鎌倉殿になった事を知らしめて、
本来、鎌倉殿になるべきは誰なのかを示す」
公卿が目的を果たした後、三浦勢が打倒北条を唱えれば、御家人たちは賛同するはずだ。
拝賀式の前に、政子の部屋で、義時、実衣が顔を揃えて喜びを分かち合っている。
侍所では泰時を中心に御家人たちが集まり、拝賀式の警護の打ち合わせをしている。
義時の妻・のえが、なぜか源仲章に誘われて何か語り合っている。
「あの男は私を追い落とそうと躍起なのだ」
義時がそれを知り、何か言質を取られたのではないかと、のえを叱りつけた。
「わたしを見くびらないで」
のえは言い返した。
儀式が近づき、実朝が政子の部屋を訪ねた。
「これより、八幡大菩薩に右大臣任官のお礼に行って参ります」
一方、鶴岡八幡宮では、公卿の世話役・駒若丸が太刀や薙刀を揃えている。
雪に備え公卿たちの蓑を五着ほど運んでいる。
参籠中の公卿に蓑が必要だろうか。世話役の駒若丸は義村の息子だ。
泰時が三浦館を偵察すると、武装した兵が多数集まっている。
泰時は気になって義時に注進した。
「今日の拝賀式は取りやめにしたほうが良いと思います。拝賀式で本宮に上がれるのは、
鎌倉殿とごく少数のものだけ。襲うにはこれ以上の時はありません」
義時はこの情報を捨て置けずに義村に確認した。
「公卿は千日の参籠の真っ最中だ」
義村は嘘をつくときに襟を触る癖がある。
義時は義村の手が襟に触れるのを見た。
義時は実朝と仲章に拝賀式の中止を進言した。
仲章はこの忠告を無視した。
「しかし分からぬ。何ゆえ公卿がわしを」
実朝が首を傾げた。
「鎌倉殿の座を狙ってかと」
実朝は話題を変えて、
「いずれは、わしは京へ行きたい」
実朝は頼朝が築いた鎌倉を捨て、京に御所を移そうと考えている。
廊下に出た義時に仲章が言った。
「望みはただ一点。人の上に立ちたい。鎌倉殿が大御所になり、新しい将軍を私が支える」
仲章は、既に義時よりも優位な立場になったような口ぶりだ。
義時は大江広元に相談した。
「あなたは頼朝様に鎌倉を託された。仲章様には死んでもらいましょう」
義時はトウに仲章の殺害を命じた。
鶴岡八幡宮の大階段の下で時房は拝賀の列のために新しいむしろを敷いた。
雲行きが怪しく、雪が降ってくるようだ。
拝賀の式は公卿と殿上人、御家人で執り行われる。
「今日の式に三浦勢は参加しないで頂きたい」
感づかられたと気がついた義村は襲撃計画の取りやめを決めて、公卿に文を書いて警告した。
「やめるわけには行かぬ。このような機会は2度とない」
「公卿はなぜ執拗に「鎌倉殿」にこだわるのか」
三浦康信は涙を浮かべて頼家は病気で亡くなったのではなく、殺されたのだと説明をした。
(*)康信はついに実朝にしゃべってしまった。
実朝は誰にも知らせずに鶴岡八幡宮に行き公卿の前で膝まついた。
「すまぬ。公卿。さぞ私が憎いだろう。お前の気持ちは痛いほど分かる」
公卿は戸惑い、やがて怒りを爆発させた。
「あなたに私の気持ちなど、分かるはずがない」
実朝は力を合わせようと公卿の手を握った。
「騙されるものか」
実朝が帰るのを見送り公卿はつぶやいた。
まもなく拝賀式が始まる。義時は鶴岡八幡宮の大階段の下に立った。
儀式用の太刀を手にして、側に来た仲章に目を見張った。トウは殺害に失敗したのだ。
拝賀式の行列は八幡宮の階段をすすんで、実朝が大階段を上がり、本宮に入った。
盛綱が御堂を調べると友廣公卿の姿はなく、残された図面を持ち帰る。
「これは帰りの行列の並びだ」
泰時が図面を見て、銀杏の影の○印は公卿が潜む場所。×印は実朝の位置だ。
もう一つ赤い×が記された位置を見て息をのんだ。
「公卿の本当の狙いは鎌倉殿ではない。父上だ」
(つづく)
神奈川県鎌倉市
【覚園寺】
1218年、北条義時公の薬師如来信仰により建てられた大倉薬師像が覚園寺の始まりです。
「本堂薬師堂」
覚園寺の中心となるお堂です。
中央にまつられている仏様が、本尊 薬師如来、心身ともに元気でありつづける
もし怪我や病気になったらそれとともに前にすすむ力をあたえる仏様です。
「本堂 薬師三尊坐像」
薬師寺創建当初より金堂にお祀られている薬師寺のご本尊です。 『日本書紀』によると697年7月29日に開眼法要が行われたと考えられ、白鳳時代を代表する金銅仏です。中央に薬師如来、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩が安置されます。
「十二神将像 戌神(鎌倉国宝館 蔵)」
十二神将は薬師如来という仏が従える12人の武装した守護神。
「戌神像」
この像は十二神像農地戌神。十二支のなかの戌を意味する。
(*)ゆかりの地は市内にあるので、近々取材した上で掲載します。
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北鎌倉在住の知人、ミュージカル俳優の沢木順さんの講演会に出かけた。
鎌倉ペンクラブ主催の定例イベントで、
今回のテーマは「鎌倉を彩る音楽の世界」シリーズだった。
このイベントは北鎌倉の浄智寺内の書院で行われた。
タイトルは「ミュージカルは文学だ!」。オペラ座の怪人が語る言葉と音楽。
沢木順さんと初めてお会いしたのは新橋のある劇場だった。
約4年前「東京作家大学」の学長の(さらだたまこさん)と共に、
ミュージカル観劇したとき以来のお付き合いになる。
鶴岡八幡宮で毎年8月に開催される(ぼんぼり祭り)で、
このところ参道の中央部で、偶然にも数年間、我が家の巨匠と順さんの作品が、
並んで展示されるご縁が続いている。
沢木さんは北海道で生まれて、鎌倉で育った。
湘南高校から早稲田大学文学部演劇科に進んだ。
同期生にタモリ、吉永小百合がいる。
卒業後、東宝のオーディションに受かり、東宝ミュージカルで活躍した。
その後33歳で、浅利慶太に誘われて劇団四季へ移る。
ジーザスクライスト=スーパースター、コーラスライン、キャッツ、オペラ座の怪人。
数々の主役を務めたが、以降フリーになった。
そのご縁もあってLINE中心にコミュニケーションを続けていた。
コロナ禍の中、鎌倉蟄居の生活が続き、先日北鎌倉の「侘助」で一献の機会があった。
いろいろな話題で、偶然の内容がどんどん出てきた。
沢木さんは酉年で私の1歳下、劇団四季では当時スターになった松橋登と、
舞台を共にしていた。
(松橋登は私と高校時代の同級生だったが、現在の連絡先は分からなかった)
浄智寺での講演会の前に紅葉の円覚寺を訪ねた。
土曜日の午後というだけあって、紅葉を楽しむ観光客で溢れていた。
総門の紅葉は今が見頃だ。山門と仏殿の間も紅葉は見事だだった。
仏殿を挟んで選仏場の奥に龍隠庵へつづく山へ進む階段があり、
登ると誰もいないような場所に行くことができる。
仏殿の大屋根が見下ろせるところに行き着く。
庭園の雑踏を避けて、最近はここが私の秘密の空間になっている。
ベンチに座り円覚寺全体を見おろす事になる。
静寂。人気(ひとけ)もなく、鳥の鳴き声ぐらいしか聞こえない。
今日は、このあとに浄智寺の会場へ行かなくてはならない。
いつもの舎利殿、佛日庵、黄梅院には足を運ばない。
総門を逆方向から逆光で紅葉を撮ることになる。
総門をくだり横須賀線の踏切を渡り、
白鷺池を通り抜けて県道を経由し浄智寺へ向かう。
浄智寺の総門の「近在所寶」は、いつも説明するが、
右から読み直すと寶所在近。
意訳すると、「寶(たから)のあるところは、ほら近くにありますよ」
という仏教の教えの言葉だと聞いた。
庭園の中の書院は、木漏れ日の中、少し離れてみるのが好きだ。
「そうだ、京都行こう」の気分になる。
少し早めに会場へ入った。
ペンクラブのスタッフが会場で受付をしている。
勧められて比較的、前方の席に座った。
しばらくして会場は、ほぼ満席になった。
沢木さんはシンボルカラーの真っ赤な服装で入場し、定刻通り講演が始まった。
開会の挨拶の前後に、会場に音楽が流れてきた。
「この歌はなんですか?言葉がよく聞こえてこない」
沢木さんがスタッフに聞いた。
この曲は鎌倉在住の作家、音楽家による鎌倉ペンクラブの会歌だそうだ。
この質問の言葉が講演の後半の主題に関わってくるとは気がつかなかった。
見事な起承転結の「起」だった。
出だしのトークの彼なりの(つかみ)だった。参考になる出来事だった。
沢木さんは型通り自分のプロフィール紹介の後、自分のミュージカル歴を語り始めた。
東宝ミュージカルの入社試験の時の話だ。
一番に会場に着くと、既に一人の年配の方が座っていた。
何気なく世間話から始まり何故東宝を受けるのかと、気安く熱っぽく話したという。
いよいよ面接試験が始まった。
「今日の試験はこいつに決めた」と責任者が言った。
気がついたら先程の年配の方が、まさしく面接の責任者だった。
脇から汗が出たと「侘助」で話してくれた。
ジャニーズのジャニー喜多川さんも面接会場で掃除のおじさんの姿で、
面接を待つ少年たちの前で、黙々と会場を掃除していたと言う。
そんな時、掃除のおじさんにも礼儀正しい子供を採用したと言う。
「タモリは、ミュージカルはつまらないと言う」
型通りに歌う姿に共感はないという。
おっしゃることは正しいかも知れない。
どうしたら、面白いと言われるかと考えた。
オペラ座の怪人の時、声の出し方、息の使い方、筋肉の使い方を考えた。
後に、鹿賀丈史、滝田栄、市村正親を特訓で鍛えた浅利慶太からの教えで、
筋肉を使って感動を伝えることを教えていた。
タモリの、面白くないの意味が分かったという。
それは、浅利慶太の言葉に対するイマジネーションとの戦いだった。
「この歌はなんですか?言葉がよく聞こえてこない」
冒頭の質問の意味を徐々に解いていく。
ジーザスクライストに登場するユダの想いを、簡単に歌ってはいけない。
全然違う歌い方を模索させる。心の奥にある悩みを絞り出すように歌う。
言葉をなぞって歌うのでは通じない。
言葉の裏にある意味を絞り出すように演技とともに歌い込む。
これを浅利慶太は怒鳴るように鹿賀丈史、市村正親に教え込んだ。
沢木さんは、それをシアターアドバイザーとして間近で観察していた。
当然、沢木さんにも浅利のスパルタ教育で攻められた。
そして鹿賀、市川は浅利慶太の教えを十分に習得すると、四季を去っていった。
女性では越路吹雪だけを鍛えた。
“二人の恋は終わったのね。許してさえくれない貴方…”
出だしから違う。沢木さんは自ら歌いながら、その違いを分かるように説明する。
こうして浅利慶太は越路の歌に文学を入れたのだ。
結果的に越路のコンサートは2ヶ月の満席が続いた。
そのほかの久野綾希子など女性陣に、浅利はスパルタ教育を抑えた。
何故ならば、あまり上手くなって劇団をやめて欲しくはないのだ。
それが沢木さんの浅利慶太への解釈だった。
その後、浅利慶太は日生劇場の66%の株を持って運営したが、
株を手放しメンバーに分け与えたが、次第に浅利排斥の流れになり、
潔く自ら劇団四季から去った。
しかし、その後も沢木さんとの付き合いは続いたそうだ。
後半の30分になって、ミュージカルから離れて、俳句の事例に移った。
“柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺”
この句を実際に詠んで、4拍子でできていることを示した。
和歌も同じように4拍子だと説明する。
“いやさ、お富、あっ久しぶりだなぁ〜” も4拍子。
“はぁ〜、佐渡へ〜佐渡へ〜と草木もなびく〜……”
民謡も、歌舞伎も、能も日本語は4拍子で、リズム、音、ハーモニーの要素が、
どれだけ心を伝えるのに大切かと、声の調子を変えながら納得いく実演になった。
私はいろいろと講演やセミナーを聴いてきたが、お話全体に納得感のある講演だった。
こうして90分の公演は盛況裏に終わった。
冒頭で触れた沢木さんと松橋登君の関係だが、「侘助」で私との接点も説明した。
松橋登君とは高校では別のクラスで、あまり接点がなかったが、
いきなり劇団四季で彗星の如くスターになった。
劇団のホープとして「ハムレット」「白痴」で主役を演じ、
映画「青春大全集」では吉永小百合の相手役に抜擢された。
沢木さんと飲んだ夜、松橋君のHPから連絡を入れて、翌日には私の携帯に連絡をくれた。
いきなり50分の長電話になった。
当時、三菱自動車の「新型ギャラン」のモデルで契約し、
広告会社の得意先担当だった私が彼と一緒に、
北海道のロケに行ったことから、今でもよく覚えていてくれた。
「近々、朗読会を開くので、よかったら来てくれないか」と。
早速、中野の「アクトレ」スタジオで行われる朗読会に出向いた。
松橋君とは53年ぶりの邂逅だった。
入場の際、会場のスタッフから松橋君からのメモを渡された。
「公演が終わったら、隣の喫茶店で待ってください。なるべく早く駆けつけます」
打ち上げの前の多忙な時間に、しばらくおしゃべりを楽しんだ。
高校の卒業写真をスマホに収めて、当時の新聞広告のコピーを数点持参した。
一気に55年前の記憶の世界に紛れ込んだようだった。
近々、沢木さんと松橋君のご対面を、例えば鎌倉でアレンジしなければならない。
沢木さんも松橋君も浅利慶太さんのスパルタ教育を受けたもの同士。
二人の会話が楽しみだ。
人生は、どこにご縁が転がっているかわからない。
つまり、ご縁は実際に動いてみなければわからないのだ。
まだまだ、前向きにいきましょう。
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嫡男なき実朝。
後継者を巡って思惑が入り乱れる。
最も鎌倉殿にふさわしい者は一体誰なのか。
(ドラマのプロローグより)
源実朝に嫡男が誕生せず、後継者問題が燻っていた鎌倉。
そこの修行を終えた公卿が鎌倉に帰還。
その胸には鎌倉殿となることへの強い意志を宿しており、義村と共謀する。
一方、義時と実衣も実朝の言動に不満を抱き、思案をめぐらせている。
そんな中、実朝の相談に対して後鳥羽上皇から返事が来た。
円成寺で修行していた頼家の遺児・公卿が鶴岡八幡宮の
別当となって六年ぶりに鎌倉へ帰ってきた。
出迎えたのは乳母父の三浦義村だ。
「鎌倉殿の跡を継ぐのは若君の他ありません」
「必ず鎌倉殿になってやる」
義村は執権の義時と公卿を再会させた。
公卿が政子に会いに向かった時に義時は義村に、
後継の件で予期せぬ出来事が起こったと話した。
「次の鎌倉殿は京よりお招きする事になった」
納得しかねると義村が景色ばんだ。
そこに政子がやってきて、
「公卿には話していないのですか」
公卿は何も知らずに実朝に会った。
「私は大御所になって、そなたは鶴岡別当として、新しい鎌倉殿のよき相談相手になってもらう」
実朝から養子の話を聞いて、公卿は驚愕した。
鶴岡八幡宮に戻ると、公卿は話が違うと憤った。
このあと公卿は千日参籠に入った。
義時は、その間に実朝を説き伏せると言った。
この間に義村と義時は養子の話を覆す方法はないかと相談する。
「これが帝のお子だったら、俺も納得してやる」
義村はあり得ない話と高をくくっている。。
「これでよかったのでしょうか」
政子は大江広元に確かめた。
「尼御台は、これからもご自分の思った通りの道を進むべきです」
広元は政子の考えを後押しした。
跡継ぎについて話があると、実朝は主な関係者を招集した。
公卿も千日参籠中を中断して参加した。
「ここはもう一度、我ら宿老たちが時をかけて話し合うべきではないか」
義時が差し戻した。
「上皇様は親王様の中から誰かを遣わせても良いと仰せだ」
実朝が一同を見た。
頼仁親王の生母は実朝の正室・千世の姉で願ってもない話だ。
「これならば反対する御家人はいないと思うが」
義時と義村はもろ手をあげて歓迎の意を表した。
早々に話をまとめるために政子が上洛する事になった。
散会したあと、義村は弟の胤義に耳打ちをした。
「俺は諦めん。三浦がはい上がる最後の好機なのだ」
翌年、政子が上洛した。同行するのは北条時房だ。
どうやら今の天皇は頼仁の兄で天皇の妃が懐妊している。
「と言うことは頼仁さまが次の帝になられることは……、ならば鎌倉殿になっていただけたら、これほど嬉しいことはない」
慈円は後鳥羽上皇に時房を話題にした。
「この男、鎌倉一の蹴鞠の名手」
「……それは面白いな」
時房が院御所を散策していると、足元に鞠が転がって来た。
これを時房が蹴り戻し、華麗な蹴鞠を披露した。
「見事じゃ」
その相手は上皇様だった。
時房は驚き、無礼な態度を詫びた。
実朝の将軍後継は頼仁親王に決定した。
実朝は親王の貢献として左大将に任ぜられ、右大将だった頼朝を超えた。
同じく政子は従三位に叙せられた。
「頼仁親王が鎌倉殿になられたときは、この源仲章が言わばときは関白として支え、政を進める」
義時は泰時と膝を交えて語り合う。
「讃岐守のこと断って欲しい」
「いずれお前は執権になる。お前なら私が目指してなれなかったものになれる」
「仲章が泰時の前に立ちはだかる。だから今から借りを作るな」
「ご安心ください。私も讃岐守はご辞退しようと思っていたところです」
やっと義時と泰時は気持ちが通じ合った。
「父上が目指してなれなかったものとは何ですか」
泰時は父に聞いた。
義時からは答えはなかった。
公卿は千日参籠に専念できない。頼仁親王が鎌倉殿の後継者だと言う噂が耳に入り、義村を呼びつけた。
「私が鎌倉殿になれるという芽は積まれた。そう言うことか」
「若君が鎌倉殿になれば、必ず災いが降りかかる。これでよかったのです」
公卿は不思議そうに「どう言う意味だ」と聞き返した。
「あなたの父は殺されたのです。義時は頼家様を亡き者にして、扱いやすい実朝さまを鎌倉度に仕立て上げたのです」
公卿は幼い時を思い出した。
見知らぬ老婆が「北条を許すな」と呪文のように言い残した事を。
「北条を許してはなりません。北条に祭りあげられた実朝も、また真の鎌倉殿ではあらず」
この年の六月、鶴岡八幡宮で実朝は左大将の拝賀式を行った。
続いて同じ鶴岡八幡宮で左大将になった実朝が直衣(のうし)をまとって参拝する直衣始の儀式が盛大に行われた。
華々しい儀式の裏で、公卿は物陰から、実朝の凛とした姿をじっと観察していた。
(つづく)
【神奈川県鎌倉市】
鎌倉駅から「太刀洗」行きのバスで10分。「十二所」バス停で下車、近くを散策して撮影した。
「滑川」
鎌倉市の十二所の朝比奈峠付近を原流として、
鎌倉市街を流下して由比ヶ浜と材木座の間で相模湾に注ぐ川。
「大江広元邸跡」
大江広元は代々学問の家の出。広元は源頼朝に招かれて鎌倉へ来てからは政治の中枢にあり、
政治に面で頼朝を支え、その後も頼家、実朝の代まで幕府の中での功績は大きいと言われる。
「大江稲荷社」
鎌倉幕府で政所別当を務めた大江広元を祀る社。
石段、赤い鳥居、参道の奥に小さな社がある。
かつて十二所(明石橋付近)に屋敷を構えていたと言われ、
明王院の裏山に大江広元の墓と伝わる石塔がある。(鎌倉市観光協会HP)
「明王院」
鎌倉幕府四代将軍、藤原頼経により建立された。
鎌倉幕府の将軍によって建立された鎌倉市内に現存する唯一の寺院。
「広元の墓」
広元の墓は山の上にある。険しい坂道の先は、けものみちで危ないので、
お勧めしないと寺の住職に言われ断念した。
西御門の頼朝の墓の隣地に、
義時と同じところに毛利家が建立した墓がある。
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先週の夜に携帯電話が鳴り○○○○と親友の名前が出た。
入退院を繰り返していたので、電話ができる状況になったと思った。
「おぅ!どうした?」
「間宮さん………、主人が5日の早朝に亡くなりました」
(えっ 絶句)
奥様からの電話だった。
豊多摩高校・硬式野球部や大学も一緒の親友(よしだまさとし)。
コロナ前の感覚ならば、自分の葬儀委員長を託すような親友だった。
君の姿を始めて見たのは、中学時代のある土曜日の午後。
僕は私立の和光学園に通っていたので野球部の練習は休みだった。
自転車で向陽中学校に向かい、ネット裏からサウスポーの君の姿を見たのだ。
こんなピッチャーがいるのかと印象的なシーンだった。
それが吉田だった。後になって知った。
豊多摩高校の入学式は、その年は体育館が火災で消失したために杉並公会堂で行われた。
会場の前には新入生であふれていた。
1クラス50名で7組、A組からG組までの350人の時代だ。
「ここは何組ですか」
「G組だよ。君はE組なら、もう少し向こうだ」
私が声をかけ、答えてくれた生徒が偶然にもあの吉田だった。
早速、僕は硬式野球部に入部した。
「君は、中学でポジションはどこだった」
「サードを守っていました」
「ちょうどいい、サードがいないので君がサードを守れ」
サード間宮
棚からぼた餅のように1年生でレギュラーになった。
たった18人のチームとはいえ、ラッキーなスタートだった。
そこにサウスポーの真っ黒な顔をした吉田がいた。
入学時は、かなりの成績順だったが、毎日レギュラーとしての練習の明け暮れで、
帰宅して丼飯を食べるとテレビ番組も見ずにバタンキュー。
初めての定期試験はビリから数えた方が早かった。
職員室に呼ばれて、担任からコンサイスは3時間は読めと叱られた覚えがある。
吉田はなぜか人文地理が得意だった。
「エムアイエスエスアイエスエスアイピーピーアイ。
北アメリカを流れるミシシッピー川(Mississippi)だ。」
よく冗談で言っていた時の笑顔は忘れられない。
1年生の夏の東京大会は神宮球場で、当時は150校の開会式の直後の第1試合、
大観衆に見守れられての対江戸川高校戦。
7番間宮
代打の吉田。
ネクストは間宮。素振りをしている。
私は7番サードで出場、吉田は途中で代打出場後ライトを守った。
7対11で敗戦。
この頃、父親が手に入れた早慶戦のチケットで、吉田、鬼頭を誘い4人で神宮球場へ言った。
この3人が、慶應義塾大学に入学するとは、当時は考えてもいなかった。
(1年の秋に編入で入学し、野球部に入部した有坂も同じ塾生になった)
2年生の夏の東京大会は神宮第2球場で対雪谷高校。
私は1番サード、吉田は5番投手で出場。
投手は3年生の田中さんに交代も、2対8で敗戦。
受験進学校のために、私は親父との約束で2年生の夏で野球部を退部したが、
秋の新人戦で吉田の好投で豊多摩はシード校になった。
吉田にチームに戻ってくるように誘われて親父に頭を下げてチームに復帰したが、
みんなが好意的に迎えてくれたのはありがたかった。
キャプテン吉田の意向が伝わっていたのだ。
当時キャプテンだった吉田が、間宮が戻ったので間宮をキャプテンにして、
自分は投手に専念したいと発言。
当然、(出戻りの)私は断ったが、では選挙をやろうとなり少数差で私がキャプテンになった。
吉田の温情に感謝した。
キャプテンになりショートへ。
3年生の夏の東京大会はシード校なので3回戦から出場。
立教球場で対専大京王。
どうしたことかエースの吉田の乱投で0対15の3回コールド負け。
すごい記録となってしまった。
卒業アルバムから。
その後、吉田、鬼頭は1浪、有坂、間宮は2浪で慶應義塾大学へ入学。
吉田だけが野球部、鬼頭は応援指導部、有坂はポニーテニスクラブ、
私は放送研究会とそれぞれの道を歩んだ。
現役時代から始まった大晦日に仲間と集まる習慣が長い間続いた。
それぞれが結婚して、大晦日から12月中旬の忘年会に変わり、それも長い間続いた。
それが変形して泊まりがけのゴルフ会に変わった。
まわりからは「本当に仲が良い」と評された。
その輪の真ん中には、必ず吉田がいた。
吉田のクラスに綺麗な女性がいるということで、
2浪の私は日吉の校舎へ興味本位で遊びに行った。
いきがかり上、授業が始まり名簿でしか当たらないという事で、
英語の授業に参加してしまった。
その女性が今日まで私が仲良くしている原村のフリーアナウンサーの小林節子さんだ。
その節子さんと始めた「八ヶ岳農場を愛する会」で企画した加藤登紀子さんの「農場音楽祭」には、
吉田夫妻もスタッフとして清里の別荘から八ヶ岳農場へ駆けつけて応援してくれた。
吉田が清里を去るときに寄贈した桜の苗木は、いまも節子さんの家の前で咲いている。
私がソウルへ海外赴任をした時、最初に訪問してくれた友人は吉田だった。
まだ慣れないソウルをあちこち案内した写真が残っている。
北朝鮮を眺めることの出来る臨津閣(イムジンガク)や北朝鮮が掘った、
第3トンネル見学まで、珍しい体験をした。
私が会社を引退して行った徒歩の旅「鎌倉―ソウル2328キロを歩く」(講談社+α新書)。
「一度は必ず一緒に歩く」という約束を、仕事で忙しいのに釜山までやって来てくれた。
その2日間の記録は、拙著の152pから158pに詳細に書いてある。
ふたりの2日間の旅の最後に、
「えらそうに聞こえるが、怒らないでくれ。今日は君の挑戦に敬意を表して俺がおごるよ」
わざわざ日本から来てくれた友人にすまないと思ったが、極上のカルビに冷たいビールをありがたくご馳走になった。
吉田の「友」をリスペクトする気持ちに感謝した。
この本の出版記念パーティーを日本橋の友人のイベントホールで行った時に、
150人の来場者の前で友人代表として吉田がマイクを握ってくれた。
ユーモアあふれる温かい気持ちで喋ってくれて会場が和んだ。
それ以降、泊まり掛けのゴルフ会、六本木のスタンプ・ワインガーデンでの例会と、
事あるごとに10人前後の友が集まった。
その時代がバブル絶頂の時も、崩壊後も続いてきた仲間の会合は、
それからも平成まで長い間続いた。
ゴルフでは川崎組の吉田、森に鎌倉組の有坂、間宮の4人で行う
ショートホールでのニヤピン賞の戦い以外に、
密かに吉田と飛ばし屋の二人だけで行ったドラコンは、7勝7敗のまま止まっている。
引き分けのまま、次回のプレーの機会がなくなりThe Endになった。
引き分けのまま終わってよかったと思う。
吉田もそう思っているに違いない。
豊多摩高校野球部の話に戻ろう。
OB会の運営が自分たち15期に順番が回ってきた。
吉田は私の会長案を提案したが、OB会の会長は運営を有坂に任せて、
副会長に吉田案を主張した。
私は会の理事として広報を担当することにした。
おりしも硬式野球部「70年記念誌」の作成という大仕事が待っていた。
記念誌の編集などは広報の仕事として活動するという意味だった。
世代を超えて原稿制作が進んだ。
翌年、有坂に急な事情があり任期の途中で役職交代を余儀なくされて、
副会長の吉田が会長になり、私を副会長にと言い始めたが、世代交代を考え後輩二人を副会長にした。
吉田会長体制で、後輩の意見を尊重しながら進めたおかげで、
それ以降の体制の世代交代がスムースに継続され、今日に至っている。
豊多摩高校野球部三田会という集まりも結成した。
マスターズ甲子園というシニアの球児たちのゲームがある。
そこでも吉田は、年齢を忘れて活躍していた。
東京六大学のOBが集まって六球会というシニアの野球大会が神宮球場で開催されている。
中には元横浜ベイスターズの山下大輔さんもいる。
その中で吉田は必ずマウンドに上がり好投する。バッターボックスでは二塁打を打ち得点を重ねた。
相手校は早稲田だ。この上ない展開だ。
ネット裏で観戦する私は憧れと羨ましさに大きな声で応援するしかない。
この年、結果的に最期の六球会でMVP(勝利投手、得点王)になった。
そんな吉田が、今年になって病に倒れた。
心不全と不整脈。手術の結果は成功で不整脈は治った。
心不全の予後は、あまり良くない。
原因がよく調べてもわからないという。
信じられない気持ちで見守るしかない。
仲間たちもゴルフの難問を尋ねる内容のメールが送られ、
しばらく吉田の送信が途絶えて、メール仲間一同の一喜一憂が続いた。
10月19日
3度目の入院をして昨日退院しました。
今回も検査入院なのでベッドでテレビを見ているだけです。
ゴルフの話や早慶戦の応援や六球会で頑張ろう なんて今年は無理です。
ゆっくり養生します。
個人宛のメールだったが、これが吉田からの最後のメールになった。
「万が一の場合は全てが終わったら間宮に連絡して」と、奥様に吉田が言ったようだ。
私がリスペクトしていた吉田から、真っ先に間宮に連絡をと言ってくれた。
これでリスペクトの片思いではない(あいこ)になったと、初めて実感した次第だ。
ありがとう吉田。
六球会のMVP、吉田君、安らかにお眠りください。
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和田一族は義時によって滅ぼされる。
しかし、そのことが実朝を覚醒させた。
強大な義時に対抗するため、実朝が頼ったのは後鳥羽上皇だった。
(ドラマのプロローグより)
決意を新たにした源実朝は後鳥羽上皇を手本として人任せにせず自ら裁定を下すことを決意した。
泰時を側におき、自身の政を進める。
一方、鎌倉内での地位を磐石なものとした義時は、のえに勧められて執権を名乗る事を決断し、
未熟な実朝らを牽制する。
実朝と義時の関係がうまくいっていないことに政子が気を揉む中、源仲章が京から帰ってきた。
「父上がつくられたこの鎌倉を、源氏の手に取り戻す」
実朝は意気込んで政にあたろうとするが、まだ宿老の義時、広元、義村に頼るところが大きい。
ただ実朝の強い要望で泰時を側近として評議に加えた。
実朝は善政を施そうとするが、経験不足であることは否定できない。
後鳥羽上皇の関係が強い源仲章が京から客人を連れてきた。
「宋の国の匠、陳和卿殿だ」
和卿は東大寺大仏の再建をした人物である。
初対面の実朝を見つめて感極まって泣き出した。
「前世において、実朝さまは宋の国、育王山の長禄、陳和卿はその門弟でございました」
「この光景を、以前夢に見た。其方は私の前に現れ、同じことを言った」
実朝は夢日記のそのページを開いて、船にまつわる話をしたいはずだと言った。
「大きな船を造りましょう。誰も見たことのない大きな船。それで宋にわたり交易を行うのです」
仲章の薦めに心を揺さぶられて、実朝はすぐに船作りに向けた準備を命じた。
普請の技を持つ八田知家が世話役として和卿に協力する事になった。
しかし、この船造は御家人達の負担が多く、義時は渋い顔をしている。
「つまり、西のお方が糸を引いているということか…。この船は坂東のためにはならん」
京では実朝が船造を始めたことで、後醍醐上皇は満足している。
「これで実朝の威光は高まる」
「北条の影が薄くなる」
事は後鳥羽上皇の思惑通りに進んでいる。
由比ヶ浜に巨大な船の骨組みが形を見せてくる。
義時は危機感を強めた。
頼朝は朝廷と一線を画し、鎌倉を武家の都としたかったはずだ。
実朝は後鳥羽上皇に唯々諾々としたがっている。
政子の居室を訪ねて、政は宿老が行うのが鎌倉のためだと説いた。
「鎌倉殿には表から退いて頂きます。これ以上西へ依存するようでは、いずれは坂東の御家人すべてを敵に回します。あのお方に頼家様のようにはなって欲しくないのです」
「つまり、あなたの言う事を聞かなければ、実朝も頼家のようになると」
政子は辛辣な皮肉を投げた。
かたや実朝は夢想が現実味を帯びてきた。
「いずれは私もあの船に乗って、彼の国へ渡って見たいと思う」
そんな中、実朝を囲んで、義時、政子、時房、泰時、三善が集まった。
「船の建造を中止して頂きたいのです」
時房が切り出した。
「人心をつかむには、功徳を罪しかない。私はあの船に乗って、いずれは育王山へ…」
実朝は真摯に答えた。
「上皇様にそそのかされて造る船など、必要ござらぬ!」
義時が声高に言い切った。
「ゆっくりと時をかけて、立派な鎌倉殿になれば良いのです」
政子は重ねて発言した。
「もう良い、船は中止だ」
実朝はあきらめて、意欲を失った。
「建造にあたった御家人達の名を記するのです」
泰時が皆を伺うように提案した。
「どうか、船の建造は続けさせてください。鎌倉殿の思いがこもっているのです。尼御台!」
康信は必死の思いで付け加えた。
政子を結論は先に延ばして、大江広元に相談した。
「世は変わった。義時にも一理あるが、頼朝様がご存命ならば何を話すだろうか」
「頼朝様が世を去られて、この鎌倉を引っ張って行くのはあなたなのです」
政子は、肝を据えた。
実朝の船は、翌年四月の完成に目処がついた。
泰時の提案通り、船板には御家人の名を入れる予定だ。
「しかし、どうやって船を海まで運ぶ」
「船の下に丸太を入れて、完成後、船の支えを外して海へと引っ張って進水させる」
知家が実朝に説明した。
深夜に時房とトウが船の甲板に忍び込んだ。
時房が板図(船の設計図)に筆で何かを書き込んだ。
(*)何をやったんだ!
予定通り船が完成した。
知家と和卿が船を乗せたコロ(丸太)の綱を引くように下人達に指示をした。
観覧席には実朝、義時、政子などが見物している。
「引き始めたら、船が浜にのめり込んでしまった」
突然、知家が飛んできて叫んだ。
「数値が違う!これでは船が重すぎる」
知家は下人達と力の限り綱を引いた。
「重さの勘定を間違ったか」
義時がつぶやき、時房と帰っていく。
数日後、政子は落胆する実朝を鼓舞した。
「自分の政をしたければ、もっと力をつけなさい」
政子は実朝が鎌倉の揺るぎない主人になるための秘策を伝えた。
実朝は、義時、時房、政子。実衣、泰時を読んで宣言した。
「家督を譲る。鎌倉殿を辞し、大御所となる」
外から養子を取ると言い出した実朝に、義時が待ったを掛けた。
嫡流ならば頼家の遺児・公卿がいて、鎌倉殿は第第源氏の血筋から出ている。
実朝は仏門に入った公卿を視野に入れずに、
源氏の血筋に限るとは文書に残っていないと否定した。
「朝廷に繋がる高貴なお血筋の方を貰い受ける」
「鎌倉殿とは武士の頂に立つ者のことでございます!」
義時は食い下がり、実朝が独断で決めたことに異議を申し立てた。
「鎌倉殿の好きにさせてあげましょう」
政子の一言に義時は自分を外して話が進められた事に気がついた。
源氏と北条の血を引く鎌倉殿は実朝が最後になる。
泰時も実朝に味方し、義時は孤立した。
実朝の願いは仲章を通じて、後鳥羽上皇へ伝えられる事になった。
泰時は義時に伊豆の時政へ顔を出すように言われ、北条館を訪ねた。
「父から、届けるよう言われました」
時政は縁側で日向ぼっこをしていた。
りくは京の都へ移っていた。
若い女子が時政の世話をしている。
時政はのんびりと伊豆の片田舎で過ごしているようだ。
この年、七十八歳でこの世を去ったとコメントがあった。
(つづく)
大河ドラマ第42話のゆかりの地。
「船玉神社」
乗船海上守護の祈願のために勧請されたと推定されている。
第3将軍・源実朝が宋へ渡る船の材木を切り出した場所とされている。
昔、遊行寺の坂付近に住んでいたことがあるが、そのすぐそばにある。
全く知らなかった小さな社だ。
ここは大鋸(だいぎり)という地名だが、「大鋸引き(おおがひき)という
職人達が住んで船大工や、玉縄城の御用をしていたと言われる。
「実朝の歌碑」
世の中は つねにもがもな 渚こぐ あまのを舟の 綱手かなしも
歌人として名高い実朝の歌碑は鎌倉にいくつかはあるようですが、
この石碑は関東大震災で倒壊した二の鳥居の一部を利用した最大のものと言われる。
実朝の言葉と海。小倉百人一首のも選ばれている名歌。
「鎌倉彫」
鎌倉時代、宋から伝えられた美術工芸品。漆を幾重にも塗り重ねた麺に精巧な紋様を彫刻した。
これに影響を受けた仏師達が、木彫彩漆の仏具作ったのが鎌倉彫のはじめという。
ドラマでは和卿が伝えたと説明があった。
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作文コンクールの審査員を受けてくれた鎌倉仲間がいる。
古谷聡さんという一人出版社を起業した方だ。
社名は有限会社1ミリ。自分一人で本を出版する仕事をしている。
1冊目の「鎌倉には青木さんがいる」。青木登さんの語りによる本。
鎌倉に人力車のある風景を作った男の話だ。
老舗人力車、昭和から令和を駆け抜ける男の人物を描いている。
2冊目の「子どものために鎌倉移住したら暮らしと仕事がこうなった」の著者は本多理恵子さんだ。
料理サロンオーナーが鎌倉へいきなりの移住。開業、地元に根づくまでの話を丁寧に綴った。
発行人は古谷聡。有限会社1ミリが発行した。
この後、3冊目に「風葉景」という象形文字の作品集も発行している。
今回4つ目の仕事は「ウィンメルブック」の出版に関わった。
ウィンメルブックとは、ドイツ語圏で長年親しまれてきた、
文字のない、絵だけの大きな本だ。
ひとつの街や場所を舞台に、たくさんのキャラクター達が描かれていて、
彼らにそれぞれ物語はあるけれど文章はありません。
読み手の年齢も国籍も問わないので、限りなく自由で、
どこまでもワクワクが続きます。
そんな新しい挑戦は、今回は鎌倉を舞台に作られた。
この本は横26センチ、縦33センチの大判で16ページの絵だけで、
文章が全くない珍しい本だ。
この本を企画したのは妹尾和乃さん。
スイスに住んでいたときに見たこともない大きな絵本に出会った。
ドイツ語圏の国々で様々な場所がモチーフで、ウィンメルブックが一つのジャンルになったそうだ。
帰国が決まり鎌倉に住むことになり、出版社1ミリに相談した。
古谷さんは「古くから家庭や教育現場で親しまれた物語を引き出す素晴らしさに惹かれて出版に至った」と鎌倉経済新聞の取材で答えていた。
鎌倉市内の場所と人間と動物などが見開きの大きなページに書かれている。
市内8ヶ所(鶴岡八幡宮、大船地区、若宮大路、腰越漁港、由比ヶ浜海岸、深沢地区、建長寺、長谷)が舞台になっている。
鶴岡八幡宮
大船地区
若宮大路
腰越漁港
由比ヶ浜海岸
深沢地区
建長寺
長谷
全ページに74歳で現役の人力車夫や、いつも武士の装束をきてバリアフリーのゲストハウスを運営する若者など、実在する人物が登場し、鎌倉時代の源頼朝と北条政子、明治時代の鎌倉文士、昭和の松竹大船撮影所の映画スター風の人物が時代を超えて登場する。
まさに「ウォーリーを探せ」のようだ。
一人一人のキャラクターを探す楽しみ。
私にとっての「ウォーリー」は、
まず最初は人力車夫の(あおきのぼる)さん。
こんな風に、
こんな風に、
こんな風に
こんな風に
あれ頼朝さんと政子さんを案内している。
自動車まで運転している。
探せなくてスタッフに聞くと和服の奥様と八幡さまを散策している。
武者食堂の(たかのともや)さんは全て武者姿で登場だ。
車椅子を押している、
グラス片手に
ここにも
ここにも
かまくら駅前蔵書室の(すずきあきお)さんは、
カマゾウマークのTシャツでどこにでも現れる。
やっぱり頼朝さんと政子さんを探そう。
若宮大路で人力車に乗っている。
カフェでジュースを飲んでいる。
綿あめを買っている。
腰越丸で干物の定食を・・・。
お買い物の二人。
坂の下で力餅を食べている。
深沢の鳩スタでは「鎌倉インテル」の選手になっている。
「古谷さんは出ていないの」と本人に聞いたら、
腰越漁港の直売所でお嬢さんと一緒に買い物をしていた。
とにかく楽しい気持ちになる。
私のように知人を探せない方でも、どんどん物語を感じて楽しんで頂ける。
価格は3200円(税別)。
本を探す場合は鎌倉駅西口の「たらば書房」「カフェクレインポイント」、東口の「島森書店」
「かまくら駅前蔵書室」、大船駅「アニール大船ルミナウィング店」「ボルべニールブックストア」、鎌倉山「惣common」、
ほか各書店にお問い合わせください。
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北条転覆をねらう最強の一族。
和田の乱が、始まる。
(ドラマのプロローグより)
決意を新たにした源実朝は、後鳥羽上皇を手本として人任せせず、
自ら裁定を下す事を決意。
泰時をそばに置き、自身の政を進める。
一方、鎌倉ないで地位を磐石なものとした義時は、
のえに勧められて執権を名乗ることを決断。
未熟な実朝らを牽制する。
実朝と義時との関係がうまくいっていないことに政子が気を揉む中、
源仲章が今日から帰り・・・。
義時は、
「甘かった」と歯軋りした。
和田館から軍勢が動いたという知らせを受けた。
一方、館に戻った義盛は、息子の義直の一隊が出陣したと聞いて愕然とした。
実朝との約束を反故にして、義時を騙したことになる。
「この戦は鎌倉殿に弓引くものではない。それだけは肝に銘じてくれ」
義盛は御家人に釘を刺した。
三浦に対しても義村の腹蔵のないことを確かめたい。
「裏切るのなら早いうちに裏切って欲しいのだ。通じているんだろ」
義盛は義時と通じていると理解した。
堂々と戦場で勝負しようと義村と義盛は見つめ合った。
「お許しが出たぞ。北条につく」
義村は弟の胤義、八田知家に声をかけて、一斉に和田館を引き上げていった。
和田勢は三手に分かれて、大江広元の館、義時の館、そして御所を襲った。
義盛が知り得た和田勢の動きに、義時は耳を傾けた。
「向こうの狙いは、お前だ」
義村の報告に義時は一瞬のうちに決意し、指図をする。
「我らはここを出て、御所に向かう。三浦は南門、時房は北門の守りを固めよ。
西門は泰時に指揮を取らせる」
御所では大江が、政にある重要な文書を鶴岡八幡宮へ移そうとしている。
実朝は納屋に身を隠している。そこへ義時が行くと、
「戦にはならぬのではなかったのか」
「義盛に謀られました」
無念と落胆する実朝を、義時は一刻も早く御所の西門へ導いた。
西門を任された泰時は、謹慎中の身でありながら飲めない酒で酔いつぶれている。
幼馴染の盛綱が必死で起こしていた。
「・・・なぜ父君はわたしが指揮を」
「信じているからに決まっているじゃないですか」
泰時の異母弟の北条朝時が言った。
泰時は嫡男として期待されているが、朝時は誰からも期待されていない。
「そいつの悲しみなんて、考えたこともないだろう」
そこに妻の初から桶の水をかけられて、はっきりと目が覚めた。
義時が実朝、政子らと西門に行くと泰時が赤い顔で西門を守っている。
「ここはわれらでお守りいたします」
「よう、申した」義時は大きくうなずき、鶴岡八幡宮へと急ぐ。
和田義盛が率いる軍勢は南門から御所になだれ込んだ。
迎え撃つのは義村が指揮する三浦の軍勢だ。
どちらも引かずに大乱戦の模様。
義時と実朝の一行は無事に鶴岡八幡宮に入った。
「あっ!」
実朝が叫んだ。
「母上から授かった鎌倉殿の証の髑髏」
居室に忘れた実朝の代わりに広元が御所に戻り、無事に持ち帰った。
戦いは深夜までに及んでいる。
由比ヶ浜には巴御前も来ている。
「生き延びろ。生き延びて、鎌倉の行く末を見届けろ。お前の仕事だ」
義盛が言い聞かせて、しっかりと抱きしめた。
西相模の御家人たちが和田に加勢すれば、義時の勝ち目を失う。
「これらの者たちへ鎌倉殿のお名前で、我らに加勢するよう御教書を送ろう」
康信は首を捻り和田が敵としているのは北条だ。
御教書を発行すれば和田が実朝に対して弓を引いた形になる。
実朝が御教書の作成を留まった。
「和田は御所を攻めたのです。これを謀反と言わずになんとするか」
「それを止めるのは、鎌倉殿。あなただけなのです!」
翌朝。若宮大路を挟んで泰時の幕府軍と和田勢が向かい合った。
幕府軍の勝利が目前になったとき、義時は最後の手を実行した。
「鎌倉殿に陣頭に立っていただきます」
実朝は了承した。
「命だけは取らぬと約束してくれ」
和田勢と対峙していた義時の軍勢の中央から、鎧姿の若武者が進み出た。
「鎌倉殿だ」
「義盛!お前には罪はない!」
「義盛。勝敗は決した。・・・大人しく降参せよ」
「俺はウリンが憎くてこんなことしたんじゃねぇ」
「分かっている!これからも私に力を貸してくれ」
実朝と心が通じ合ったことに、義盛は感激の涙を拭った。
兵たちを労い攻撃の構えを解いた。
「我こそが鎌倉随一の忠臣じゃ」
胸を張る義盛めがけて義村勢から無数の矢が放たれた。
「ウリン・・・」
義盛が鬼の形相で義時を睨み小さく呼びかけると壮絶な死を迎えた。
和田合戦は大勢の死者を出して終結した。
「私は此度のことで考えを改めた」
実朝は今後、後鳥羽上皇を頼みとし、頼朝も頼家も成し遂げられなかった、
安寧の世を作るために、自分の手で新しい鎌倉を築いていきたいと切に思った。
義時は義盛の侍所別当の役目も政所別当も兼務することになった。
「あなたの望んでいた通りになりましたね。小四郎」
「うむ…」
「なにがおかしいの」
「望み、とんでもない。鎌倉殿は頼家さま、頼朝さまをも越えようとしています」
「安寧の世をつくる。父上も兄上も叶わなかった…、戦はもう良い」
「私の手で新しい鎌倉をつくる」
やまはさけ うみはあせなる世なれども 君にふた心 わがあらめやも
後に実朝は二心ないことを和歌に詠み、京の後鳥羽上皇へ送った。
その時、いきなり大きな揺れが鎌倉を襲った。
義盛の討死から十八日後の五月二十一日。
関東を大きな地震が襲った。
鎌倉の安寧はまだまだ遠い。
(つづく)
【神奈川県鎌倉】
和田義盛と御家人が幕府軍と戦い多くの血を流した由比ヶ浜。
今日はのんびりとした秋日和だ。
「和田合戦図」
和田義盛と幕府軍が武力衝突をした和田合戦。
鎌倉の市街地で大きな戦いが起こった。
「若宮大路」
「一ノ鳥居」
「二の鳥居」
「鶴岡八幡宮」
鶴岡八幡宮にまっすぐ向かう若宮大路で戦いが起こった。
義盛の軍に泰時が迎え撃った。
実朝は御所からこの八幡宮に逃げ込んだ。
「和田塚」
由比ヶ浜で戦った和田義盛は、この地で命を失った。
ここに和田一族が葬られていると伝えられている。
先週のドラマを見た義盛ロスでお参りの方が多かった。
「善栄寺」
小田原にある善栄寺。巴御前が木曾義仲と和田義盛
和田合戦の後、出家した巴午前は91歳まで生きた。
追記
ゆかりの地が近いので、小田原以外のゆかりの地を早速現場から報告しました。
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今回は北鎌倉の名店、和食・日本料理「鉢の木」の物語だ。
2代目社長の藤川譲治さんと、久しぶりに長時間のおしゃべりが続いた。
初代社長の母の千葉ウメさんと母一人、子一人で育った。
藤川さんは、当時建長寺を自分の庭のようにして育った。
その時に生まれたご縁が今日の「鉢の木」を作ったと言う。
料理の上手い母は女手ひとつで懸命に息子を育てていた。
「鉢の木」が生まれた背景は、母のウメさんが記した「鉢の木物語」が、
お店のHPに詳しく掲載されている。
内容を抜粋しながら説明していく。
北鎌倉の建長寺。
北条時頼が建立した由緒ある寺の門前の仕舞屋(しもたや)で、
どうして行こうかと思案していた。当時47歳。
これまでは主婦として専念してきたので、
この後大黒柱して頑張って行くしかない。
ふと浮かんだのが「食べ物やさん」と言う考え。
ろうけつ染仲間の大石恭子さんとご主人の正雄さんが、
物心両面のサポートをしてくれたので、地の利もあって決心した。
後に息子の仲人もしてくれた仲だ。
「鉢の木」という名前は、当時家の間貸しをしていた友人の間瀬さんが、
建長寺の門前、建物の雰囲気もあっているので、
「鉢の木」がぴったりだと勧めてくれた。
そもそも「鉢の木」の由来はHP内で説明がある。
鎌倉時代のある雪の夜のこと。
上野(こうずけ)の国佐野の里に源左衛門常世という貧しい男が暮らしていた。
その荒屋に道に迷った旅の僧が一夜の宿を求めて来た。
気の毒に思い家に招き入れた。
凍るような寒さで囲炉裏にくべる薪もない。
わずかに残っていた粟を粥にして勧めたが、どうも体が温まらない。
家宝のように大事にしていた鉢植えの梅、松、桜を切って囲炉裏にくべ、
精一杯のもてなしをした。
翌朝、僧は丁寧な礼を言い立ち去った。
実は、その僧こそが5代執権北条時頼だった。
僧に姿を変えて諸国の御家人、民衆の実情を知ろうとして旅に出ていた。
鎌倉に戻った時頼は関東の武士たちに「鎌倉の一大事、いざ鎌倉」と命じた。
常世も真っ先に馳せ参じて、あの旅の僧が時頼だったと知る。
時頼は馳せ参じた武士の中で、一番みすぼらしい武具をつけたものを探し出した。
その武士が常世だった。
時頼は極貧の中にあっても、見も知らずの旅の僧のために、
大切な鉢の木を燃やしてもてなした心に恩賞を与えた。
ろうけつ染仲間とは別に、いろいろなメンバーが居て、
アイヌ彫の森岡さんが看板に(鉢の木)と彫ってくれた。
その文字が今でもお店のロゴマークになっている。
お店の創業は昭和39年(1964年)だ。
最初のメニューは三角に握った「おにぎり」3個に、ニンジン、
ごぼう、椎茸の精進揚げを小さなざるに盛り、
季節の野菜の味噌汁、糠漬けを併せて半月のお盆に乗せて出した。
お寺の参詣の後、ひとやすみしていこうと気軽に寄れる店に。
根気よく店を開いているうちに日を追ってお客様が増えてきた。
ちょうど東京オリンピックの年で、高度成長のころで、
鎌倉も観光地として賑わい始めた。
雑誌などで鎌倉特集も多く、お店の紹介が載り鎌倉へ訪れる人も増え、
お店にも観光客の姿が増えてきた。
私一人では手に負えなくなり近所の奥さんたちに手伝ってもらい、
臨時から常勤とお願いし、お店は繁盛した。
この頃、息子の藤川譲治さんは、すねかじり状態で大学卒業するまで、
スキー三昧、アメリカまでスキーキャンプに参加したという。
地元では外車を乗りまくり遊びに徹底していた。
それは地元では目立っていたと自嘲的に笑った。
しかし大学を卒業後は生まれ変わったように、すべて“遊び切った”と、
自覚して藤川さんは店を継ぐ覚悟で自ら精進を始めた。
ご縁があり京都の老舗の「美濃吉」で修行を始めた。
厨房だけでも60人は居る京都でも有名な店だ。
約3年弱の修行を経て鉢の木に入った。
それ以降、お店は経営面でも力がついて、時代の波にも乗って、
昭和54年(1979年)には、北鎌倉寄りに二つ目のお店と、
平成2年(1990年)にはさらに隣に新館を開店するまでになった。
「こうした一連の出店計画から実行までは息子の功労です。
もはや『鉢の木』の経営を支えているのは彼でした」
と母は褒めちぎっていた。
「昭和39年(1964年)に建長寺の店を始めて、
昭和49年(1974年)に北鎌倉店、
相次いで隣に新館を開店。
北鎌倉に3店舗を構えることになった」
と回想録に書いてある。
こうして40歳代で藤川さんは社長になった。
卒業後、26歳から母を支えて社長のような働きから今日まで、
実質45年経営の主役として励んで来た。
建長寺前の店は、すでに建長寺にお返しして、
北鎌倉店は最近、貸店舗に変わった。
藤川さんはこの経緯を説明してくれた。
1号店の(おにぎり屋さん)は食べて行く為。
母が魚をさばけないので精進揚げの惣菜で始めた。
新館からは精進料理を和食に切り替え、肉、魚を料理する。
ジャンルを飛び越えて料理を切り替える点に不安を覚えたが、
案ずるに及ばず、周囲もお客様も誰も文句は出なかった。
お客様の目(批判)は取り越し苦労だったと笑顔で説明してくれた。
2号店の隣に構えた新館の初めての会合は、
故:開高健さんの法事だった。
2階の大広間にたくさんの方がいらしてくれた。
開高さんはお店の近くの円覚寺に眠っているご縁からだった。
藤川さんの業界仲間は多い。
藤川さんは、長い間、業界のみなさんと旧交を暖めている。
それぞれのお付き合いを大事にされているのだ。
昨今のコロナ禍では学んだことがたくさんあると言う。
北鎌倉店の2号店は、最近、貸家としてうなぎ屋さんのお店にお貸しした。
このビジネスのダウンサイズの結果、程よい規模になり経営方法の転換で、
コスト構造が良い方に変わった。
物事の本質を探り、多方面から学ぶことが成功の秘訣と確信している。
コロナ禍になって新館は2階の大広間合わせて、約70席程度の規模に減らし、
1階のお店は40席余りと説明された。
これで中身の濃い経営ができることになったとも。
鎌倉の年間観光客は2000万人。
コロナの影響で2019年は700万人に減った。
北鎌倉も静かな街になってしまった。
法事の予約も減り、大型バスの観光客も来ない。
そこで考えたのが鉢の木のお弁当企画。
信頼のブランドが地元で受けた。
これは東日本大地震の経験で得た知恵だった。
スーパー、コンビニから商品が消えて、子供用は200円から、
子供ご飯、唐揚げ、南蛮系、大人の弁当も販売したことがあった。
北鎌倉駅近くで昼用のお弁当販売は朝から準備、
夕方からは自前ルートの宅配へ。
地元のお客様の需要が、期待以上だった。
多少、法事のお客、観光客数が戻ったとしても、地元のお客様のお陰が大きい。
現在ではお弁当の売り上げが全売り上げの1/3を占めていると言う。
お店の中にはお世話になった鎌倉在住の方々の作品を飾ってある。
お寺の法事の料理を運ぶ時、アレルギーとか、お子様の様子などに合わせ、
細い神経も使うと付け加えていた。
オペレーションが多少悪くなっても、
リピーターの維持には大事なことだと付け加えられた。
こう言いながらも、次のステージの経営上の秘策を練っている。
世の中の動きから本質を見抜いて学び続けるのが、
成功の秘訣だとにっこり笑って話してくれた。
最後になったが、お店のメニューを紹介。
・贅沢会席膳
・焼魚膳
贅沢会席膳に旬の焼き魚がつく。
・季節膳
・お子様膳
・松花堂(松風)(羽衣)(高砂)=要予約=
建長寺、円覚寺の他にも緑に囲まれた、
心地よい静かな空気の中で北鎌倉を楽しんで欲しいとつけ加えられた。
]]>義時は事実上の指導者として、将軍実朝さえ圧倒する。
その決意の固さは、怯えの裏返しなのか、義時。
(ドラマのプロローグより)
閑院内裏の修復を計画する後鳥羽上皇は、
鎌倉に引き受けさせるという藤原兼子の進言に心を躍らせ、
慈円と共に笑みを浮かべる。
一方、京から知らせが届いた鎌倉では、重い負担に御家人たちが反発。
実朝からも慕われる和田義盛が旗頭となって、
八田知家らが集う状況を、義時は苦々しく思っていた。
そんな中、信濃で一つの事件が起こり・・・。
鎌倉において和田義盛を頭に、御家人お動きが不穏な空気に溢れている。
そんな中、泉親衡(いずみ・ちかひら)の乱が発覚した。
親衡は信濃国の武士らしいが義時、大江広元など宿老達も知らない名だ。
「仲間を集めて御所を襲って北条殿を殺そうと企んでいたようです」
広元が眉間に皺を寄せて名簿を差し出した。
「この中に和田殿のお身内お名前があります。ご子息二人と甥ご一人」
同じ頃、義盛がこの三名から事情を聞いている。
不可解なのは親衡で、突然現れ、御家人をそそのかし、
その後かすみのように消えてしまった。
鎌倉を揺るがそうという、雅な香りの中に京の目論見が匂う。
「上皇様が絡んでいると言うのか」
義時の顔色が変わった。
「鎌倉の政を北条が動かしているのが、お気に召さないようです」
泉親衡を名乗り、御家人を焚き付けた正体は、実は源仲章だった。
「この和田が頭を下げれば、大抵は許してくれる。任せろ!」
義盛は御所に行き、北条時房を前に熱弁を振い、
親衡に関わった和田の親族を擁護した。
息子の義直と義重は寛大に扱われたが、甥の胤長は親衡の頼みに応じて、
多くの御家人を誘った咎がある。
義時と広元が義盛について密談している。
「あの時が思い出されます、上総介広常」
頼朝がなぜ上総介を無き者にした理由を義時は鮮明に覚えている。
「最も頼りになるものが最も恐ろしい・・・消えてもらおうか」
(*)いつか、現実にこんなことも近くでは、あったような気がしたが……。
翌日御所の庭に義盛とその一族98人は胤長の赦免を求めて勢揃いした。
義時は一歩も譲らない姿勢を強調した。
義盛たちの目の前を胤長が廊下に現れた。縄で身を縛られて、烏帽子を外され、
見せしめのように連行されて行く。
「鎌倉殿に会わせてくれ!鎌倉殿!」
実朝に届けとばかりに義盛が叫んだ。
「いっそのこと北条を倒して、俺たちの鎌倉を作るのはどうだ」
義村が義盛を焚きつけた。
義村は義盛の同族で従兄弟にあたり気心は知れている。
義盛の気持ちが動いた。
偶然に病弱だった胤長の娘が、父親に会えないまま亡くなった。
義盛の怒りに火がついた。
「何故、そこまで和田殿を追い詰めるのですか」
泰時は父の義時の筋書きを読んで、猛烈に反発した。
「北条の世を磐石にするため、和田には死んでもらう」
義時は自分の死後、和田一門は、必ず泰時の前に立ちはだかると見越している。
泰時は納得しない。
「誰とも敵対せずに、安寧な世を築きます」
大口を叩いた発言に、義時は口論になり、とうとう泰時に謹慎を言い渡した。
「もう一押しだ。ヒゲ親父は間違いなく挙兵する」
義村は義時に耳打ちをした。
義村は表向きには義盛に力を貸し、実は義時と通じていたことを泰時は知り衝撃を受けた。
政子は尼御台として存在感を増している。
和田との戦いを止めようと義時と向かい合い、独善的な行動を抑制しようとした。
「もう、誰も死なせたくはないのです」
「それは私も同じです」
政子の顔を立てて、義時は引き下がった。(ように見せたのだ)
義時は、その舌の根が乾かぬうちに広元に告げた。
「和田をたきつける、良い手を思いついた」
頼朝が建立した永福寺がツツジの見頃になった。
実朝は千世を伴って気晴らしに永福寺に出かけた。
そこには(歩き巫女のおばば)が広大な庭園の隅に小屋を建てている。
実朝が千世を紹介した。
「夢を見たぞ。この鎌倉が火の海になる。みんな死ぬ。義盛も子らも。由比ヶ浜にヒゲ面の首が並ぶ」
実朝が青ざめたときに、御所に戻るよう伝言を伝えに平盛綱が駆け込んできた。
今回、罪を犯した者胤長の館は和田一門に引き渡されるはずだ。
それを義時が没収するという。
「それは義盛が怒るに決まっているではないか」
実朝は呆れて言うが、義時は狙い通りと言い返した。
「戦いには大義名分がいるのです。向こうが挙兵すれば、それは謀反。我らは鎮圧のために兵を出せます」
義時は実朝に、以後は外出を控えるよう勧告し、時房に命じて戦いの準備にかかった」。
実朝は思い余って、政子に義盛と合う手立てはないかと助けを求めた。
「戦いを止めることができるのは、私たちだけ」
政子の手引きで義盛は御所に忍び込み実朝と会った。
挙兵してはいけないと実朝。
このままでは武士の名折れと義盛が返した。
「いつまでも側にいてくれ。和田義盛は鎌倉一番の忠臣だ」
義盛の目は、感涙に潤んだ。
実朝と政子の前に義時と義盛が並んだ。
「北条と和田が手を取り合ってこその鎌倉。私に免じて、此度は矛を納めてもらえないか」
実朝が、口火を切った。
慶時と義盛は、神妙に話を聞き、どちらも鎌倉のために尽くすと合意した。
実朝が微笑して、義盛を双六に誘った。
政子は義時を呼び止め、
「鎌倉のためと言えばすべてが許されるのですか?戦いをせずに鎌倉を栄えさせて見よ」
政子が声を張り上げて、義時を叱り飛ばした。
「姉上にこうして叱られるのは、ひさしぶりです」
義時が廊下に出ると義盛が離れたところで待っていた。
「政はお前に任せるよ。力がいるときは俺に言え。小四郎」
「俺らは本物の鎌倉殿を得たのではないか」
義時は義盛の言葉に飲まれて、実朝と双六をうちに行く義盛を見送った。
和田館では義盛の帰りが遅いことに危機感を持った。
北条の罠にはまったのではと騒ぎ始めた。
義村はいよいよ和田勢が戦いに動くと見て、胤義、八田、長沼宗政に手の内を明かした。
「挙兵したら寝返ることになっている」
知家や宗政は義村につくと約束した。
和田勢はまず、広元の館を襲い広元を囮にして捕らえて、
次に御所をせめて義盛を救い出すという戦略を立てた。
一方、義時は和田を滅ぼすチャンスを逃したと御所の守りを解いていた。
こうして、鎌倉を舞台とした最大の激戦、和田合戦の火蓋が切られた。
(つづく)
【神奈川県三浦市】
「光念寺」
「筌龍弁財天」
「源平盛衰記」
「正行院」
「秋谷・立石海岸」
この解説は、近々三浦含めて取材してきます。
]]>
シニアになったらセカンドライフでカフェを開きたい。大学の友人4人で誓い合った。
ネーミングは「SAZANAMI COFFEE」。同時にロゴも作った。
それが当時の仲間達の夢だった。
今回の主役は1991年7月藤沢生まれ藤沢育ち、沢田真洋さん31歳だ。
地元の新林小学校から中学校は慶應義塾の普通部、湘南藤沢高等部、
大学は慶應義塾大学経済学部の出身。ほぼ一貫した慶應ボーイだ。
小さな頃からサッカー少年で中学ではレギュラー、
大学では1年後輩にプロ選手の武藤嘉紀がいる。
最終的に沢田さんはプロ選手を諦めたが、サッカー中心の生活で、
就職希望は広告会社の電通、ほか数社のみ。
就職浪人を覚悟で受験した。
●電通から始まるドラマチックな出来事。
運よく電通に内定したが勤務先第二志望の中部支社に配属された。
でも一度藤沢を離れ、名古屋の生活を十分に楽しむことができたと言う。
担当部署は「中部テレビ部」で名古屋テレビ(メ〜テレ)の担当になった。
仕事上スポーツコンテンツに多く触れる中で、
スポーツの世界でも有名なナイキジャパンに、
転職したいという気持ちが強くなった。
C Mのコピーが好きだったので広報を目指して挑戦しようかと。
ところがナイキジャパンに入社するためには英語力が求められることになったため、
電通を退職して、シアトルに留学をして英語を学んだ。
講義も受けられ、企業のインターンも可能な、IBP(インターナショナル ビジネス プロフェッション)プログラムに参加した。
つまり電通を退職してシアトルのベルビューカレッジに入学したのだ。
その後は、またナイキジャパンにリベンジするつもりだった。
●シアトルでの出来事。
シアトルはスターバックスやタリーズの発祥地でカフェの街だった。
セカンドライフでカフェを開こうという夢を思い出して、
大学の授業の合間に市内のカフェを巡り、
留学して数ヶ月でカフェの勉強も始め、
バリスタアカデミーでバリスタの資格も取った。
コーヒーの世界にどっぷりとハマってしまった。
本当に楽しい時間を過ごし、ナイキを目指すより、
カフェの世界が楽しくなった。
気がついたらセカンドライフの将来の夢に近づいていた。
結果的にシアトルで初めてバリスタの仕事を始めた。
学生時代はアルバイトもしたことがなく、
シアトル市内のコーヒショップを100軒以上巡って、
その中で気に入った5軒に就職希望のレジメを出した。
その中の1軒から返事が来て面接を受けた。
採用が決まったのはBELLDEN CAFÉ。
バリスタの仕事が始まった。
日本で獲得した1年間の学生ビザで、無給で週5日ビザが切れるまで働いた。
お金を払ってまで勉強できることがありがたかった。
ところがワーキングビザはバリスタのような飲食関係では、
ビザが取得できないことが判明した。
そのカフェのオーナーが弁護士を使っていろいろと試行錯誤してくれたが、
その店はバリスタの仕事しかなかった。
たまたまシアトルで地元に愛されるコーヒーショップ、
Lighthouse Coffee Roastersのオーナーが焙煎師のような仕事か、
マーケティングのような裏方の仕事ならば就労ビザが取得できると、
ビザスポンサーとしてサポートしてくれた。
赤坂のアメリカ領事館で就労ビザの面接を受けて見事に就労ビザが取得できた彼は、
再びシアトルに戻り焙煎師として1年半懸命に働いた。
その間に訪れたロスアンゼルスで、
たまたま入ったVERVE COFFEE ROASTERSが、
マジで格好良い。
ここで働きたいと直感で思ったら、VERVE COFFEE ROASTERS JAPANは、
鎌倉、新宿の2つの支店があるという。
1年後に帰国して日本の店で働きたいと日本支社長に連絡をし、
帰国後面接して採用された。鎌倉、新宿、六本木、北鎌倉と
4つに増えた全店舗でバリスタとして働き、卸の責任者も兼任した。
ちょうど29歳の時だった。
その時に入社の条件として、自己ブランド(さざなみコーヒー)も副業として立ち上げたいと、
競合関係だが認めてもらった。
VERVE COFFEE ROASTERSの本業のスキマの時間を利用して、月1回ほど出張サービス、
間借り店舗を経験した。ありがたい経験だった。
2021年9月、バーブコーヒージャパンを退社した。
以降はサザナミコーヒーとして毎週土日に小田急線鵠沼海岸駅構内の一角の
COMAD(コマド)を借りてコーヒーの売店としてスタートした。
平日はイベントに参加したり、オフィスに出張したり、
藤沢市の助成金でイベント実施などやりたいことをしていた。
●いよいよ自己ブランドコーヒーの店を始める準備ができた。
思えばシアトルはアマゾンやグーグルなどIT関係の企業も多く、
第2のシリコンバレーとも言われる中、
カフェが多くビールの醸造所も沢山ある街だ。
お店に集まって人々が楽しそうにおしゃべりをしている光景を目にしていた。
カフェは人間のコミュニケーションを大事にする。
カフェの中の様々なコミュニュケーションで、人間の在り方の本質を感じた。
電通の名古屋時代に通ったスナックのママたちに愚痴を言っても、
何でも聞いてくれたピュアなコミュニケーションを思い出した。
よく話を聞いてくれる。癒しを感じさせてくれる間柄。
素晴らしい関係だと思った。
でもスナックは夜しかできない。カフェは朝からできる。
コミュニケーションツールとしてのコーヒーの持つ力の魅力を感じた。
味を求めることも大事でものすごく勉強した。
お店の内装を考える上で、まずカウンターは必要条件だった。
カウンターを挟んでお客さんとのコミュニケーションを大事にしたい。
内装のコンセプトは、藤沢という場所のメージを感じてほしい。
海はあるけれど北側には山や森も多い。
壁のタイルは青色で海を表現し、草や花は木のベンチなど木の素材を大事にしたい。
江ノ島海岸の海沿いの石の階段に座って、目の前の海を眺める姿を思い浮かべた。
部屋のベンチからカウンター越しの青いタイルの壁、海を見る景色の設計を基本にした。
ベンチの後ろの赤い木の細い柱は船の造船所の赤い錆を表現し、
海っぽい感じを出して真鍮のランプは船の中のイメージだ。
室内にあるドライフラワーは自然のイメージを現し、
全体的に海街のイメージを大事にした。
すべて地元のアーチストを起用した。
器やカップは手作りで湘南海岸のAt Home Works。
照明はドライフラワーアーチストのGreen Thumb。
エプロンは鵠沼海岸のリネンアーチスト、One Scene。
壁際や外の木製ベンチは片瀬の金物屋のBis&Ketが作成した。
●このお店の今後のこだわりのコンセプトは。
この橘通りは、小学校へ通う時、中学時代は日能研へ通う時、
20年間歩き続けた道は藤沢駅が基本だった。
なるべく駅近がよかった。この橘通りの店は、元アメカジの洋服屋だった。
辻堂のテラスモール付近に移転したので、その後を借りた。
でも昔ながらの風景を大事に残したいので、店の扉はそのまま生かして残した。
この街はどんどん昔の風景が変わってしまうので、何か少しでも残したい。
お店の顔だった扉は、そのまま残したいとビルのオーナーにお願いした。
お店が完成したら、どんなお店でありたいかとの質問に、
0歳から100歳まで、ワンちゃんも猫ちゃんも赤ちゃんもみんなターゲット。
嬉しい話、悲しい話、楽しい話をしにきて欲しい。
癒しのある寛げる日常の世界を大事にしたい。
この店は、いつ帰ってきても、変わらない景色になりたい。
そんな気持ちでありたい。
子供を連れて、引き続き孫まで連れて来て欲しい。
「自分の子供が成長して親にも言えないことを、
お店に来てマサ君に話を聞いて欲しい」
初めてお店にきたお母さんが残した嬉しい言葉だ。
お店を初めて1ヶ月。9割が常連になってくれた。
「すでに5回以上も来店してくれる方が多い。
毎日来る方、1日3回も来る方、わずか1ヶ月でそういう状態です」
と笑顔で話してくれた。
藤沢はチェーン店のコーヒーの店ばかりで、個人のお店がなかった。
メニューのこだわりは嗜好品だから口に合うか合わないかは仕方がない。
すべての方に合うコーヒーはない。
「だからコーヒー好きからコーヒー嫌いの方でも楽しめるお店を目指したい」
写真 Hideyuki Akata
写真 Hideyuki Akata
フルーティなコーヒーからビターなコーヒーまで揃えている。
紅茶は大磯のお店から取り寄せ、ジュースは湯河原の100%みかん、
ビールも湯河原のクラフトビールを揃えている。
写真 Hideyuki Akata
スイーツは主にワッフルと焼き菓子。
すべて自分で手造りの商品ばかりだ。
シロップ、キャラメル、ジャムも手製である。
レモンケーキもカウンターに。
「会話は全て、反射神経が大事ですね。コーヒーをやっているのは、どんな方ともお話ができる。
いろいろな方と話ができる。話題の引き出しは多いと思います」
「週末はスタッフがいますが、僕が話をするのが好き。お客さん同士の会話が生まれる店にしたい。
別に店を大きくしたくはないです」
とにかくスタートしたばかり。すべてはこれからだ。
「藤沢という土地で、優しく穏やかに波打つ時間が、この地にあると思っていて、
そんな『さざなみ』のような時間を、少しでもこのお店で感じていただけたらと思っています」
お店はJR藤沢駅のロータリーから橘通りに入ってすぐ左側にある。
今後の「SAZANAMI COFFEE」に、大いに期待したい。
]]>
「鎌人いち場」
そこに行ったら、みんないる。⇨本当に居た、居た。
つながる、広がる。⇨ほんとう!また繋がった。
コミュニティーマーケットであること。
参加者主体の場である事。
鎌倉を愛し、鎌倉の未来づくりに貢献すること。
(HPより)
「鎌人いち場」は初めて見る言葉で、読み方も知らなかった。
「鎌人(かまんど)」と読むと、初めて知った。
鎌倉に45年前後も住んでいて、
地元のことはまだ、何も知らないのだと気がついた。
この2年間「鎌倉農泊協議会」で活動し、
2006年から2013年まで韓国の安東市と都市提携を進めながら、
このような若い人による地元の繋がりの祭りを知らなかった。
つい最近、稲村ヶ崎公園で3年ぶりに開かれた「なみおと盆踊り祭」も知らなかった。
ぜひ行ってみたいと思っていたが、
この日は東京でクラス会、夕方から「鎌倉インテル」の試合があったので、
稲村ヶ崎公園には参加できなかった。
コータ&トマソンさん、ナカザトさん、ヒラノさんが発起人の一員だった。
みなさんとは仲間だが、でも参加できなかった。
「鎌人いち場」の本番は、朝からFMヨコハマの朝の番組で、コータさんがアピールしていた。
今日は時間がある。天気も良い。
11時のオープンには行けそうだ。
しかし行ってみて驚いた。
会場は足の踏み場もないほど人、人、人でいっぱいだった。
会場は大きく分けて、「交わる広場」「食べる広場」「売る広場」に分かれている。
「ジャムプラザ」(歌やダンスのライブパーフォマンス会場)
「ファーマーズマーケット」「フリーマーケット」「物販コーナー」
「知る場」「ワークショップ」とたくさんの団体、個人が出店している。
シニアから子供連れの家族。たくさん集まっている。
よく見ると知っている方々が楽しく動いている。
到着すると、すでにフラダンスが始まっていた。
小高い丘にはたくさんの人々(鎌人)が集まっている。
まず知り合いの仲間から訪ねてみよう。
イラストレーターのかおかおパンダさん。
いつもニコニコと写真に写ってくれる。
隣はファッショングッズのワンカマさん。
シューさんも奥様も楽しそう。
ジムの友人のミウラ君が大船から走ってやって来た。
何年ぶりだろうか、いつも変わらない。
太鼓を叩いているグループ。
みんなも手拍子打っている。一体が感あった。
ゴミフェスのヒラノさんが、このイベントリーダーのミヤベさんを紹介してくれた。
朝のFMヨコハマでイベントをコータさんと紹介していた方だ。
早速ツーショット。
腰越王子のナカマルさんが包丁研ぎの店を出していた。
子供たちが珍しそうにお兄さんに絡んでいた。
すぐ横のステージでは鎌倉インテルの二人がマイクを握っていた。
鎌倉の皆さんに鎌倉インテルの活動をアピールしていたのだ。
横のDJさんに「今夜は大事な試合があるんですよ」と耳打ち。
すぐにマイクの二人に質問をして、鎌倉インテルが暫定1位の話題を引き出してくれました。
彼女はFMヨコハマの夕方の番組のDJコマチサナエさん。
ちょっとおどけてくれました。
カヤックの店で「大河ドラマ館」の優待券がもらえると聞き、
市役所のゲッカさんという珍しい苗字の方がカヤックの店まで案内してくれた。
ちょうど前の方がガラガラポンの抽選くじを引いたら銀賞の「大河ドラマ館」の招待券が当たった。
「私は遠いので、他の方がよかった」と。
私はすでに2回も鑑賞していたが、次回の新企画を見たかった。
私にいただければ、わたしの「クロッポ」で、もう1回引いてくださいと。
ものもの交換で、名刺大の招待券をゲットできました。
カヤックさん、ありがとう。
ますます来場者が混んできた。
フリーマケット。
市役所コーナーに大河ドラマの優待券ゲットのお礼に寄ったら、
ゲッカさんは不在で、議員のひなたシンゴさんとばったり。
腰越テーマだけではなく新庁舎問題でも貴重な委員だ。
若いのに色々と頑張っている。
子供の遊具も置いてある。
隣の公園は何もないかのように誰もいない。
134号線を長谷に向かって歩いていたら、やはり議員のナガシマさんとばったり。
これから「鎌人いち場」に向かうところだった。
少しばかり立ち話で、ある新しい課題について意見交換した。
「鎌人いち場」
そこに行ったら、みんないる。⇨本当に居た、居た。
つながる、広がる。⇨ほんとう!また繋がった。
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「鎌倉に穏やかな日々が訪れています」
「本日は鎌倉の承元二年から建暦元年までの鎌倉で起こる様々な出来事を
凝縮してお送りいたします」
なんと最初からドラマの語りを務めている長澤まさみが登場した。
前からどんな人物で出演するか話題になっていたが、
このような出番を三谷幸喜さんは準備していたのだ。まずは、安心した。
大海の 磯もとどろに 寄する浪 破れて砕けて 裂けて散るかも
源実朝
(ドラマのプロローグより)
いまだに源実朝と千世との間に世継ぎの誕生がなく、気に掛ける政子と実衣。
義時は御家人たちが謀反を起こさぬように政の仕組みを改める。
しかし、傲慢なやり方に三浦義村、和田義盛らが不満を募らせていた。
一方、泰時はなれない和歌の悪戦苦闘し、源仲章に相談を持ちかける。
そんな中、成長した公卿が・・・・・・。
義時と後妻・のえとの間に生まれた男の子(後の北条政村)はすくすくと育っている。
実朝は疱瘡という重い病気を患い、一時は命の危機に瀕した。
正室の千世はいまだに子宝に恵まれずに実朝の実兄・頼家の嫡男の善哉と親子の縁を結んだ。
「ご心配をおかけしました。本日より、仕事を始めます。
母上にはご迷惑をおかけしました」
実朝は政子、義時に頭を下げて言った。
「一時は次の鎌倉殿をどうしようかと心配しました」
「私が、もしもの時は誰が鎌倉殿に」
「善哉と・・・」
義時は北条一門が政の中心に躍り出る機会と考えて、政子に意思を伝えた。
「政は私が進めます。鎌倉殿にはそれを見守っていただく。
兄上(宗時)は坂東武者の頂に北条が立つことが夢だった。私がそれを果たします」
義時は大江などと、何かと協議を進めている。
多くの訴状の結論もどんどん決めていた。
「・・・私は役に立っているのか」
葛藤する実朝を泰時は力づける。
そんな泰時に心が染みたのか実朝は書き溜めた和歌から一首を選んで泰時に渡した。
「楽しみだ。返歌が・・・」
「歌で返すのですか」
返歌。泰時は困った表情を見せた。
実朝は和歌の才能が開花して、今や京で大きな評判になっている。
「源仲章殿の仲立ちで藤原定家殿が鎌倉殿の歌を手直ししてくださるって」
実衣が自慢げに政子に伝えた。
仲章は今日では後鳥羽上皇に仕え、鎌倉では実朝の学問の指南にあたっている。
「今後は鎌倉殿のそばで政を指南する事と上皇様に言いつかりました」
「お父上のことは大変でござった。正しき道はいばらの道。
悪く言うものがいましょうが、私はあなたの味方」
御所において仲章は義時に伝えた。
「鎌倉殿、これよりは定家殿が和歌の師匠に。おめでとうございます。
今後は康信の口出しは禁ず」
仲章のことばに泰信が肩を落とした。
「わしはお前の方が好きじゃ。和歌の楽しみを教えてくれたのはお前じゃ。
これからもわしを助けてくれ」
実朝としては残念なことになった。
「雨林(ウリン)!遊びに来てしまった」
和田義盛は御所の実朝の居室にやってきた。
「皆が言います。いよいよ和田が上総介になって、御家人の柱になれって」
「わかった。なんとかしよう」
実朝は和田義盛の願いを引き受けた。
義盛から上総介になりたと頼まれた実朝は、政子の部屋で相談をした。
「政は身内であるとか、仲が良いとか、そういうことは無縁で厳かなものだ」
政子がたしなめた。
「御家人たちは、みな苦々しく思っています。北条でなければ国司になれないのか」
事情を知った八田知家は政子に進言した。
義時は政の仕組みを新しくしたいと考えている。
「それでも、やらねばならぬのです。二度と北条に刃向かうものが出ないように」
「父上のことは感謝します」
「あれで御家人どもは、全てひれ伏した」
義時は憂慮する政子に理由を語った。
義時は泰時の居室へ来て、
「いささか、疲れた」と横になった。
そこに泰時の幼馴染の鶴丸がいる。
「いつまでも鶴丸では具合が悪い。新しい名前をつけてやろうか。
盛綱・・・氏もいるな。平でどうだ」
「鎌倉に平家のゆかりのものがいる。源氏の世が安泰になった証だ」
名前の理由は泰時の命綱だと説明した。
鶴丸が御家人にして欲しいと、うっかり本音を漏らしてしまった。
御家人の家人が御家人になるとは、前例のない話だ。
「本日、切的(弓術)の技くらべに紛れ込め。そして一際目立つ働きをせよ」
結果が良ければ義時は実朝に掛け合うつもりだと鶴丸に託した。
「上総介の件は忘れて欲しい」
義時は和田に強い口調で言った。
「鎌倉殿が約束してくれたのだ」
義盛は反論したが、実朝に何かを頼むこと。ウリンという呼び名も禁じられた。
「変わってしまったよな。鎌倉もお前も」
義盛が捨て台詞を残して出て行った。
「和田殿は御家人仲間で人気があります。慎重にいかねばなりませんな。
和田には三浦がついています」
大江広元が含みを持たせた言い方をした。
和田は三浦一族で、三浦義村が亡き頼家の正室のつつじと善哉を連れてきた。
「何か私の名前が出ていたようだな」
「一時は善哉様を鎌倉殿にという話もあった」
「でも元気になられた。それで良い」
義時は善哉を政子のところに案内し、義村には鎌倉の刷新について単刀直入に伝えた。
「守護を二年ごとに変える。御家人たちの力を削ぐためだ」
「言っておくが、俺も相模国の守護だぜ」
「だからこそ、真っ先に賛成してもらいたいのだ。そうすれば他の御家人たちは何も言わぬ」
義村は承諾した。だが、義時が部屋を去ると怒りに任せて、床を蹴った。
午後になって切的の技比べがあった。実朝や多くの御家人が観戦する中で、泰時と組んだ
平盛綱が、見事に的を射て勝を収めた。
「あの盛綱というものは」
実朝は義時に尋ねる。
「北条のもので昔から太郎の幼馴染。盛綱を御家人にしてやりたいのですが」
実朝は分不相応な取り立てだと即座に却下した。
「和田義盛の上総介の推挙を止めたのはお前ではないか」
実朝が筋を通した。義時も正論だと認めた。
「さて、どうやら。私はもう要らないようです。後は鎌倉殿のお好きなように進められるのが良い。伊豆へ引き下がらせていただきます」
義時は開き直った。
義時が鎌倉から引退すれば、実朝の政は進まないと判断した。
実朝は折れるしかない。悲しい目をして、盛綱を御家人にすることを許した。
「その者を御家人に」
「鎌倉殿が一度口にしたことは、変えられません」
「今後、私のやることに口を挟まぬこと。鎌倉殿は見守ってくれればよろしい」
義時は凄みをきかせて言い添えた。
実朝に世継ぎができないことを、千世が気に病んでいる。
「周りのものが、お子ができないと心配しています。私がお役目が果たせないなら、側室を・・・」
「あなたは上皇様の従兄妹。側室を持てば上皇様に申し訳が立たぬ」
「なぜ、私から裂けられるのですか」
「初めて人にいうが、私には世継ぎを作る事ができないのだ。千世の所為ではない。
私は・・・そういう気持ちになれない。もっと早く言うべきであった」
「ずっとお一人で悩んでいらしたのですね。話してくださり、嬉しゅうございます」
「私はあなたに応えてやる事ができない」
「それでも構いません」
千世が優しく実朝を抱きしめた。
泰時は返歌が詠めなくて悩んでいた。
背後からきた仲章が泰時の手にしている和歌を覗くと誰の歌か知らずに解釈した。
「これは、恋しい気持ちを詠んだものです」
泰時は慌てて、実朝の部屋を訪ねその和歌を手渡した。
実朝は泰時を見つめ、別の和歌をした紙を手にして詠みあげた。
「そうであった、間違えて渡してしまったようだ」
「大海の 磯もとどろに寄する浪 破れて砕けて裂けて散るかも」
後世、名歌と称えられる一首だ。
泰時がこの紙を手に退室する後ろ姿を、実朝は寂しく見送った。
(*)実朝は決して間違えてその和歌を与えたのではない。
寂しく見送った理由だ。
男の気持ちも複雑だ。
善哉は出家して公卿と名を改めて、修行のために京に上がる日を迎えた。
見送る政子に公卿が挨拶する。
「園城寺の公胤僧正の元で修行して参ります」
「お戻りになられた暁には鶴岡八幡宮の別当になっていただきます」
苦行の旅立ちを義時と政子が見送り、実朝と義時もそれぞれ別の場所から見送っていた。
(つづく)
ドラマのエンディング。
いつもの第39話の「ゆかりの地」を紹介。
現地へ行っていませんので、番組の紹介写真から。
【静岡県熱海市 十国峠】
【源実朝の歌碑】
「鎌倉右大臣歌」
箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ
世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 網手かなしむ
「小倉百人一首」
【鶴岡八幡宮】
源実朝の歌碑
山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも
蔵出し写真も探してみます。
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鎌倉に面白法人カヤックという会社がある。
カヤックは自然や文化、人のつながりといった地域特有の魅力に着目して、
東京一極集中による経済合理性をあえて選択せずに、
2002年から鎌倉の地で事業展開をしてきた。
地域に根ざした企業として「まちの社員食堂」など鎌倉に住む人や、
働く人のコミュニティー活性化の拠点としての施設を運営している。
最近、まちづくりの一環として、「まちのコイン」で力を入れている。
最近「まちの社員食堂」の場所を改装して、夜のみ営業する「まちのスナック」を始めた。
壁にはバーのようにボトルキープの洋酒が並んでいる。
ソファーもそれらしい素材を使用して、豪華感がある。
昼間の食堂のイメージを若干変えてあるようだ。
単にお酒を飲む場所だけでなく、世代や価値観を超えてまちの人がつながり、
暮らしの拠り所の場になればとの思いから、居酒屋やバーでなく、
「スナック」という名前で営業を始めたと説明を聞いた。
ママ・マスターは日替わり交代、カラオケもないなどオールドスタイルのスナックでは無い。
コロナ禍で他世代の交流が薄れてきた昨今、他世代の交流の場として、
「まちのスナック」が鎌倉のコミュニティ活性化に大いに期待できる。
先週末、鎌倉インテルの応援仲間から誘いがあった。
「今夜、御成町の「まちの社員食堂」が夜だけ、「まちのスナック」になって、
日替わりマスターを、なんと松尾市長がやるそうです。いきませんか」
営業時間は19時から22時までだそうだ。
つい数日前の湘南深沢で行われた、鎌倉インテル主催の「鳩スタ創立1周年感謝祭」で、
久しぶりにお会いしてお話ししたばかりだが、楽しそうなので参加した。
あまり大きなお店でも無いので、我々は10分ほど早めに行った。
お店はまだオープン前で、行列などなかった。
しかし、店内にスーツ姿の松尾さんがいる。
すぐに姿を見つけてくれて、私たち二人を店内に入れてくれた。
「先週会ったばかりなのに、よくお会いしますね」と松尾さん。
我々は早速カウンターの端の席に座った。精算用の席番号は1番だった。
精算はキャッシュレスで、まちのコイン他、クレジット、Paypayなどだと説明を受けた。
お店の責任者のカヤックのウエスギカナコさんだ。
背の高いスマートで笑顔が素敵な女性だった。
そうこうして居るうちに来場者が次々とやってくる。
カウンターが埋まった時にやって来たのが、ショートカットの髪を染めた女性だ。
一人で来たので・・・残念!とハヤカワさん。
奥の4人がけのソファーに一人で座った。
なんとウィスキーの白州のボトルキープをしている。
京都の美術大学の教授をされている地元の常連の方だと知らされた。
あっという間にカウンター、ソファー席、中庭の席も満席になった。
松尾さんはすでに、スーツ姿でマスター役を、見よう見まねで頑張っている。
「松尾さん、銀座や六本木では、マスターはそんな格好では無いです」
「素敵な蝶ネクタイをプレゼントします」
「蝶ネクタイ?」
「少し待っていてください」
早速私はハサミを借りて、目の前のチラシを大きな蝶ネクタイの形に切った。
赤いマジックインクを借りて、真っ赤な蝶ネクタイができた。
セロテープで、裏打ちして多少しっかりした蝶ネクタイができた。
(市長に対して、少し失礼かと思ったが、カヤックのお店の精神からよしと勝手に判断した)
松尾さんに物陰に来て頂き、白いワイシャツの胸に真っ赤な蝶ネクタイを貼り付けた。
ご自分でもうまく貼り直しお店に出た。
松尾さんも満更ではない雰囲気で、気さくな振る舞いで、よりマスターの役目を果たしていた。
周りのお客さんたちも、かなり楽しんでくれたようだ。
お店全体の雰囲気が、一気になごやかな雰囲気になり、他世代の交流が一つにまとまったようだ。
カヤックのコンセプト通りになったような感じがした。
わたし自身も制作コストがほぼゼロ円で、こんなに受けるとは思わなかった。
後から、「まちのスナック」の責任者のウエスギさんから多大な感謝の言葉をいただいた。
わたしも数名の店内のお客様を紹介された。
「鎌倉ビール」の広報担当のナガタさんは、お話ししているうちに偶然の話がわかった。
2013年にパートナーシティ都市を提携した韓国の安東市の関係者が、
提携式典で来鎌した時に、お土産として「鎌倉・安東文化交流展」の、
イベントポスターを縮小して鎌倉ビールのラベルにしてプレゼントする企画をしたことがある。
なんとナガタさんが、偶然にその作業を担当したと聞き、一気に仲間になった。
ハヤカワさんのテーブルで一緒に盛り上がっていたデザイナーのイケダさんは、
わたしの元勤務先の広告会社の系列会社の方だった。
今度ゆっくり会う約束をした。
話してみないとわからない。
みなさんと初対面でフェイスブックの友達になり、メッセンジャー交換が始まった。
わたしの隣に座ったご夫婦は、ご主人のオオタさんは映像プロデュサーだった。
10月末に「まちのスナック」のマスターとチーママの予約をしていると。
「是非、おいでください」
すでにお客がお店のスタッフになっている。
都会のスナックやバートは違った、地域ネットワークが始まり、
日程を手帳に入れた。
この年齢でも、鎌倉を舞台に、また新しい関係ができる。
他世代の交流が始まる予感が・・・。
まさにカヤックのコンセプトそのものだ。
翌日掲載の「まちのスナック」のSNSの紹介写真にわたしと松尾さんが出ていた。
「まちのスナック」にハマりそうな気が来てきた。
早速、元勤務先の後輩をこの店に案内しよう。
追伸:
まちのコインで鎌倉インテルの優勝祈願をお祈りしたら、
松尾さんはじめ、いろいろな未知の方からクルッポが増え続けている。
新しい(べらたけ)にご期待ください。
で、 試行錯誤しながら営業しています。
そこで、 一緒にスナックをつくってくれませんか。
まずは今日あったこととか、思いついちゃった アまちのスナック。まず鎌倉で、はじ
「野田の湯の奇跡」。
銭湯で出会った青年が「鎌倉インテル」のサッカー選手だった。
みるみる間に「鎌倉インテル」と鎌倉の観光活性化を目標に協働することになった。
10月10日は鳩スタ誕生1周年記念の感謝祭だった。
1日中、スタジアムの中では、少年達のエキビジョンマッチ、集団ダンス、
コンサートと多くのイベントが開催された。
出店エリアでは地元の仲間の物販、ワークショップ、体験ブース。
飲食エリアでは世界のビール、コーヒー、キーマカレー、クッキー、プリン、ステーキ串。
11時開幕。
最初は湘南で150人を超えるメンバーで活動しているチアリーディングメンバーの
ダンスパーフォーマンス。
続いて小学3年生のエキビジョンマッチ。
この頃に会場に着いた。
まず出店している仲間に挨拶だ。
湘南モノレールと江ノ電が並んでテントを出している。
隣は「ワンカマ」「かおかおパンダさん」「FOOTART」の出店だ。
友人の町田さんはインテル選手のおすすめのコーヒを飲んでいる。
唐揚げの店は行列が出来て居る。
3年生の試合は1対1の接戦。
スタジアムの試合観戦はほとんどが選手の家族だろう。
シンガポールにいるはずのオーナーの四方さんが目の前にいた。
明治大学のスポーツ学部の取材を受けていた。
世界のビールも行列は一段落。
昔、広告でご縁のあった「カールスバーグ」を戴く。
まんまる幼稚園の仲間が家族と元気に踊っている。
今日の目玉のコンサート「コータ&トマソン」のコータさんとツーショット。
以前からFB友達だったが、リアルに会うのは初めてだ。大学の後輩でもある。
仲良くしていきたい。
浅尾慶一郎さんが後藤吾郎さんといた。
猛烈なインテルサポーターの後藤さんは市会議員になる前は浅尾事務所の秘書だった。
浅尾さんは、前回の鳩スタ祭りにも姿を見せていた。
毎回、試合後は後藤さんに、ビールを飲みながらゲーム内容のポイントなどを教えてもらっている。
スタジアムでは湘南学園のダンス部の皆さんが踊っている。
その横で四方さんと松尾市長がお話をしていた。
邪魔にならない程度に話に加わった。
気がつくと市会議員の前川さん、中里さん、日向さん、池田さんの会派の皆さんがいらしていた。
一緒に写真を撮りましょうと。
中里さんは2020東京オリンピックの表彰台を市役所からトラックで運ぶ役目のようだ。
日用品メーカーのP&Gジャパンが利用済みプラスチィック容器を再利用して製作した。
持続可能な社会に向けた新しいモデルだ。
今日はレプリカのトロフィーを掲げて、みなさんが記念写真を撮っている。
ステージでは深沢在住のシンガーソングライターの「よしひろあさこ」さんが、
ギターをつま弾きながら、世界に届く光となるような音楽を届けていた。
そしてラストは「小川コータ&トマソン」の出番だ。
湘南・鎌倉密着のウクレレソングユニット。
FMヨコハマの日曜日の朝「SHONAN by the Sea」にレギュラー出演している。
一曲目は「ビーチコーミング」
ビーチコーミングとは、海岸に打ち上げられた漂着物を収集の対象にしたり観察する行為。
漂着物を加工したり標本にしたり装飾にしたりして楽しむ。
初めて知った言葉だ。
ビーチコーミングを全員で一緒になって輪唱する。
「空中散歩」。
これは目の前を走る湘南モノレールをテーマにした歌。
以前、モノレール車内で実演をしたと聞いた。
トークとセッションで30分近い中身の濃い演奏だった。
本当に地元密着なユニットだ。
午後4時には完全撤退の予定だという。
スタッフの皆さんが後片付けに専念して居る。
ちょうど4時にはスタジアムには誰も残っていない。
なんと拾うゴミもひとつも落ちていない。
参加者の意識の高い素晴らしい行動だった。
「みんなの鳩スタ」
これからの鳩スタ運営の主役は、ファンのみなさん。
「借りる」場所から「活かす」場所へ。
みなさん自身のアイデアに「挑戦する」場所へ。
鳩スタから深沢へ。深沢から鎌倉に、チャレンジと笑顔の輪を広げていきましょう。
小さなパンフレットの最後にある言葉だ。
半年前から鎌倉インテルの応援に参加してみて、
今日はワクワクするような幸せな気分になった。
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今回のテーマは「武家政権確立への道」の最終日でした。
結構混んでいました。
鎌倉幕府は、日本史上初めての武家政権。
150年続いたことは大変なことだった。
幾多の困難をのち超えてきた。
特に三代将軍・源実朝の暗殺と承久の乱は存続の危機にさらされる程の重大な事件だった。
この時に将軍・実朝、そして尼将軍・北条政子を支えたのが、北条義時だ。
北条義時は武家政権を確立した重要人物で「武家の古都 鎌倉の実質的な創始者と言えよう。
頼朝の死後、鎌倉殿を支え流13人の宿老で一番若く、
最終的に残った義時は承久の乱に勝ち抜き鎌倉幕府の礎を築いた。
義時の時代の背景を一気に見てきた。
源平屏風
源平合戦図は「平家物語」に語られる武勇伝を描いた屏風絵。
「屋島合戦」から「壇ノ浦の戦い」まで江戸時代ぬ描かれたと説明があった。
(頼朝像)
(政子像)
(吾妻鏡)
(昔の写真 明治の参道)
この写真は長崎大学附属図書館の所蔵。
出土品
鎌倉では漆を塗った日用品が数多く出土している。
成熟した都市らしい彩り豊かな人々の生活がうかがわれる。
永福寺の瓦
やぐら
呪符木簡
若宮大路の東側から出土した木簡。
屋敷の入り口に魔除けの札として打ち付けられた可能性がある。
以下は都市鎌倉の成立の過程を映像で説明してあった。
寿福寺
もともと現在の寿福寺のあるところは、奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したと言われる
源氏山を背にした、亀ヶ谷と言われる源氏家父祖伝来のとであり、
頼朝の父・源義朝の宮廷もこの地にあった。
尼将軍・政子のその子・将軍実朝の墓がある。
大倉御所
現在の市内の二階堂・西御門・雪の下一帯にあった源頼朝の邸宅。
1180年(治承4年)から1219年(承久元年)までの39年間、
鎌倉幕府将軍(鎌倉殿)の御所だった。
鶴岡八幡宮
雪の下にある神社。別称として鎌倉八幡宮と呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の守護神。
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝ゆかりの神社として、全国の八幡宮の中では関東方面で知名度が高い。
境内は国の史跡に指定されている
切通
鎌倉は三方を山に囲まれて、防御上非常に有利な地形をしていたが、人や物資の行き来には不便であったために、山の稜線をきり開いて道を作り、これを切通(きりとおし)と呼ぶ。
切り通しは鎌倉への出入り口として交通上だけでなく戦略上重要な意味があり、周辺には有力者の邸宅などがあった。
主な切り通しを「鎌倉七切通」または「鎌倉七口」と呼ばれる。
大仏切通
鎌倉五山
建長寺
円覚寺
浄智寺
浄明寺
臨済宗の寺院であり、鎌倉にある五つの禅宗の寺院。建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄明寺の5つを鎌倉五山と言う。
最終日のために特集の部屋は、多くの人が集まっていた。
次回の特別展は、
「源頼朝が愛した幻の大寺院」
永福寺と鎌倉御家人
=荘厳される鎌倉幕府とその広がり=
22年10月15日(土)〜12月4日まで。
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激しさを増す北条親子による主導権争い。北条時政とりくは、
三浦義村に命じて源実朝を館へ連れ込み鎌倉殿の座を娘婿・平賀朝雅へ譲るように迫る。
対する義時は、泰時、時房、八田知家らを引き連れ、時政の館を包囲。
攻め込む機会を慎重に見定めていた。張り詰めた空気の中、政子は・・・。
伊豆の小豪族に過ぎなかった男。
25年かけて築いた地位が、今まさに崩れ去ろうとしている。
その間、わずかひと月。
(ドラマのプロローグより)
「鎌倉殿の起請文がないと、爺は死なないとならないのです」
執権の時政が実朝に頭を下げて懇願している。
「鎌倉殿、中に居るんだろう」
和田重盛が部屋の外で義村に聞いた。
「鎌倉殿は執権殿と二人して館の部屋にいる」
「鎌倉殿に出家して、直ちに平賀朝雅に鎌倉殿を譲れと迫っている」
「これは謀反だ。断じて許さん。太郎(泰時)、ついて来い」
外では義時が泰時に、厳しい口調で命令していた。
「小四郎が来たら、寝返るつもりだ」
部屋の中で義村が時政に冷めた口調で伝えた。
「なにをされておる。仔細はわからぬが、この方に刃を向けるとは許されねえ」
「鎌倉殿が起請文を書いてくれねえんだ」
「そんなもの、書いてしまえ!」
訳もわからず義盛は鎌倉殿に伝えた。
「なんとしても、鎌倉殿に起請文を書かせるのです・・・」
義盛と時政と激しく言い合っている。
「父上!館は既に囲まれている!今すぐ、鎌倉殿をお渡しください」
館の外から義時の大きな声がする。
「鎌倉殿に囲を解くように言いなさい。それでなくとも・・・」
りくは、時政に強い口調で攻めている。
「しかし、・・・」
「何を迷っているのです。このままでは攻め込まれて終わりです。生き残るためです」
「このような事を許すわけには行かない!」
「お前は口を挟まずに、そこで見ておれ。太郎、これがわしの覚悟だ」
「父上は、間違っている」
太郎(泰時)の父のやり方に抵抗している。
「いい加減に、わかってやれ」
八田知家が親子の間に割って入る。
「親だから許していたら、ご家人の全てが敵に回る」
「首を刎ねてしまうか」
八田が義時につぶやいた
「まず、鎌倉殿をお助けする。それからだ・・・」
時政はうろうろしている、観念したのか、じっと考えている。
「館はすっかり囲まれている。実は、小四郎に頼まれて此処にいる」
義村は時政に事実を伝えた。
「頼みがある。お前は鎌倉を離れろ。京の朝雅がいる。頼っていけ」
「四郎様は」
「わしは此処に残ります」
「鎌倉殿が側にいれば、手出しができぬ」
「りくは、平六(義村)が連れて行く。無事に逃げ延びたら、わしは鎌倉殿を差し出し降参する。頭を丸めて、小四郎に謝れば助けてくれる。ほとぼりが覚めれば、また会える日も来る」
「平六、後は頼んだ」
「りく殿のことは、お任せください」
「これを着てください」
と、義村は晴れ着から古着に着替えるよう準備した着物を渡した。
「私は京には参りません」
「あれを説き伏せるのは、ことだ」
表にいる義時に義村が言った。
「義盛、武衛とは親しみのある名前ではない。今はもう少し上になったので羽林という」
「羽林ですか」
義盛は納得がいったようだ。
御所ではりくは、尼御台に頭を下げている。
「夫は死ぬつもりでいます。事を進めるには自ら命を断つしかないと思っています」
「父は、そのように言ったのですか」
「言わずとも分かります。此度の頃はすべて私の企み。
四郎殿(時政)は私の言葉に従っただけです。悪いのは私です」
「こういうのは、どうだろう。小四郎が前から戦っている間に、後ろから鎌倉殿を助ける」
「鎌倉殿を危ない目に合わせたくない。執権殿も無理なことはしないはず」
名越の時政の館へ政子がやってきた。
「父上を助けてあげて!」
「鎌倉殿をお助けしたら、すぐに攻め込みます」
「親殺しの汚名を着ても良いのですか。
「太郎、尼御台をお連れしろ」
「頼朝様は同じ事をして来たけれど慈悲の心を持っていました。あなたも見ていたはずです」
「尼御台を、御所にお連れしろ」
「頃合いだな。鎌倉殿、此度は無理強いをしてしまい、申し訳ありませんでした。鎌倉殿の芯の強さに感服いたしました。いずれは頼朝様を超える鎌倉殿となられます。義盛お連れしろ」
「爺は参らないのですか」
「わしは此処でお別れです」
「参りましょう。羽林!」
義盛が鎌倉殿を外へ案内する。
「小四郎に言ってくれ。後は託したと。北条を、鎌倉をひっぱっていくのはお前だと」
「承知つかまった」
「鎌倉殿、お怪我はありませんか」
義時は
「大丈夫だ。母上もいらしていたのですか」
「ご無事で」
「執権殿は」
「覚悟を決めております」
「父上はなんと」
「・・・・・・」
「忘れたのか」
「北条と鎌倉をひっぱっていけと」
「娘として父の命乞いをしているのです。父上をお許しください」
周りの兵に膝まずいて政子は頼んだ。
兵たちもその言葉を受け入れた様子だった。
館の中では時政が、小刀を抜いて首に当てようとしている。
後ろから止める八田知家。
「息子でなくて悪かったな」
八田と見つめ合い、涙を流す時政。
「ただいま帰った」
鎌倉殿は無事に御所に戻った。
名越の館では丸坊主になった時政がいる。
実朝は時政の処遇は軽くしてやれと。手荒なことは一切されなかった。
自分は全て忘れようと考えている。
「頼む。私が乞うておるのだ」
「梶原景時、比企能員、畠山重忠、これまで謀反を企んだものを鵜と取られている」
なぜ北条だけ許されるのかと、大江広元が周りに語った。
「厳罰にすべきだ」
「それも手だ」
「誰もが認める案は」
「伊豆に帰っていただきましょう」
「息子として礼を述べる」
黙っていた義時は頭を下げる。
「では伊豆へ」
「伊豆か」
「もはやその土地で、ごゆっくり残りの人生をお過ごしください」
「りくはどうなる。あれがいれば、わしは幸せだ」
「小四郎、よう骨を折ってくれた。わしは首を刎ねられるところだった」
「感謝するなら、鎌倉殿、文官の方々へ」
しばらく沈黙があって。
「父上、小四郎は無念にございます。父上には、この先もずっと側に居て欲しかった。
頼朝様のお造りなられた鎌倉を父上とともに守って行きたかった。
父の背中を見て、此処までやって来ました。父上は常に私の前にいた」
「もういい」
「・・・・今生の別れにございます。父上が去るとき側にいられません。
父の手を握ってやる事をできません」
「あの声、何の鳥か知っているか。鶯だよ。ホーホケキョだと思っていたか。違うんだ。
オスがメスを口説くときにああ鳴くのだ。普段はチャチャと鳴く」
初代執権・北条時政は鎌倉を去る。彼が鎌倉に戻って来ることは二度とはない。
「これから伊豆に向かいます。私を殺そうとしたでしょう。安心なさい。
もう父上を焚き付けたりしないわ」
「あぁ悔しい、もう少しでてっぺんに立てたのに」
「義時は、なぜ執権に継がなかったのですか。大きな力があるのだから、
何を遠慮しているの、小四郎、いいですか。あなたはそこに立つ人。母からのはな向けのことば」
「父上と母上の思い、私が引き継ぎます。これは息子からのはな向けの言葉です」
「まず、手始めに平賀朝雅を殺す。実朝様になりかわり鎌倉殿の座を狙ったこと。
畠山重忠に罪をなすりつけたこと」
「それがなければ、畠山は命を捨てぬにすんだ。我が父は鎌倉を去ることはなかった」
「この義時、父時政に成り代わって、この鎌倉を守る」
(つづく)
【静岡伊豆国】
守山を中心に北条氏の本拠地があった。
【守山八幡宮】
北条氏ゆかりの願成就院の後方、北条の里の中心にある守山の中腹に鎮座する。
1180年(自称4年)には、源頼朝が源氏再興を祈願して挙兵している
拝殿(舞殿)
【願成就院】
「吾妻鏡」によると、北条政子の父で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のために建立したという。
寺の残る運慶作の諸仏はその3年前から作り始められており、北条氏の氏寺として創建されたものとして考えられている。
【北条時政の墓】
牧の方(後妻)と共謀して将軍・源実朝を亡き者にして娘婿の平賀朝雅を将軍に据えようと企てたことから子の義時と娘の政子によって出家させられ、伊豆国へ追放となった。
時政は晩年この地で過ごし、1215年(建保3年)1月6日、北条の地で亡くなった。
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【建長寺】
正式名は「巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)。
源氏3代、北条一族を弔らうために。5代執権の北条時頼によって創建された。
鎌倉時代に鎌倉幕府の実権を握った北条氏は、鎌倉時代前期に北鎌倉(山内荘)の所領を得た。
現在、北鎌倉一円には北条氏ゆかりの禅寺がまとまっている。
時政、義時が育んだ禅の心、中世の面影が今に継がれている。
総門
山門
鐘楼
建長寺創建当時より残る貴重な鐘。
北条時頼公の発願により鋳造された。
仏殿
法殿
【浄光明寺】
建長寺から亀ヶ谷坂を越えて、10分ほど扇が谷へ下って、
線路沿いに鎌倉駅方面に歩くと、しばらくする浄光明寺の案内板があり、
奥まった路地を入ると、この寺がある。
私にとって初めて訪ねる寺である。
浄光明寺(真言宗泉涌寺派)は源頼朝が文覚に建てさせた堂がその始まりでとも、
頼朝の子と言われる島津忠久が建てた寺が、その始まりとも言われる。
北条長時(のちの6代執権)が開山に真亞を招いて再興し、浄光明寺とした。
【円覚寺】
鎌倉時代後半、時の執権・北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により、
円覚寺は開かれた。
開基である時宗公は18歳で執権職につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依していた。
蒙古襲来による殉死者を敵味方なく平等に弔らうために円覚寺の建立を発願された。
総門
山門
仏殿
舎利殿
鎌倉時代の尼寺・太平寺より移築された。実朝公がゆかりの場所。
彿日庵・開基廟
円覚寺の開基、北条時宗、その子で9代執権・貞時公、孫の14代執権・高時公をお祀りしている。
【龍隠庵】
龍隠庵(りょういんあん)は、102世大雅省音(たいがしょういん)の塔所。
本尊は聖観音。137世・芳隠省菊によって開かれた。
最近、仏殿の近くに龍隠庵と言う小高い場所を見つけた。
高台から大方丈や仏殿の屋根を眺めるのが好きだ。
妙に落ち着いた気持ちになれる。
【白鷺池(びゃくろいけ)】
円覚寺開山の無学祖元(仏光国師)が白鷺に姿を変えた鶴岡八幡宮の神霊に、
導かれた場所がこの池だったと伝えられている。
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畠山粛清が招いた反発の嵐。
権力を奪われた時政の反撃は。
争いを勝ち抜いてきた北条家が二つに割れる。
(ドラマのプロローグによる)
政子、大江広元らと新体制を始動させた義時が泰時を自身のそばに置き、
強い覚悟で父・北条時政と向き合う。
一方、時政を蚊帳の外に置かれ憤慨するりくは、娘婿・平賀朝雅を担いで、
対抗することを画策。
三浦義村を誘い、反撃の狼煙をあげる。北条家内の対立が激化する中、
実朝は和田義盛の館へ……。
「何故、わしを評議に呼ばん」
時政が評定の席に乗り込んで怒りに満ちて言った。
「私が止めました」
義時が制するように言葉を挟んだ。
「執権の私が裁く」
時政は続けた。
「訴状は、すべて尼御台に届いたものです」
大江広元が遮って言った。
「尼御台が恩賞を賜って、ご家人たちの空気が変わりました」
「このことは鎌倉殿も、お認めになっておられます」
広元の説明で時政は席を蹴って出て行った。
二階堂行政を呼んで時政が命じた。
「高野山の此度の檄状はわしの名で書け。尼御台は檄状には関わりがない」
二階堂の注進で事情を知った義時は、
「父上の此度の檄状は退ける」
「小四郎を懲らしめてやりましょう。ここは正念場でございます」
「この鎌倉を治めるのは、我が夫・執権殿ですぞ」
りくの憤慨はとまらない。
「もう父を振り回すのはおやめなさい!」
政子はキツくりくに言い渡した。
「二階堂から届きました。これをもって最後にしてほしい。これ以上は尼御台が、すべて裁きます」
「父に向かって、よう言うな」
「父だから言うのです。もし、逆らえば、最後は景時、重忠のような道を歩くことになります」
「だんだん、頼朝様に似てきたな」
「お褒めの言葉として受け取ります」
時政に対して義時は諭すように言った・
京から鎌倉殿のお付き役に阿野時元が呼ばれた。
「江間泰時はどうした」
「お役替えされて小四郎の元へ。兄のたっての願いとの事」
時房が実朝の疑問に答えた。
泰時は義時の仕事を学ぶことになった。
政子の政が始まった。
政子の証文はひらがなだけで書かれている。
「しかし、ひらがなばかりで良いのだろうか」
「これこそ、尼御台の証といえましょう」
「大江殿、これからはそちらで書いてください」
「では、これからひらがなで書くことにいたします」
以降は文官の広元が書くことになった。
「この先、執権殿はどうなりますか」
「既に執権殿は御家人の心は離れていると分かっているはずだ」
りくは時政に重ねて思いを伝えている。
「実朝様には鎌倉殿を降りていただくことに」
「政子殿から力を奪うのです。そうすれば鎌倉殿の祖父と祖母になる」
これは成り行きによれば政子、小四郎を討つ事につながるとなる。
「そのご覚悟はおありですね。きっと政範が見守っています。やり遂げてください」
りくは念を押して時政に迫ったが、時政はもう一つ乗り切らない。
「三浦がつけば和田もついて来ます」
「善哉が鎌倉殿に。元服するまでは平賀朝雅がその座に・・・」
「ようやく鎌倉はあなたのものに…。りくは傲慢でございます」
「よう分かった」
時政は観念したように返事を返した。
りくの描いた案を時政は、三浦に相談する。
鎌倉殿は今日にも和田館に向かうはず。
そこが狙い目だ。
「夜までにやっておきたいことがある。ちょっと出てくる」
時政は館を出て行った。
義村が義時と会っている。
「父上も愚かなことを考えたものだ。それにしても平賀とは。よく裏切ってくれて礼を言う」
「執権殿は嘘をついた。平賀殿が鎌倉殿になれば、善哉の目はない」
「平六(義村)、このことを知らなかったことにしてくれ。父上の言われた通りに…」
義村は義時の言葉に相槌を打つ。
「これで父上には、明らかな謀反人に…」
尼御台と義時のいる御所へ時政がやって来た。
「宇治から美味い酒が届いた。久しぶりに皆で飲もうではないか。実衣にも声をかけたぞ」
「どう言うつもり」と政子と義時は首を傾げた。
いきなり時政が、
「オンブレンビンバ」と発した。
「なんて言っていた」
「忘れたのか。大姫が唱えると良いことがやってくるといっていた」
「私覚えている。ウンダラホンダラゲー」
政子が続いた。
「ピンタラポンチンガー」
次に義時が唱えた。
「ウンタラプンコンカ。全成殿がいてくれたら。ポンダラプンソワカー」
実衣が続いた。
「ポンタラプーソワカー」「ポンタラプーソワカー」「ポンタラプーソワカー」
そうだそうだと全員で合唱のように唱え始めた。
詳しくは「オンタラクソワカ」とナレーションがあった。
「父上の楽しそうな顔を久々に見ました」
政子が聞いた。
「母上は呼ばなくて、よろしいのですか」
「今日は、あいつはいいんだ」
義時の問いに時政は答えた。
庭に畑があり、茄子が植えてある。
「昔を懐かしんで、小さな畑を作ってみました。茄子の苗」
政子が時政に説明した。
「茄子の苗は、もっと間を開けるのだ。拳二つ分開けるのだ。見ていないで手伝え」
久々に家族が一緒になって畑作りを楽しんでいる。
時政も満足した表情でみんなを眺めていた。
「本日もお越しいただきありがとうございました」
巴が実朝に見送りの言葉を言った。
和田館の帰りがけの実朝に義盛は続けて、
「鎌倉殿のことを、親しみを込めて武衛(ぶえい)と呼んでも良いですか」
和田館は和田の賑やかな会話に実朝も楽しんでいた。
「そうだそうだ、みんな武衛でもなんでも良い。そのへんでやめておけ」
三浦義村が和田館に御家人たちとやって来た。
「八田殿、この先は三浦がお連れします。執権殿がひどく心配されておられます。参りましょう」
と言い実朝を伴って館を出て行った。
「どうも、引っかかる」
八田はつぶやいた。
「一行は御所に戻らず別の方角に向かった」
八田の報告が伝わった。
「ヒョとして名越の方へ。名越には父上の館があります」
「兵を出す」
義時が思い立って宣言した。
「いったい何が起こっているのですか」
泰時が怪訝な表情で父に尋ねた。
「我が北条館にようこそお越しくださいました」
時政が顔を出し挨拶をした。
「これは、どう言うことか」
実朝は怪訝そうな顔で尋ねた。
「三浦から知らせがありました。鎌倉殿は北条館で父上に押し込められています」
時房が義時に伝えている。
「こんな企てはむごすぎます。父上はなぜ気が付かないのですか」
政子は不思議そうに義時に聞いた。
「昼間、なぜ父上が我々のところへ来たのか」
「父上はお別れに来たのです。ことと次第では私たちが殺すつもりです」
「いや、父上は分かっておるはずです。この企てがうまく行かぬことを見越しておられる」
「りく殿の言う通り、事にあたれば必ず行き詰まる。そして父上はあえてその道を選ばれた」
「どうするつもりなの。あなたのことを聞いているのですよ」
政子は、義時にきつく当たった。
義時は固い決意で動き始めた。
「太郎(泰時)、お前をそばに置いたのは、父の覚悟を知ってもらうためだ」
泰時は静かに義時の言葉を受け止めている。
「此度の父の振る舞い、決して許すことはできない」
「執権時政謀反の件、これから討ち取る。太郎ついて来い」
政子は呆然として義時を見送っている。
「書くことはできない」
「お願いいたしまする。出来ぬという事になれば、この爺は死ななければならぬ」
「では、なんと書けば…」
「速やかに出家し、鎌倉殿の座を平賀朝雅殿に譲ると」
「小四郎に相談したい。母上にも相談したい」
「なりません!」
「ならば書けぬ」
その言葉に時政は刀を抜いた。
(つづく)
鎌倉は北条家のゆかりの寺がたくさんある。
【建長寺】
【浄光明寺】
【円覚寺】
久しぶりに「ゆかりの地」は地元鎌倉。
ゆっくり散策してみよう。
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鎌倉の人気イラストレーターの個展が、地元鎌倉山で9月中旬に行われていた。
早速初日に、我が家から徒歩で七里ヶ浜の坂を登り、
広町緑地公園鎌倉山口から小径を上がっていくと会場の「ギャラリー招山」がある。
わずか40分の徒歩だった。
広いベランダからは南斜面の下には七里ヶ浜の住宅地、左右には緑の木々、
その先には広い海と青い空が見える素敵な建物だ。
個展の主役はかおかおパンダさん。昨年に続いての個展のテーマは「イキするように」。
イキをするように、自然なことで、ありたいな。
会場には大小の絵が飾られている。
会場の真ん中には、マックロに日焼けしたニコニコ顔の、いつものかおかおさんが居た。
絵葉書、スタンプ、トートバッグなどのグッズも販売している。
私は色違いのトートバッグをゲットした。
今回展示されている作品の2/3は、今回の個展用に新しく描いたと本人から聞いた。
かおかおパンダさんは札幌生まれのイラストレーターで、大好きなサーフィンをするために20年前に鎌倉に移住した。鎌倉市営プールの壁画や、江ノ電100周年記念企画で各駅に書いた「看板アート」、車メーカーの車体ペイント、有名メーカーのチョコレート限定パッケージも手がけていた。
私が(かおかおさん)を知ったのは、毎朝の海辺のウォーキングで、
鎌倉市民プールの壁に描かれた一枚のリンゴのある風景の絵だった。
134号線側から見ると手前の実物の木の枝に一つのリンゴがなっている。
不思議な感覚だった。
よく見るとKAKAOPANDAとサインがあった。初めて知る名前だった。
2013年9月のことだった。その壁画は2005年7月15日に描かれたものだ。
早速、このブログにそのことを書いた。
初めて本人に会ったのが2019年秋に江ノ島の洲鼻通りの小さなギャリーで個展をしているところを、
偶然にお会いして、市民プールの一件をお話ししてツーショットをお願いした。
次にお会いした時は観光庁の観光活性化計画の一環で湘南モノレールのラッピング車両の
イラストを誰にお願いしようかと考えていた時だった。
その時の模様を「鎌倉経済新聞」が記事にしている。
ラッピング車両を企画したのは「鎌倉農泊協議会」という団体。
「大きな車両に描くのは、活動のイメージが伝わりやすいシンプルなイラストがいいと思っていた」
と振り返るのは、同協議会の間宮武美さん。
いったんは多忙を理由に断られたものの、3回目の訪問で引き受けてもらった。
かおかおパンダさんは
「よりダイナミックに見せようと、ドアや窓、連結部をまたぐ部分でキャラクターの表情に、
影響が出ないように全体の比率や角度、バランスを考えるのが大変だった」
と振り返る。
こんな経緯で昨年末から2月中旬までラッピング車両が大船から湘南江ノ島まで何往復もしたことは、
このブログでも紹介している。
私も広告会社を引退して、久しぶりに地元でそのプロデュース力を発揮したのだ。
ギャラリー招山の個展は2度の週末を襲った台風に悩まされた。
まず3日目、4日目は会場を完全にcloseにした。
2度目の台風は夜半のうちに去ったので個展には影響が少なかった。
最後の週末は好天に恵まれたので、たくさんのファンの方の訪問があったと伺っている。
かおかおさんは10月10日に鎌倉インテルが開催する、
湘南深沢の鳩スタ1周年記念イベントで、1日ワークショップで参加する。
今回の個展でも小さな子供が第2のカオカオ目指してワークショップに参加していた。
今後のかおかおパンダさんの地元鎌倉での更なる活躍を、傍らで期待している今日この頃だ。
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大河ドラマ第36話で畠山重忠が時政の謀事で、深谷の菅谷館を出立し鎌倉へ上がる途中、
鶴ヶ峰周辺で義時率いる2万騎の兵に対し僅かな兵で戦い、義時と一騎討ちのうえ討死した。
その地は「万騎が原」という地名に変えられた。
確かに重忠が立て篭もった鶴ヶ峰は、当時から周囲を見下ろす地形で、
ここ来て見て分かったが、義時の軍勢の動きを、上から全て把握できる地形と実感した。
まず相鉄線の「鶴ヶ峰駅」で下車、旭区役所へ行き参考に資料をいただく。
首塚と首洗い井戸は区役所の脇にあり、すぐ分かった。
どこにも目印になる鎌倉殿の13人「ゆかりの地」の旗はどこにもない。
今日の6箇所のゆかりの地は地図と地元の親切な方々に聞いてたどり着いた。
武蔵国の畠山重忠が命を落とした「地」の割にPRに欠けていると感じた。
【首塚】
重忠の首が祀られていた所。やや小さめの高い所にあり、「首塚」と書かれた標柱が目印。
現在は西向きだが、昔は南を向いていたようだ。
【首洗い井戸】
二俣川の地で最後を遂げた重忠の首を洗ったと伝えられる。
以前は直径1mほどの穴があって水が沸いていたというが、
帷子川の流れが変わってしまい失われたという。
【重忠公碑(古戦場跡)】
畠山重忠没後750年を記念して鶴ヶ峰と深谷の有志により建立された。
碑は水道道が厚木街道と横断する交差点の見晴らしの良い場所に立っている。
区役所からも歩いて2分の場所だ。
【さかさ矢竹】
重忠が矢に当たった時に「我が心正しければ、この矢に枝葉を生じ繁茂させよ」と言い、
2本の矢を地面に突き立てた。この矢が根付き、毎年2本ずつ増えてしげり続けたと言われる。
【薬王寺】【六ツ塚】
16号号線を渡り更に住宅街の坂道を登っていくと突き当たりを左に200mほど先に薬王寺がある。
薬王寺は重忠の霊を祀る霊堂だ。
庭内には重忠はじめ、一族郎党134騎を祀る6つの塚がある。
【駕籠塚】
薬王寺から徒歩約10分離れた丘の上に重忠の妻「菊の前」は、合戦の連絡を受けて、
急ぎ駆けつけた。しかし、この地で重忠戦死を聞いて悲しみ自害した。
この場所に駕籠ごと埋葬されたと言われている。
一旦、相鉄線に乗り一つ先の「二俣川駅」へ移る。
【重忠公遺烈碑】【万騎が原】
明治25年に地元の有志57人により建立された石碑だ。
この地は「牧が原」と言われていたが、
この付近で重忠が北条氏の2万騎に敗れたところから、
現在の漢字が当てられるようになった。
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頼朝死後の熾烈な権力争い。
それを制した北条が全てを手にしたかに見えた。
しかし、その権力に屈しない男がいる。
(ドラマのプロローグより)
深まる北条時政と畠山重忠との対立。
りくを信じる時政は実朝の下文(花押)を得て御家人たちを集めた。
三浦義村、和田義盛、稲毛重成らが集まり対応をして協議する。
一方、手勢を率いて鎌倉を目指す重忠。
板挟みとなった義時は政子、時房らと事態の収集を図る。
「驚きました、なぜ畠山が鎌倉殿に反旗を」
「よう分からん、あいつは武蔵で兵を整えている。鎌倉を守るために畠山一族を滅ぼす」
時政は、思うようになっていることに勢いよく大声で御家人たちに訴えた。
「三浦一門あげて、討ちます」
義村が重ねて言い放った。
和田義盛は、この流れに逆らって、困ったように反対の意を唱えるが、
三浦義村などから、全く受け入れられない。
「まず鎌倉にいる重保を、うまく話して由比ヶ浜に呼び寄せろ」
重保に疑われないように稲毛重成が、その任を受けた。
守備よく運んだら重成に武蔵の国を与えると時政に言い含まれた。
「では、鎌倉殿は、すでに畠山の追討を命じられたのか」
詳しい経過を知らされていない義時が時房に確かめるように聞いた。
「どうして、そういうことになるのだ!!」
義時は声を荒げて怒った。
「鎌倉殿は、父上に、押し切られたと・・・」
武蔵国、畠山重忠の館では鎌倉へ向かって出立の準備をしている。
「畠山は謀反を企んでいるのです」
実衣が実朝に伝えた。
「謀反の証拠は、どこにもありません」
義時が実朝に報告している
「取り下げるわけには、行かないか」
実朝は義時に尋ねた。
「そういうことは、鎌倉殿のご一心に傷がつきます」
「重忠には小さい頃から世話になった。決して殺してはならぬ」
実朝は困ったような表情で義時に伝えた。
由比ヶ浜に嫡男の重保が家人とともに姿を表した。
浜には稲毛重成たちが待ち受けている。
「謀反人が浜に集まっていると聞いたが」
重保が稲毛に尋ねると、そばにいた義村が重保に対して、
「謀反人とは、お前たちのことだ」
「なんだと」
「歯向かわなければ命は取らぬ」
「計ったな」
「畠山は、すでに鶴ヶ峰に移り陣を敷いた」
「そこは高台で敵を迎え撃つには絶好の地だ」
「今の手勢で戦うつもりか」
時政が、さすが畠山と認める。
「あいつは、死ぬ気だ」
「こちらが、本腰を入れるしか、なさそうだ」
義村が確信を持っていった。
「父上、お願いがございます。私を大将にしてはいただけなでしょうか」
義時が思い余って時政に訴えた。
「私は戦にはしない!」
義時は義村の質問に強い気持ちで答えた。
「小四郎、畠山が本当に謀反を企んでいたのですか?」
政子は小四郎に尋ねた。
「父上が言っているに過ぎない。根拠はないが、執権がそう言う以上、従わなければならないのです」
「姉上、いずれ、腹を決めて頂く時が・・・。政を正しくできぬものが上に立つ。あってはならないのです。その時は誰かが正すしかありません」
「何をする気」
「これまでと同じことをするしかありません」
義時の陣は敵からはこちらの動きが丸見えになっている。
「次郎(重忠)は、ハナから逃げる気はない」
和田義盛が畠山に戦いをやめるよう説得する役目を受けた。
鶴ヶ峰の高台で義盛と重忠が二人きりで話を始めた。
「お前さ、いい年して、やけにならないでさ」
交わされた瓢箪の中身は水だった。
「戦の中で酒はどうも、そぐわない」
と重忠は義盛に瓢箪を渡した。
(これは二人の間では、いわゆる水盃だったに違いない)
「今の鎌倉は北条のやりたい放題」と空を見つめるように呟いた。
「戦など、誰がしたいと思うか!」
と声を荒げた。間をおいて落ち着いて重忠は続けた。
「しかし、このまま退けば、畠山は北条に屈した臆病者として謗りを受ける」
「最後の一人になるまで戦い抜き、畠山の名を歴史に刻むことにした。
もはや、今の鎌倉で生きていく事は望まない」
「命を惜しんで生き延びても、末代までの恥。
「その心意気、あっぱれ!あとは正々堂々と戦で決着をつけよう」
和田義盛は陣に戻った。
「これより謀反人、畠山重忠を討つ!」
大将の義時が義盛の報告を聞いて、じっくり考えて宣言した。
和田が提案した別に傍から攻める戦法は、畠山に見破られている。
戦の火蓋が開かれた。
兵の数が違うが、北条の御家人の多くは畠山の潔白を信じている。
この戦、どう転ぶか分からない。
畠山が馬に跨り、一人敵陣に乗り込んでくる。
義時と重忠の一騎討ちになる。
刀と刀が火花を散らす。
まず義時が兜を泰時に預けた。
続いて重忠は、兜を取り地面に投げた。
馬上の重忠に飛びかかる義時。
二人とも地面に転がり、叩きつけられように落ちる。
北条の兵たちが二人の大将を囲む。
三浦義村が大声で兵の動きを制した。
「誰も手を出してはならぬ!」
小刀を抜き、立ち向かう二人。
取り囲む兵士の輪の中で、取っ組み合い、殴り合い、蹴飛ばし合う。
くんずほづれず、激しい戦いが続く。
義時に馬乗りになる重忠。
義時の小刀と重忠の小刀が、相手を刺すように動いた。
横たわる義時、
ふらふらとうつろに馬に向かって歩く重忠。
馬に跨り、大きく空を仰ぐ重忠。
北条の輪を抜けて、ゆっくりと去る。
戦は夕方には終わる。
「畠山重の謀反、無事に鎮めました」
御所で時政が実朝に報告している。
重忠は手負のところ、愛甲季隆が仕留めました。
「ご苦労であった」
「まもなく首が届きます」
首桶を手に時政の前に義時が現れた。
「次郎は、決して逃げなかった。逃げる謂れがないからだ。決して兵を集める事はしなかった。
戦う謂れがなかったからだ。次郎のしたかった事は、己の誇りを守ることのみ」
「改めていただきたい。あなたの目で。執権をお続けになるには、首を自身で改めるべきだ!」
強い口調で義時は迫った。
「御家人のほとんどは畠山に非はないと・・・わかっている」
「罪は執権殿に向かいます」
「畠山の死を、御家人の怒りを、誰か他のものに押し付けるしか・・・」
「例えば誰に」
「重成?」
時政は首を傾げた。
「ここは全てを被っていただきます。執権を守るためには、それしかないと」
「執権殿が全てを受け止めていただくしかない」
「仕方ない、死んでもらうか」
稲毛重成が発端という理屈が触れ回った。
執権に有る事無い事吹き込んで武蔵国を手に入れるために。
あいつは執権殿の娘婿だ。
「理不尽?これ位の事をしないと事は動かない」
義時は時房に説明した。
「平六(義村)を呼べ、あいつにやらせる。わしに隠れて、こそこそやったからだ」
「執権が殺せと命じた」
三浦義村が答えた。
稲毛重成は処刑された。
「武蔵国の所領は、此度の戦に働いた者に分け与える」
時政は御家人の前で伝えた。
「尼御台にお願いがあります。所領を分け与える。今こそ尼御台の力が必要です」
「それで、ことが収まるのなら。稲毛殿が亡くなったそうですね。
貴方が命じたのですか。命じたのは執権?なぜ、止めなかった」
「私が、そうするようお薦めしたのです。これで執権殿は御家人たちの信を失いました」
「執権殿がこのままおられる限り、鎌倉はいずれ立ち行きができなくなります。
此度のことは父上が政から退いてもらうためのこと。重忠殿は、そのための捨て石と」
義時は、トツトツと説明を続けた。
「小四郎、恐ろしい人になりましたね」
「すべて、頼朝様に教えをいただいた事です」
「その先は貴方が執権に?」
「私はやらない。そのために父を追いやったと思われます」
「私が引き受けるしかありませんね」
政子は全て理解した。
「この度のことは、全て私の責任。私は未熟だ」
実朝は静かに義時に言った。
「訴状に名を連ねた御家人の数は梶原殿の比ではない。少々度が過ぎましたね」
「小四郎、わしを嵌めたな」
「ご安心ください、これはななかったことに。あとは我らでなんとかします。
執権殿はしばらく謹んで欲しい」
義時は訴状を目の前で破き捨てた。
「恩賞の沙汰はやらせてもらうぞ」
時政は抵抗して義時に返した。
「すべてはご自分のまかれた種と思ってください」
「うはっはは!やりおったな!見事じゃ小四郎」
時政は諦めて笑った。
政子の計らいにより勲功のあった御家人たちへ恩賞が与えられた。
(つづく)
【神奈川県横浜市】
【鶴ヶ峰二俣川合戦の地】
【万騎が原】
【万騎が原にある畠山重忠公遺烈碑】
【薬王寺】
いずれのゆかりの地は近郊です。
来週までに特別版で取材します。
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鎌倉市には教養センターというシニアのための施設がある。
深沢地区の中心で周辺は閑静な住宅地と山林に囲まれて、大変静かな場所にある。
生涯学習機能を持ち、100名の大教室や陶芸窯が完備され、
講座やサークル活動に多くの市民が利用している。
一般教養講座、専門講座と二つのコースが準備されている。
一般教養講座:春夏秋冬に歴史、文学、美術、経済、自然、健康などの
幅広い分野の講座を開講している。
一般教養講座・秋期分の全8講座の中で第1回目の講座を行った。
強いて言えば経済の中で広告文化を語るということでの講演になった。
「広報かまくら」の掲載条件で、講演タイトルは主題、副題とも10字以内と決まっている。
「あの人気CMの舞台裏」=チャンスに変えた一言=
「ピンチをチャンスに変えたあの人の言葉」にしたかったのだが。
このタイトルを拙著『僕たちの広告時代』のエッセンスを2時間にまとめた。
「今日は、こんなに晴れてよかったですね。実は僕は“晴れ男”なんです」と言い、
「緑の風に吹かれて、爽やかな気持ちで、みなさんは、この会場へいらした」
「最後は楽しい気分でお帰りいただけるよう、楽しい話題満載でお楽しみいただけるよう頑張ります」
私は野球少年でした。
受験校の高校では1年からサードのレギュラーで野球どっぷりの高校生活。
2年浪人して大学へ。サードだけで20人もいそうな野球部。
神宮球場のグランドに立つのは無理。
そこで放送研究会でラジオドラマのシナリオを書くことにした。
3年生の時、部を代表して「太鼓よ響け」を制作、演出し、東京大会から全国大会へ。
野球で果たせなかった甲子園だった。
このことが広告業界へ入った理由だった。
この後、本題に入った。
●カンビール広告の誕生秘話
●忘れられないあの人のセリフ
途中で10分のCM紹介を挟んで2時間、参加者たちの目を見ながら話し続けた。
「インタネット元年」
社会人になってから50年余。
真中に1995年のWindows95の導入があり、アナログ時代からデジタル時代に変わった。
アナログ時代のface to faceの大事さを、具体的な事例で紹介した。
「あんたが主役」
若き加山雄三を囲み、大関アサヒ国、関脇キリン児が「あんたが主役」と持ち上げる。
ユーモアあふれる挑戦広告が若い主婦層に受けた。
「瓶からカンへ」
「瓶からカン」をスタッフの間の合言葉に、缶ビール広告の挑戦が始まった。
キリン戦略と異なる都会派の若者対象に絞った戦略に切り替えた。
振り子の原理だ。
「ペンギンキャラクターの登場」
CMで松田聖子が英語で歌った「スィートメモリーズ」
「ペンギンズメモリー幸福物語」
1時間20分の長編映画にもなった。最後までドキドキハラハラ。
制作コーディネーターとして映画界と戦った。
第2部は、
「忘れられない。あの人のあの話。ピンチをチャンスに変えた“ひとこと”
「100歩歩いて、また100歩走る」
新入社員を代表して辞令を受けて、挨拶を行った。
元勤務先の旭通信社(現:ADK)の社長・稲垣正夫さんのホノルルマラソンの完走の秘訣。
博報堂へ移って20年後にホノルルで一緒だった
業界の他人を気にせず昔の関係に戻り、何回もお会いした。
「30キロが壁。乗り越えるためには100歩歩いて・・・」
この言葉はマラソンの攻略法だけではなく、仕事のピンチを乗り越える言葉。
または人生のピンチにも当てはまる言葉として、いまでも大事にしている。
「演歌は無理でしょう。ポップスならば…」『冬のリビエラ』誕生
大原麗子さんとスタジオの片隅で手が空いている二人のお弁当タイム。
「そうだ主人をサントリーのCMに起用して」と頼まれて答えた一言。
結果、ポップス演歌が生まれた。
これで歌手、森進一さんは新境地を開いた。
「ブレスレットを買うお金はあるのかい?」渥美清さんの答えだった。
サントリービールのシェアが上昇し、「寅さんと出演交渉を・・・」トップの声だ。
寅さんの衣装を着た渥美さんの企画を持って、松竹大船撮影所へ。
1度目は簡単に断られた。
寅さんは山田監督の作品で、私ではない。ハイ、残念でした。
2度目は真っ白な帽子に白い上下の服でコンテを説明。
「ジュリーになってください」演出の高杉さんの一言。
じっとコンテを見ていた渥美さんの第一声が上の言葉。
亡くなる前までの7年間、仕事の他に個人的なお付き合いが続いた。
「Mr.マミヤ、じゃあピアノ弾くよ」 リチャード・ギアさん
日本航空のワシントン線就航のCM。
知人が「リチャード・ギアが日本の広告に出ても良い」の一言で、
4社コンペに勝利した。
「プリティーウーマン」の主役の青年実業家の姿に、
「これは映画の話で、私とは違う」
ロサンジェルスの事務所でコンテはNOと。私はこのままでは日本に帰れない。
一緒に考えてください。懇願する私への一言。じっと考えて一言。
以上の例は、講演のごく一部分の例だ。
このほか、黒田征太郎さん、椎名誠さん、倍賞千恵子さん、薬師丸ひろ子のプロデューサーの一言。
宣伝部長の一言、業界の仲間たちの一言。
スペースの関係で説明しきれない。
ちなみに「教養センター」の施設を説明しましょう。
大教室(100人収容)
玄関ホール
陶芸コーナー
図書コーナー
食事テーブル
大広間
実は2009年5月11日、13年前に「歩いて見つけた、新しい生き方」というタイトルで、
鎌倉―ソウル徒歩の旅をテーマに講演した。
コロナ禍のだいぶ前で、100人が満席状態、ぎっしり座っている。
今回は感染対策で、座席は一人おき、講師の私もマスクをして話している。
2時間の講演は宣伝会議の2時間講義とは違い、私自身も楽しんで話ができる。
大袈裟に言えば、人生を振り返り、ある種、人生の棚卸しのような作業だ。
現在は「鎌倉農泊協議会」という鎌倉のプロジェクトで鎌倉の観光活性化のために活動中。
8月に誕生日を迎え、また1歳年齢を重ねた。
今までは「元気高齢者」として、フルに活動をしてきた。
これからは、元気に「好奇高齢者」として、“新しい生き方”を考えて行動していきたい。
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実朝の婚礼が近づく。
その陰で、時政とりくは息子を失っていた。
不可解な死の真相を巡り、駆け引きが始まる。
(ドラマのプロローグより)
実朝は御所の御台所の前に和歌の師、三好泰信といる。
「みちすがら ふじのけぶりもわかざりき はるるまもなき そらのけしきに」
和歌集の中で一番好きな歌を、実朝は政子に誰の歌かと尋ねている。
「あなたの父上の歌ですよ」
巻狩の間、ずっと天気が悪く最後に雲が晴れた様子を歌ったのだ。
「鎌倉殿も、ご自分の思いを歌にしてみては如何ですか」
政子は実朝に和歌のたしなみを伝えていた。
義時の妻のえが、義時の食事の相手をしている。
「実朝さまは、早くお子作りに励まれると良いのですが」
「のえ、子が欲しいか」
義時がのえに訪ねている。
「欲しくないと言えば、嘘になります」
「小四郎さまには太郎さまがおいでになる。それで満足です」
廊下での縁側で二階堂行政に対して、
「満足であるはずがありません。私が産んで北条の家督にします。
それなくてはあんな辛気臭い男に一緒になりません」
それを立聞きした、泰時は妻のはつに、
「裏の顔を知ってしました」
「父上は、どうして、あのようなおなごを嫁とられたのか」
太郎は複雑な気持ちにかられている。
実朝の御台、後鳥羽上皇の従姉妹の千世が鎌倉に着いた。
息子の政範が御台を御所に案内するはずだったと、りくは暗い顔をしている。
千世が祝言の席についている。実朝は盃を干すのを躊躇している。
「鎌倉殿、召し上がって良いのですよ」
「無事、千世様を京より鎌倉へお連れできました」
「出かける時は、あのように元気だったのに残念である」
大江広元が残念がった。
「実は、そのことで息子の重保から話したいことがある」
畠山重忠が皆に計った。
「実は前の晩に聞いてしまったのです」と、
「これを汁に溶かせば良いのか。味を気がつかれないか」
「味はございません」
「平賀朝雅が毒を盛ったと」
義時が聞き直した。
重保が平賀に問い質した。
「バカをもうせ、見当違いだ」
「ではあの夜のやりとりはなんですか」
「私は味付けの係りだ、何か問題があるのか。畠山殿、人に話すとご自分の正気を疑われると」
と平賀は嘯いた。
「あれは平賀が酒に毒をもったと」
「よくぞ言ってくれた。ありがたい」
義時は重保に礼を言った。
政範の死について、嫌な噂が流れた。
平賀がりくに、言い訳と畠山を討つべきと、けしかけている。
「誰がやったか?畠山重忠が・・・。畠山が私、平賀を下手人にして言いふれている」
義時は平賀に対峙して言った。
「夏ならともかく、この季節なら京から鎌倉へ連れて帰れる。なぜすぐ埋めた」
毒をもると顔が浮腫むと言われているからだ。
「畠山を討つ。力を貸してくれ」
時政が義時にいう。
「鎌倉では、鎌倉殿の命がなくては勝手に動く事はできません」
息子の時房が、
「父上、母上に振り回されているのは止めて欲しい。息子としては恥ずかしゅうございます」
義時は義村に妻のえを紹介している。
「出来たおなごだ。惚れているのか。それならば良いか」
「手に飯粒がついていた。握りを食べながら裁縫をする奴がいるか」
「政範は、死んでいません。私の中で生きています。畠山を討つ?そのような話があるのですか」
りくは、政子の話をはぐらかしている。
畠山重忠は息子の重保と平賀朝雅を対峙させれば、明白になると義時に主張する。
「平賀朝雅は京へ戻っています」
「それが嘘を言っている証拠、後ろめたいから逃げた」
「確かに平賀が怪しい。京には上皇がいる。京を敵には出来ない」
「一旦、武蔵に帰る」と畠山。
「一度、誤れば戰になる」と義時。
「私とて鎌倉を灰にはしたくない」
重忠は言い置いて、館を出て行った。
「また来てくださいと言ったが、本当においでになるとは」
「ここに来ると、不思議と心が落ち着く」
実朝が義盛に呟いた。
義盛は若者たちに、そう言って歓待している。
「和田義盛とは気兼ねなく話ができる」
「よく言われます。すこしは羽目を外した方がいいのだ」」
「食い終わったら、面白いところへお連れしましょう」
義盛は実朝、泰時、鶴丸を歩き巫女の居所へ案内した。
「お婆婆、また来たぞ」
「また、お前か」
「今日は若いのを連れてきた」
「このお婆婆は歩き巫女、よく当たるのだ」
「この中に一月、体を洗っていない者がいるな」
「わしのことだ。よく当たる」
「これって占いなのでしょうか」
泰時が不安がって聞いた。
お婆婆は祈りながら、榊の葉に水を浸しては振っている。
「お前、双六、苦手だろう」
巫女は泰時に向かって言い放つ。
「雪の日は出歩くな!災いが待っている」
「誰も出歩かないだろう」
義盛がつぶやいた。
実朝は婆婆の一言、一言をじっと聞いている。
「お前の悩みは、お一人のものではない」
「悩みというのは、そういうものじゃ」
「お前一人のことではないのだ。どうだ、霧が晴れたか」
「今日は、なんじゃ」
「畠山は頼朝に仕えて、これまで懸命に鎌倉を必死になって守って来た」
政範がなくなったのは畠山が疑われている。
他に命を守る狙った者がいる
「それは誰じゃ」
「たとえば、平賀朝雅」
「誰よりも疑わしいのは、あの男です」
と義時は時政に訴えた。
「根拠のない話だ、動機がない」
「政範殿をなきものして、次の執権は平賀」
義時は、畠山討伐を早まらないで欲しいと時政に迫った。
「はいわかった」
「畠山、討伐は待っていただきますね」
義時は時政に懇願した。
「それで、帰ってきたのですか」
りくは、時政に向かって、怒って言った。
「北条が全て武蔵を治めるのです」
「兵を動かすには、鎌倉殿の花押が必要なのじゃ」
「ならば、すぐにでも御所へ向かってください」
りくは、時政に迫った。
「父上といえども鎌倉殿はお会いにできません」
鎌倉殿が御所にいないので騒ぎになっている。
「いかがであったか」
「八幡宮にもいなかった」
「鎌倉殿に、もしものことがあれば、私の責任です」
「もしも我らが見つけられなければ、執権でも見つけられない」
しばらくすると、鎌倉殿が御所に帰った。
「すまない、こんな騒ぎになっているとは」
実朝が一人、和歌集を読んでいると、そこへ時政がにじり寄り、
「ここに花押を一つ」
「とりあえず、父はわかってくれた」
義時は武蔵国へ向かい畠山に会った。
「お主が鎌倉でなすべきことは、潔白をいうべきです」
「わしを呼び寄せ、討ち取るのでは」
義時は、まさかと取り合わない。
「もし、執権殿と争うと、義時はどちらに着くのか」
「・・・・」
「執権で良い、私ならそうする。鎌倉を守るため」
「鎌倉を守るという言葉は便利なことだが」
「本当に鎌倉のために戦うならば、あなたが戦う相手は、本当はわかっている」
「それ以上は言わない」
畠山重忠は言い切った。
(つづく)
【埼玉県深谷市】
【畠山重忠公史跡公園】
畠山重忠公の屋敷跡で、現在は公園として整備されている。
園内には成忠公とその家臣たちの墓と言われる五輪塔が祀られている。
成忠公の産湯の井戸、銅像がある
【井椋(いぐら)神社】
畠山重忠の父・重能が畠山に移り住んだ時に、曽祖父が秩父にある椋神社を勧請したと言われる
【満福寺】
寿永3年(1184年)に畠山重忠が最高した。
重忠の位牌が残されて、観音堂には重忠の守本尊で等身大の千手観音像が安置されている。
千手観音像
畠山重忠公像
【嵐山渓谷】
埼玉を代表する景勝地のひとつで、岩畳と清流、木々の織りなす自然環境は嵐山町の宝物です。
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今日の主役は鎌倉芸術館の前にある「浅野屋」の女将さん、南部たま江さん(81歳)だ。
取材の翌日に81歳の誕生日を迎えた。
傘寿+1。おめでとうございます。
父からお店を受け継いで女将中心に頑張り、今年で創業100年の老舗の蕎麦屋の話です。
大正11年(1922年)9月、父の南部林さんは神田の浅野屋本店で修行を終えて四谷に店を構えた。
ところが翌年大正12年(1923年)9月の関東大震災で店が被災した。
四谷から移転先の蒲田のお店は、踏切を挟んで反対側には松竹蒲田撮影所がある。
しばらくここで営業を続けていたら、貰い火でまたお店がなくなってしまった。
偶然知人の紹介で大船に物件が見つかった。
大船駅から10分も歩くのですが、近くに蒲田から移転してきた松竹大船撮影所があり、
商売になると紹介されて昭和14年(1939年)に店を構えた。
「浅野屋は松竹撮影所を追いかけてきた!」と周囲からは揶揄されたそうだ。
たま江さんは鎌倉女学院卒業。いわゆるお嬢さん学校に中高6年間通った。
当時の入学試験は親の面接、本人の口頭試験だけだったそうだ。
小学生の頃の彼女は成績優秀で、入学時の寄付金は最低の1口1700円で済んだそうだ。
それでもちゃんと受かったと笑顔で説明された。
卒業後、結婚するまでは、新橋の親戚の会社で経理を手伝っていた。
25歳の時(1966年)に函館生まれの夫の翔鶴さんと結婚した。
翔鶴(しょうかく)という名前は海軍の航空母艦の名前から名付けられたそうだ。
25歳でお店の手伝いは初めて。
大船撮影所のお店のお客は、その頃は裏方さんばかりだった。
しかし、一旦、注文があると夕方はつなぎ食で(たぬきそば)の注文。
深夜仕事になると夜10時頃にカツ丼の注文がある。
映画の仕事は50人分、テレビドラマの仕事は30人分になる。
8時に閉店してから、ご飯を炊いて、カツを揚げて間に合わせる。
店内は超大忙しになる。
松竹大船撮影所は昭和11年(1936年)に開所し、平成12年(2000年)で撮影所は幕を閉めた。
通算65年の歴史を飾ったわけだ。
当時お店に一番いらしてくれた俳優さんは 名脇役の日守新一だと女将は言った。
一番人気者の渥美清さんは元気な頃は近くの中華料理ばかりだったが、体が弱くなった頃は、
もり蕎麦を1本1本ゆっくり食べていたという。
一方、倍賞千恵子さんは天ざるがお好きのようだった。
「渥美清さんとお別れする会」は第9スタジオの祭壇の前から、
大船駅まで2万人の弔問のファンの列がつながった。
私は渥美清さんと仕事の関係があったので、時間ぎりぎりに到着しても、
宣伝部の方が祭壇の前に席を用意してくれていた。
周りには山田洋次さん、倍賞千恵子さん、蛾次郎さんが着席していた。
「あの日は、最後は土砂降りになって、とにかくお店も大変だった」と追想されていた。
先日、鎌倉芸術館で行われた松竹映画100年記念で「男はつらいよ50・お帰り寅さん」を、
上映したときに、山田洋次さんと倍賞千恵子さんのトークショーがあった。
倍賞さんを楽屋に訪問して、山田洋次さんに拙著を差し上げたことがある。
その帰り道、お二人は懐かしさのあまり浅野屋に寄り、山田さんは親子丼ともりそば、
倍賞さんは、いつもの天ざるを召し上がって帰られたようだ。
女将の小さな頃の思い出は、撮影所で映画が完成するごとに「大船会館」で所員試写会があり、
撮影所に忍び込んでは、どんな映画も見た。
「君の名は」はよく覚えていると、目を細めて語っていた。
(*)このように浅野屋の歴史は松竹撮影所とともにあったと言っても過言ではない。
女将は25歳の結婚以来、今日までお店の仕事を続けている。現役生活通算56年になる。
それまでは父の林さんが44年間、奥様とお店を頑張っていた。
なので、父母娘合わせて創業100年になるのだ。
父の林さんは昭和51年(1976年)2月に亡くなった。
亡くなるまでの20年間は父娘一緒にお店を営業していた計算になる。
とにかく父母娘2代で100年という話は、聞いたことがない。
父の林さんは、仕事の大変厳しい方だった。
当時は蕎麦屋とは身分の低い仕事と受け止められていたが、
仕入れには手を抜かずに、使わなくても良いものも良質な材料を使っていた。
戦前から蕎麦粉は小田原の久津間製粉から取り寄せていた。
当時の物流は国鉄で運んでいた。
大船駅からお店に連絡があり、お父さんは自転車で30キロの荷物を運んでいた。
(いらっしゃいませ)(ありがとうございました)(またお待ちしています)
このインタビューの途中でも、女将さんは、お客様から目を離さない。
父の林さんは女将が35歳の時に亡くなった。
ご主人はお店の仕事はまったくの素人だった。
義父に熱心に仕込まれて、10年間で一人前の職人になっていた。
そのご主人は平成18年(2006年)に亡くなった。
それ以来、女将は姪夫婦とスタッフ数名で、今日までお店の切り盛りを続けている。
午後のお客様が途切れて、夕方までの混み合う時間までは、2階の自分の部屋に戻り、
休憩と雑事をこなしている。
ここまでが浅野屋の大雑把な100年の歴史なのだ。
お店の中を紹介しよう。
座敷の間の外の小さな庭が見えるが、その奥は隣家だった。
その向こうに浅野屋の駐車場があったが、ある時、等価交換方式で手に入れ、
庭を潰して座敷をこのように大きくした。
かれこれコロナ禍までは16人が座れるスペースになった。
床の間に蘭の花籠も飾ってある。
私が現役時代に職場の湘南会メンバーが15人ほど、新年会、忘年会と、
折りあるごとに集まっては楽しい飲み会を続けていた。
残念ながら、その中の数人は鬼籍に入られて会も自然消滅になった。
女将はその頃のことを、よく覚えてくれて、今回のインタビューにつながったのだ。
こちらがテーブル席。28席で満席。
テーブルと座敷で合わせて44席になる。
買い物帰りの客のほか、親の代から親子何代も続いて店通い、
小さな頃から続けて遠くからも来店する方も少なくないと
女将は目を細めて嬉しそうに語り続ける。
壁には綺麗に描かれた墨文字のメニューはある。
たま江さんが通っていた小学校の校長さんが、どれも描いてくれたものだ。
値段だけが書き換えられているが年代物である。
主なお品書きは、
天ざる、天麩羅蕎麦。車海老の大きな天ぷらが乗っている。
鴨せいろ。コシがあって暑い日だったがとても美味しかった。
カレー蕎麦。大正時代から父・林さんはカレー粉を特別な炒り方で、うまさを引き出している。
かつ丼。
ところで浅野屋の蕎麦は何割蕎麦だろうか。
基本的には企業秘密とのこと。
蕎麦粉が多いとのびやすい。今でも出前はたまにあるので気をつけている。
昔は片手で何段も積み重ねて運んだもので、
出前機が出来てからは横揺れしてもこぼれなく重宝した。
今は出前を取る方は圧倒的に減っていると説明された。
壁に小さな時代物の漫画絵があるが、
浅野屋は忠臣蔵の浅野家の由来を感じさせられる。
「お手柄よ仇を打ったる浅野家の浪士は毎にそばをはなれず」と、
手打そばの4文字が、竹の掛け軸に白く塗られている。
これは女将が通っていた小学校の用務員さんが、特別に作成した逸品だ。
「本当は、うちは手打ち蕎麦じゃないんだけど」と目を細めた。
浅野屋は、大船駅前の店は、従兄弟が、この店から暖簾わけして息子の代になっている。
湘南深沢駅前の浅野屋は門前仲町の浅野屋から暖簾わけされ、当時、きちんと挨拶があった。
最後は「君の名は」の主演の佐田啓二(中井貴一の父)の奥さんは、この店の先にあった
「月ヶ瀬」(食堂)の娘さんで、当時から八頭身で綺麗な方だったと、思い出に耽っていた。
お話全体の内容は、時には小津安二郎の松竹映画を見ている気分にさせられた。
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既に「鎌倉広町緑地」「鎌倉中央公園」をこのブログで紹介した。
今日は「夫婦池公園」を紹介したいと思う。
鎌倉市には、このほかに「鎌倉海浜公園」「源氏山公園」「笛田公園」「散在が池公園」
「六国見山林公園」「大船フラワーセンター」がある。
徐々に紹介していきたいと考えているところです。
車で鎌倉市役所へ行くときは、鎌倉山のバス通りを抜けていくケースが多い。
春には満開の桜並木として、代表的な鎌倉観光地になるのです。
鎌倉山のバス停から、しばらく行くと「らい亭」の手前に大きな石碑が立っている。
前から気にはなっていた。
ある日、午前中に鎌倉仲間と1時間半のオンライン会議が終わると、
久しぶりに強烈な日差しが庭に差し込んでいた。
「そうだ、夫婦池公園行こう」
このところ雨続きで、鬱陶しい気分が続いていたのだ。
ここは鎌倉山と笛田の山間にある2つの池を中心にした自然豊かな散策公園です。
池の対岸にはヨシ、ハンゲショウなどの湿性植物や、カワセミなどの野鳥が生息している。
池の静けさと緑豊かな風景が楽しめるとHPには書いてある。
併せて「夫婦池の由来」が説明されている。
約300年前の江戸時代にある代官が笛田村に灌漑用水として、現在の下池を掘らせた。
その後、笛田・手広の住民により、中央の堤が作られて、上下一対の池になったので、
夫婦池と呼ばれるようになったとある。
鎌倉山の桜並木のバス通りを、車で通り過ぎるだけでは、このような風景は想像がつかない。
ここまで家から近道を抜けて30分で歩いてきた。
前述の石碑のところに着いた。
「記山倉鎌」とある。かなり昔に書かれたものだ。
本文は漢字とカタカナだけだ。
この入り口は鎌倉山口だ。
鬱蒼とした木々の間、蝉の声がうるさいほど聞こえる木製の階段を徐々に下っていく。
園内の案内地図によると「森のさんぽみち」とある。
どんどん階段を下っていくと湿地の観察テラスに着く。
それぞれの木には、名前を書いた札がある。
さらに進むと森の休憩所がある。
日陰の中に木製のテーブル、に椅子が備えられている。
パークセンターまで来ると、前の方からカメラを撮りながら歩いてくる小柄な女性と出会った。
家からここまで4時間かけて走って来たと言う。
「静かな森の中、初めて人に会いました」と私。
「良い公園ですね」と答えてくれた。
「ご近所の方ですか」
「朝、金沢八景から走って、北鎌倉を抜けて、ここに来ました」
お話を聞くとウルトラマラソンの経験者で、
100マイルレースを走ったばかりだと。
160キロを15時間ほどで踏破した方だ。
自分が鎌倉からソウルまでの2328キロの徒歩の旅の経験を紹介したら、
いきなり打ち解けて20分ほどの立ち話になった。
国内では有名なトライアスロンはいくつも挑戦して、ハワイのコナレースも経験したという。
よく見るとTシャツにもレースのロゴがプリントされている。
お名前は聞かずに、年齢の説明がありましたが秘密で、顔写真は撮っても良いですと。
清々しい素敵な方でした。
ここからは「水辺のさんぽみち」。
親水テラスのある笛田口だ。
この橋を渡って前方の「水辺の庭園」がある。
ここから水鳥がじっとしている。
多分サギの一種類だろう。
少しすると大きな羽を広げたが、どこかへ飛んでいく様子でもなく、
じっと涼んでいるようにも見える。
さらに奥へ進むと防空壕跡があるが、茂みに隠れて、当時の様子は一切何も見られない。
谷戸の休憩所に涼みながら、久しぶりに自然の中で、のんびりした気分になった。
最近、結構忙しく、このような時間を遮るもののないゆったりした瞬間がなかったなと。
先週誕生日を迎えて、また1つ歳をとったのだ。
意識して、これからは、こう言う時間を大事にしていきたいと痛切に感じた。
この先は笛田の住宅街を抜けて湘南モノレールの「湘南深沢」に出る。
途中で、地元で有名なラーメン屋に入り、「磯のり塩ラーメン」と生ビールを頼んだ。
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謀反の疑惑とともに頼家は世を去った。
実朝が鎌倉殿として政治の表舞台に立つ。
しかし実権を握っていたのは、執権北条時政。
(ドラマのプロローグより)
義時が泰時に小さな仏像を手渡した。
「これは頼朝様が亡くなったときに姉上から形見でもらった。お前に渡したい」
「かように大事なものは、いただけません」
泰時は父の本心がわからない。
父がこれを持っていると心が痛むのだろうか。父が持っているべきなのだ。
泰時は心を痛めた。
時房が義時の子供たちと無邪気に遊んでいる。
「あの子たちは、いつ比奈さんが帰ってくるのかと思っています」
義時は、その言葉に心を痛めた。
実朝は御家人の前に対面している。
「鎌倉殿、本日より訴状の裁きに立ち会っていただきます」
義時が実朝に伝えた。
「仕切りは私たちがまとめるので、黙って見ていてください」
「ただ、座っているだけでいいのだ」
時政は笑顔で言い含めた。
八田知家が薙刀の術。
和田義盛は弓の術。
大江広元は政の心得。
三浦義村は処世のすべて。
「ゆっくり、焦らずにおやりなさい。鎌倉殿の面倒は、この爺の時政におまかせくだされ」
「どうですか、鎌倉殿の様子は」
政子は三善康信に尋ねた。
「張り切ってやっております」
「和歌は、本当はそなたに見てもらいたいのです」
「大江殿から、おいそれと外には持ち出さぬよう言われたので、
これを、鎌倉殿の目につくところへ、さりげなくおいてください」
「私が渡すより、そっと気がつくところへ」
政子は御所にある和歌集の写しを手渡した。
時政の前に家人たちが集まっている。
「甲斐の鷹の羽、鷲の羽でございます」
「これは良い矢ができる」
「こちらは利根川で獲れたばかりの鮎でございます」
「これはありがたい。りくの大好物じゃ」
「この度の裁きは、わしが仕切ってやる。まかせておけ」
家人たちからの捧げ物を受け取り、時政はご満悦の様子だ。
義時は、これを聞き時政に向かって、
「そのようなものは受けと取るべきでないのです」
「わしをたよって頼みにきたものを、受けてやる、どこが悪いのだ」
「だから、受け取ってはいけないのです!」
「御台所選びは、どうなりました」
「万事、つつがなく進んでおります」
源実朝は後鳥羽上皇の従姉と結婚することが決まり、
そのことをりくは、大変喜んでいる。
「今こそ、京との関係を深める時です。うまくいけば鎌倉殿は帝の縁者」
「御台所を迎えに行く昌範は自慢の息子」
と、りくは手放しで喜んだ。
政子はこの話を聞いて、
「確かに御家人が朝廷から正室を迎えれば、また、争いが起こります。それでも良いのですか」
りくの入れ知恵もあり、時政が武蔵国に勢力を伸ばそうと動き始める。
「武蔵の武士ならば、わかっている。比企なきあと、ぽっかりと穴が空いてしまった。お主には武蔵守になってもらおう」
時政は、この願いを取り合わない。
「いや、私は総検校職の役目があります。身に余るお話ですが代々受け継いできた総検校職
があります」
「そちらは遠慮してもらいたい。ご苦労様でした
武蔵国総検校職を務める畠山重忠は北条にこの地位を脅かされるのは屈辱以外の何ものではない。
「舅様、お一人で決めることではないのでは。体良く総検校職を奪い取るのでは」
重忠は義時に迫った。
「武蔵を脅かすことになれば、畠山は命懸けで抗うつもり。畠山と一戦を交えるつもりですか」
「誰もそんなことは言ってはおらん!」
義時の進言に時政は耳を貸さない。
鎌倉では実朝の結婚が決まり、正室を迎えるために北条昌範が今日に向かった。
「小四郎殿、婚姻についてお話が・・・」
二階堂行政が尋ねた。
「奥方が去られてご不便を感じられているとのこと。わしの孫で(のえ)という、非の打ちどころのない孫がいる。悪い話ではない。一度会ってみては。答えはその後でも」
「八田殿、会うのは御所の庭で語り合うことになっている。力を貸してくれ」
「俺に、見極めろというのか。わかった」
義時は知家に、迷いながら頼んだ。
「御台所を迎えに来るのは、北条政範と聞いた。その方は、おそらく父上に継いで執権別当になられるお方」
「あなたはご自分で執権別当になられるおつもりはないのか」
「本来は鎌倉殿の座を狙える血筋。源氏は、今は北条の言いなりになっている」
「ご存知のように、上皇様は北条がお嫌いでね」
畳み掛けるように平賀朝雅にけしかけた。
「政範様が鎌倉を離れている。例えば突然病に倒れて、あなたが御台所を鎌倉へお連れすれば・・・」
「京と鎌倉の仲は盤石になる」
「平賀朝雅が執権になれば、鎌倉も動かしやすくなるというものよ」
後醍醐上皇は、言い放った。
「実朝を支えるのが京に近いも出なければ・・・」
「あとは、あの男にどれだけの度胸があるかだ」
「御所へ来られるのは、初めてですか」
義時はのえと御所の庭で語り始めた。
「小四郎殿は頼朝様に長くお仕えになられたのですか」
「興味があれば、いくらでもお話します」
「小四郎、非の打ち所がない。見栄えも悪くはない。お前が断ったら、俺が名乗りをあげたいくらいだ」
「裏にも別の顔があるかもしれない」
知家の言葉に義時は迷っている。
11月になり政範たちは京に入った。
「おつかれ様でした。今宵は酒宴を用意して入ります。旅の疲れを癒して頂きます」
しかし、政範は京に着いて2日後に、急に病で倒れた。享年16歳
急な病と言われるが、真偽は不明だ。
京からの便りを手にして、時政とりくは茫然とするだけだ。
「のえと申します。よろしくお願いします」
小四郎はたくさんのきのこを差し出した。
「きのこ、大好き。ありがとうございます」
のえは義時の家族の前で、丁寧に挨拶した。
「祖父から、いろいろ聞いております。辛いご決断を、たくさんしてきているのですね」
「それがわたしの勤めですから」
「気も滅入りますね。人の一生って一人で生きていくのは大変。支えてくれる人がいた方が良いですね、絶対。ご迷惑でなければ、また来ます」
のえは、きのこの入った大きなざるを抱えて去って行った。
「のえさんを迎えるんですか?比奈さんがいなくなって、すぐに新しい人ですか」
泰時は父を責めた。
「二階堂に泣きつかれて・・・。子供たちも喜んでいる」
「そんな言い訳は、自業自得です」
「もう一度、いうてみよ」
静かに泰時に答えた。
「父上は、人の心はないのですか。元は言えば父上が酷いことをしたからです」
泰時は収まらない。
「鎌倉殿はもっと精の着くものを食べなくてはなりません。本日の稽古は、これまで」
「わしの館で、うまいしし汁をつかわす」
和田善盛は力づくで、実朝を誘った。
「御所を離れる訳にはいきません」
「内緒、内緒」
それを見ていた義時も一緒に出かけることになった。
「わしの獲った鹿じゃ。これが武士のしし汁じゃ」
「鎌倉殿もいつか腕を磨き、巻狩をいたしましょう」
義時は優しい物腰で実朝を誘った。
実朝も、恐る恐るしし汁に手をつけた。
「鹿之助、ありがたく頂こう」
うまい表情でしし汁を楽しんだ。
時政は三浦義村を呼んだ。
「畠山は、お前の爺様の仇。恨みがないわけがないな」
「それは、もう昔のことです」
「もし、畠山と戦うことになれば、お前はどっちに加勢する?」
しばらくの沈黙があり、酒を酌み交わして、
「決まっているでしょう」
(どちらにもにも解釈できるような答えだった)
実朝は御所に帰り、義時に一言告げた、
「楽しい夜だった。婚姻はどうなった」
「悩みました。決めてしまおうかと思います」
「わたしの結婚は。嫁とらねばならないか。後戻りはできないか?」
それを聞いた政子は、心配のあまり、この婚姻はやめることはできないかと。
義時は静かに首を振った。
のえは女人を集めて楽しんでいる。
「小四郎に会ってきた。これ、持って行ってもいいよ。わたし、きのこ嫌いだから」
「これで、鎌倉殿の縁者ということ、控え、控え!は、は、は」
八田殿はのえの本性をを見抜けなかった。そして、のえはキノコが好きではなかった。
大丈夫かな、小四郎。
(つづく)
【東洞院通り】
平安京の東洞院大路に当たる。
洞院とは上皇の居所を意味する。
【六角堂】
北条時政の娘婿・平賀朝雅が京都守護として滞在していた館がこの付近にあったと言われる
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あまりに歪な代替わり。
源氏の棟梁を巡る駆け引きが、再び始まろうとしている。
(ドラマのプロローグより)
(*)NHK大河ドラマのガイドブックが10月7日発売。
しばらくは、あらすじは録画を見直して自ら物語を再現してみた。
ご了解ください。
鎌倉では政子の次男・源実朝を鎌倉殿にする新体制が始まった。
若き実朝が第三代鎌倉殿に就く儀式の際、目の前にいきなり髑髏が現れた。
義時が実朝に見せ、御台所の政子が説明する。
頼朝の父・義朝の髑髏だ。
「頼朝さまは、挙兵の際、髑髏に誓いました。この髑髏から全てが始まった。
あなたが持っていなさい。上に立つ者の証です」
一方、失意の源頼家は・・・。
伊豆の修善寺に追われた頼家は、
「鎌倉殿は、わしじゃ。このわしじゃ」
鎌倉では実朝の鎌倉殿について、御家人たちの会議が続く。
北条時政が執権別棟に就任した。
時政を裏で支えるりくは、実朝の正室を京から迎えるとことを進言している。
娘婿の平賀朝雅を通じて後鳥羽上皇に願い出ると言い張った。
「武蔵は比企がいなくなった。わしがやる」
執権別当の時政がいう。
「このところ、お前の親父は、随分と張り切っている。どうも、やり口が汚ねえ」
「御家人たちは派手に権力をふるう北条を敬遠している。
調子に乗りすぎると、しっぺ返しを食うぞ」
三浦義村の忠告に義時は相手にしない。
りくと時政は、こうした成り行きを喜んで、酒を汲み交わしている。
「国を守るために武蔵を守るのです。次には京から御台所を迎えるとしましょう」
京では後醍醐上皇が、不愉快な表情をしている。
「実朝の嫁取り。京から差し出せと行っている。誰の差し金じゃ。時政の田舎者め」
「だが、わしは実朝の名付け親じゃ、鎌倉に心して待つよう伝えよ」
比企一族を滅ぼしたのは北条と後醍醐上皇は気が付いている。
「源氏は我が忠臣。坂東の田舎者めが・・・。頼家は、どうしている」
「寂しくてたまらないと文がきております」
「頼家殿は、まだ鎌倉にご忠臣・・・どうする」
義時は御家人たちと協議している
三浦義村が修善寺の頼家を訪ねた。
「自分を忘れぬよう、このように喧嘩を売っているのじゃ」
「頼朝さまは、石橋山で負けて、わずか1ヶ月半で鎌倉へ乗り込んだ。わしもそうする」
「必ず北条を討って、鎌倉を火の海にしてやる」
「このまま、この地で果てる事はない。鎌倉殿は、このわしじゃ」
「義村、力を貸してくれ」
三浦義村は、この頼家の願いを、簡単に断った。
頼家の鎌倉に対する恨みは強い。
義時は言い張った。
「早く手を打たなければ。鎌倉殿は、二人はいらぬ」
時政は迷って、
「頼家さまは頼朝のお子、わしの孫じゃ」
返して義時は、
「修善寺を見張れ。もし、不審な動きがあれば、その時は覚悟を決める。北条無くして鎌倉なし」
「政は争いを呼ぶ。実朝には穏やかに過ごしてほしい。早く誰かに次を・・・」
政子は願った。
「実朝には和歌をやらせてみたい」
「私は反対です」
実衣が話に加わってきた。
実朝の読書初めの儀が始まった。
講義を行ったのは源仲章。
「易経、詩経、書経、・・・論語、孝経、孟子」
以上の十三経を早口ですらすらと淀みなく説明した。
政子は頼家が好きだった干し鮑を持って修善寺へ向かった。
「尼御台に一眼でもあって欲しい」
と取り次のものが伝えた。
「あの女は母と思っていない。会いとうない」
と政子を追い返した。
頼家は北条追悼の院宣を願い出た様子で、
義時は、どうも決まりのようだという情報を受けて
「頼家様を討ち取る」
「これは謀反となります。向こうには上皇様がついておられる」
「上皇様に文を出されてみては」
「甘い!私は同じ思いでいたが、こうなった以上は、道はひとつしかない」
義時は、心に決めた。
義時は善児の館に向かった。
善児は留守だったが、そこで見つけたものは、兄・宗時が腰に下げていたお守り。
「なぜ、これがここに?」
義時は全てを理解した。
「答えは、一つ」
「私に善児が責められようか。兄上!」
「善児、仕事だ!」
「へえ」
義時は善児に命じた。
時房は頼家の館へ向かった。
「どうかお逃げください。生きていれば、また道が開けます」
「道などはない。いずれ、わしは殺される。座して死を待つつもりはない」
「時房、これから京からやってきた猿楽が始まる。上皇様の肝煎りだ。お前も見て行け」
頼家は時房の願いを受け止めずに、こう伝えた。
義時は、久しぶりに和田義盛の館を訪ねた。
そこには運慶がいた。
「小四郎、何年ぶりだ」
「十五年ぶりかと」
「お前、悪い顔になったな。だがまだ救いがある。お前の顔は悩んでいる顔だ。
しかし、その迷いが救いなのだ」
「悪い顔だが良い顔じゃ。いつかお前のために仏を彫ってやりたい。良い仏ができそうだ」
頼家は京からの猿楽を楽しんでいた。
奇妙な面をつけた者が猿楽を演じている。
時房がその演技の中に分け入った。
笛吹く指が動いていない演者がいた。
面を剥がすと、その者は善児だった。
いきなり時房は刀を抜き、頼家も太刀を抜き立ち向かった。
「あんたは殺すなと言われているんだ」
善児は時房にいい、頼家を追いかけた。
善児は頼家に立ち向かった
二人の斬り合いが続いた。
一瞬の隙を見た善児を斬ったのは頼家だ。
「わしはまだ死なぬ」
その後ろから最後に頼家を斬ったのはトウだった。
源頼家、偉大なる頼朝の子。享年23歳。
トウは傷ついた善児に立ち向かい、思い切り腹を突いた。
「ずっと、この日を待っていた。父の仇!」
そしてトウは善児にトドメを刺した。
(*)現地の頼家のお墓の前の案内板では、時政の手で入浴中に暗殺されてと書かれています。
(つづく)
今回のゆかりの地は「修善寺」だ。
【修善寺】
静岡県伊豆市の修善寺。源頼家はこの地に幽閉されて、のちに暗殺された
【修禅寺】
街の中心にあるのは弘法大師の創建された修禅寺がある。
【大日如来坐像】
本尊の 解体修理の際、雅子のものと思われる頭髪が出てきた。
あたかも政子の思いが宿ったようです。
【指月院】
頼家のゆかりの仏殿がある。頼家の菩提を弔らうために政子が寄進したと言われる。
中には教文が収められており、政子の直筆と思われる一文も残っています。
【源頼家の墓】
志なかばで世を去った頼家。毎年7月には御前供養が行われ、二代目鎌倉殿を偲んでいます。
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鎌倉には地域別に、いくつかの60歳以上の高齢者向けの施設があります。
腰越なごやかセンターもその一つ。
他に今泉さわやかセンター、玉縄すこやかセンター、名越やすらぎセンター等があります。
他にも深沢地区には「鎌倉市教養センター」という大きな施設もあります。
シニア向けの運動施設(機能回復訓練スペース)、囲碁、将棋の娯楽室、図書コーナー、
大会議室、集会室、なんと男女別の風呂もあります。
定時には大画面から流れる「ラジオ体操」で、皆さんは体をほぐしています。
会場に興味深い張り紙があります。
納得です。
今週、私は誕生日を迎えて、新しい1年が始まります。
ご近所のご縁で、住まいのある地元集会場で講演をすることになりました。
実は9月12日に「鎌倉教養センター」で午前午後とそれぞれ2時間の講演が予定されています。
「あの有名C Mの舞台裏」=ピンチをチャンスに変えた一言=
100名の募集予定に2倍の応募があり抽選になったと聞いています。
そのニュースを知ったご近所さんから「腰越なごやかセンター」でも講演して欲しいと依頼がありました。
幹事会の希望で講演テーマは「広告の話」ではなくて、
18年前の「鎌倉からソウルへの徒歩の旅」となりました。
自分としては過去の話ですが、幹事会の方が是非聞きたいと決まってしまいました。
タイトルは、
「歩いて見つけた、新しい生き方」
チラシも作って、町内で拡散してくれました。
歩くスピードで見たもの、触れたもの。
歩くスピードで考えたこと、感じたこと。
2時間のパワーポイント素材を1時間で話すことになり、
写真の1枚、1枚、こんな視点で、分かりやすくスピーチしました。
会場には30名の会員さんが集まりました。
顔馴染みの方もいます。
「この中に、私、または子供を含めた家族を知っている方、手をあげて!」
冒頭に聞きました。7、8名の方が手を挙げました。
まず簡単に現役時代の仕事ぶりを紹介。
なぜソウルまで歩くことになったかの説明。
そして鎌倉市役所から歩き始めることになったかの説明。
そしてパワーポイントによる旅の写真を、説明しながら、鎌倉から西に向かって進みます。
講演中には、主な新聞記事も回覧しています。
部屋の片隅のテーブルの上には、歩いた日韓の地図も展示してあります。
リュックに掲げた「日韓友情年」の国の認定行事になった、
日本語、韓国語の2枚のゼッケン。
リュックに刺して歩いた旗。
間宮の間を「門」の向き合う日韓両国の旗。
話の実感する現物です。
当日の朝、再度「鎌倉―ソウル2328キロを歩く」を、ざっと読み返した。
旅の途中で出会った方々の顔と名前を思い出して、
情報価値のある出来事も、コメントの追加の準備もしました。
(結構、書いた自分でも忘れていることがありました)
公演の最後に、鎌倉市と韓国の安東(アンドン)市のパートナーシティ締結。
ご縁で始まった「鎌倉農泊協議会」の活動についても、説明しました。
前日、1時間で終えたリハーサルは、今日は予定より10分ほど長くなりました。
会場からの質問は、
「毎日何キロぐらい歩きましたか」
「宿やホテルはどうやって予約をしましたか」
「韓国から見て、この旅はどのように受け止められましたか」
「今の日韓の間の空気と、違いはありましたか」
過去の2時間の講演では、全て触れていましたが、今回は時間の関係で省いていました。
核心をついた質問が出て、意味ある約20分のクエスチョンタイムになりました。
「お話しを聞いて、元気が出ました」
幹事さんから、このような講演は他の地区でも、お話しして欲しいと提案が出ました。
今回の講演は「みらいふる鎌倉」の主催でしたので、私としては、すでに過去の出来事ですが、
こうして喜んで聞いていただけるならば、鎌倉市内の他の施設でも、
お話ししても良いかなと考え始めました。
歩けば景色が変わって見えるように、新しい毎日が始まる。
考えるのは自分。
行動するのは自分。
責任取るのは自分。
そんな気持ちで、私自身も元気が出ました。
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最初はソンべカフェと言う名前に興味を持った。
ソンべとは韓国語で「선배」で、
先輩を意味する言葉なのだ。
韓国系のお店だと早とちりした。
宇治さんのお店のロゴは、「SÔNG BÉ CAFE」。
ソンべと言う言葉は、今はもう無いがベトナムの小さな村の名前で、
焼き物の名前でも有名だった。
つまり、ベトナム語で小さな川を意味すると言う。
このお店のネーミングに、宇治さんの生き方の原点がありそうだ。
学生団体「コミニア」が主催する座談会イベントで、講師の宇治香さんと会った。
地元を知ること、土地への愛着を持つことが、より良い町づくりの第1歩と熱弁。
そのイベントで発信する宇治さんの話に興味を持って、今回、お店に宇治さんを訪ねたのだ。
宇治香さんは鎌倉生まれ、鎌倉育ちの62歳。
小さな頃から鎌倉の変貌ぶりを、自分の目で実感しているのだ。
山崎地区で幼少時代を過ごした。
それまで家の前に流れている綺麗な小川が遊び場だったが、
赤や緑の工場排水が流れてくるようになり護岸工事などで街の風景が、ガラリと変わった。
1964年、満5歳の時に東京オリンピックを迎えた。
その時に聞いた母の言葉は「オリンピックで外国から人が、
たくさん来るから汚い街を綺麗にするらしいの」。
小学校3年の時に公害という言葉を知った。
汚い街を綺麗にするということは、何だろうかと考えた。
自然、人の心のふれあいの大事さが、経済成長で壊れていってしまう。
そんなことが幼い心の中に芽生えた。
スポーツ少年だった宇治さんは、スポーツから感じる感動シーンに共鳴していた。
人の感動と涙、鳥肌が立つようなシーンに、必ず三本線があった。
そのため、学生時代からアディダスしか眼中になかった。
創始者のポリシーに共鳴し、目指すはアディダス1社だった。
そのために大学は体育学部を専攻した。
現在のエントリーシート制度には違和感を感じている。
好きな相手に書くラブレターは1枚のはずだ。受験したのは1社のみだった。
宇治さんは情熱を見せた。最終試験には、アディダスのウエアで面接を受けた。
リクルート姿ではなく宇治さんが見せた、たった一人の情熱の見せ所だった。
入社してからは頭に3本線の剃り込みを入れたほどの熱量だ。
この情熱の表現は、今も変わらない。
4年間の営業活動から始まり、ある日、本部長から「企画をやれ」と言われた。
日頃から情報誌などを目にしている姿が、抜擢の理由だったのだろう。
企画室は大阪の本社しかない。
「子供が大阪弁になるのに抵抗がある」というくだらない理由で、
こんなに良い話を断ったと言う思いから辞表を出したが受け取られなかった。
結果的に翌年、企画室の東京分室が決まった。
トレンドの中心は東京だという会社のポリシーで企画室の東京進出になった。
東京では最初の一年間は宇治さん一人で商品開発を手がけることになった。
その12年後、アディダス・ジャパンになった。
外人上司のもと、仕事に情熱を持つものが少なくなったことや、
ただ売り上げを伸ばすことに躍起になっている上層部に疑問を感じ辞表を出した。
ミスター・アディダスの宇治がいなくなる!
社内は騒然としたと言う
その時39歳。18年間の勤務だった。
源頼朝は「前には海、三方を山に囲まれた」鎌倉を選んだ。
しかし、その鎌倉には簡単に説明の出来ない開発の歴史がある。
自然、環境、鎌倉の大事なものと、社会、経済のバランスを模索する日々。
自らの信念、熱情、その思いを自分のエッセンスで発信して行きたいと思い起業した。
御成町の「ソンべカフェ」をベースに、いろいろな活動を始めた。
まず店のメニューはベトナム料理を中心としたアジアン料理。
アディダス社員の時に多くのアジア出張で覚えた料理。
古き良き日本の雰囲気を思いだすような風景で覚えた味。
修行はタイ、ベトナムで、飛び込みでキッチンスタッフになった。
給料は無し、泊まる部屋、賄い飯で、カタコト英語と現地語で料理を学んだ。
人気料理は
「フォー(ベトナムの主食の汁麺)」
「バッタイ(タイの具沢山の焼きそば)」
「グリーンカレー(タイのポピュラーなカレー)」
「豚バラと卵の氷砂糖煮」など。
その他、その日のスペシャルメニューもある。
この他、お店にはアジアの雑貨、陶器、フェアトレード商品やイベントの告知チラシや、
自作のCDも販売している。
アジアングッズの宝石箱のようだ。
『六カ所村ラプソディー』(映画会)を皮切りに、環境問題、社会問題から、
政治、選挙、憲法まで、お店の開店と同時に多くのイベントを行った。
いろいろな活動の最終目的は「平和」。
小学生でも分かりやすいように戦争や平和に関するイベントも開催している。
2008年に「NPOかまわ」を設立した。かまは鎌倉。わは和む、平和のわ。
2009年にトラジション・タウン鎌倉を設立。
人や自然環境にできるだけ負荷を与えず、心豊かに持続可能な暮らし、
社会を目指す草の根活動です。
イギリスから始まった考えで、世界的ネットワークになっています。
地元を知ること、土地への愛着を持つことが、より良い町づくりの一歩。
この発想から生まれた「かまくらあるものさがし」。
五感をフルに使って鎌倉の自然、歴史、文化などの資源を見て、体験し、発掘する旅。
最後に参加者全員でその日見たもの、感じたこと、気づいたことをシェアする、
宇治さんの案内するイベントだ。
宇治さんは鎌倉で起こった「御谷(おやつ)騒動」も紙芝居にして、多くの人に伝えている。
「おやつ騒動」とは鶴岡八幡宮の裏山に宅地開発の計画が起こった。
その時に鎌倉の歴史的景観を守ろうと鎌倉在住の作家、鎌倉市民が立ちあがり、
土地を守る運動を展開したものだ。結果的に鎌倉の裏山は守られた。
御谷は多くある谷(やつ)の中で、御のつく特別に大事な聖地なのである。
ご覧ください。鶴岡八幡宮は前後を緑の森に囲まれている。
後ろに数階立てのマンションが立つ姿は想像したくない。
この時に鎌倉風致保存会が誕生し、その運動が国会を動かし、
全員賛成で「古都保存法」が生まれて、京都や奈良の美しい景観も守られるようになった。
宇治さんは、今後を憂いて話を続けた。
10年前からデジタルデトックスと言うイベントも試みている。
デジタルデトックスとは、一定期間スマホやパソコンから距離を置いて、ストレスを軽減し、
現実世界でのコミュニケーションや、自然との繋がりを大事にする取り組みのことです。
デジタルデトックスは、デジタルを完全に手放して生きようと言うものではありません。
デジタルとのより良い付き合い方と、アナログの良さを知るためのワークショップです。
宇治さんは携帯電話を持たないし、
パソコンもあまり触れない。
お店のHP作りはスタッフが担当してくれていると笑顔で話してくれた。
デジタル時代が生んできた現象。
電車でスマホを見る若者は、妊婦が前に立っても気がつかない。
本来の協力し合う、助けあう、ゆだね合うという、他に対する気持ちが減ってきた傾向がある。
時代に逆光と言われても、身をもって出来るだけその想いをポリシーにして続けて行きたい。
少しでも、そうだと思って生きて行きたい。
「すべては、頼朝さんを悲しませたくない」
と言う気持ちなのだと締めくくった。
そう語った頃には、目の前の鎌倉駅も、静かな宵の風景になっていた。
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千幡を鎌倉殿とする新体制が生まれる。
しかし、そこには既に、大きな亀裂が入り始めている。
(ドラマのプロローグより)
源頼家は、目を見張るほどの回復力を見せている。
義時、時政ら北条一族は、今後どうするか、
誰が頼家に事実を明かすか、政子を囲んで混迷している。
頼家は、何も知らずに見舞いに来た時政、時房に聞く。
「せつに会いたい。なぜ顔を出さぬ」
時房は、流行り病と誤魔化した。
さらに一幡も乳母父の比企能員も流行り病と苦しい言い訳をする。
いぶかしんだ頼家は、比企館に行くと言い出し、
病み上がりの体には無理だと時政は強引に引き留めた。
政子にとって攻めての救いは、一幡が生きていることだ。
ところが義時は、比企討伐の混乱の中で一幡は死んだと言う。
政子は嘘だと見破った。
義時は最初から、政子の助命懇願を聞き入れる気持ちはなかった。
「一幡様に、居てもらっては困るのです」
義時がとった北条と鎌倉を守るための手段だ。
事によっては頼家の命まで奪われる。
危ぶんだ政子は、頼家に会って真実を告げる決意を固めた。
「誰もがあなたは助からないと思った。・・・比企の一族は館に火を放ち、命を断ちました」
「まやかしに決まっている。北条の奴らだ」
頼家は泣き崩れ、政子は「善哉は無事だから安心してくれ」と切願した。
頼家は承服しない。
素朴な和田義盛、律儀な仁田忠常を呼び、能員が討たれたのは時政の指図だったと確かめた。
そして時政の首を取れと命じた。
義盛は迷った後、北条館を訪れ、時政に全てを包み隠さず話した。
京の後鳥羽法皇から千幡を征夷大将軍に任ずる宣旨が届き、
「実朝」と言う名前が与えられた。
義時は泰時から、一幡を生かしてかくまっていると事実を打ち明けられた。
善児は一幡に情を感じて、義時の殺せの命を受けることができない。
だが、今や北条は実朝を擁して、一幡に情けを掛けるにはいかない。
義時は帰宅すると、妻の比奈が離縁を申し出た。
出自の比企を滅ぼす手助けをして、傷心は癒えることはないと言う。
「頼家様には鎌倉を離れていただくしかない」
義時は政子に理解を求めた。
「伊豆の修善寺で仏の道を極めていただくしかない」
頼家はわずかな家人を伴い。修善寺へと出立した。
御所では三代将軍・源実朝が誕生していた。
頼家の正妻・つつじと嫡男の善哉は三浦義村の庇護の元、とある寺で暮らしている。
その境内で、善哉がひとりで遊んでいると、目の前に薄汚れた老婆が現れた。
「善哉様でございますね。あなたこそが次の鎌倉殿になるべきお方。
北条を許してはなりませぬ!」
比企尼の変わり果てた姿だった。
(つづく)
【神奈川県鎌倉市】
源頼朝が前には海、三方に山に囲まれた鎌倉市を幕府の中心地に置いた。
鶴岡八幡宮など「古都保存法」で守られています。
【吾妻鏡】
鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の源頼朝から第6代将軍宗尊親王まで6代の
将軍記と言う構成で、幕府の業績を編年体で記されている。
「吾妻鏡」は北条氏が編纂に関わるために、北条氏の正当化を目的とした曲筆が多く、
慎重な受け止めも必要になってくる。
【極楽寺】
北条重時が当時は地獄谷と呼ばれていた此処に極楽寺を移した。
現実には死骸が遺棄されたり、行き場を失った者たちが集まったりしていた。
そのために此処に極楽寺が建てられた。
北条重時は義時の三男で、北条泰時(三代執権)の弟に当たる。
【施薬院】
極楽寺の古絵図を見ると、往時の境内には施薬院などの施設があり、医療、福祉施設としての役割も果たしていたことがわかる。
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初代よりはるかに若くして、二代目は倒れた。
御家人同士の対立も、またはるかに大きい。
鎌倉に戦の匂いが、漂い始めている。
(ドラマのプロローグより)
源頼家は父・頼朝と同じような重い病状で、回復は期待できそうもない。
比企能員は頼家の側女の娘のせつが産んだ頼家の長男・一幡を次の鎌倉殿の座につかせるために、朝廷との手続きを進めようとする。
義時が異を唱え、大江広元、三善康信、二階堂行政が同意して、当面は状況を見守ることになった。
頼家の正妻は、源氏の血筋のつつじだ。
頼朝はつつじの産んだ子を後継に望んでいた。
つまり、善哉であるが、頼朝の死が突然で、証となる文書がない。
他に源氏嫡流の血を引く候補は頼家の弟の千幡がいる
一幡には比企、善哉には三浦、千幡には北条が後ろ盾となっている。
もはや、鎌倉は御家人の争いの枠を越えて、御家人たちの権力闘争の様相を呈してきた。
「鎌倉が二つに割れてしまう」
義時が危機感を高める中、京の寺で修行中の全成の嫡男が、父の陰謀に加担した罪で殺された。
「比企の指図に違いない」
先に刃を向けたのは比企だが、受けて立てば大きな戦になる。
翌8月、義時は千幡の擁立を、能員、広元ら宿老に図り、
地図を広げて意表をつく提案をする。
「鎌倉殿のお役目を、千幡様と一幡様で二つに分けるというのは。
関東二十八ヵ国の御家人は一幡様に、関西三十八ヵ国のご家人は一幡様に仕えさせます」
「鎌倉殿は一幡様お一人!」
能員は腹を立てて、地図を引き裂き、部屋を出て行った。
義時は、広元ら宿老経ちに、念を押す。
「方々、拒んだのは向こうでござる」
「これで、大義名分がたった。比企を滅ぼす」
義時の決意に、政子が孫の命乞いをする。
「一幡の命は、助けてあげて」
「一幡様には仏門に入って頂きます」
義時は政子の部屋を辞すと、泰時に非情の命を下した。
「戦になったら、真っ先に一幡を殺せ! 生きていれば必ず禍の種になる。母親ともども」
敵を容赦しない。それが頼朝の教えだった。
比奈は比企館に行き、比企尼を囲んで女たちと軽い会話を交わした。
別の一室から聞こえて来た会話を、義時に文を書いた。
「比企が三浦に手を伸ばしているらしい」
「父上は義母上を利用したのですか」
泰時は義時に対して義憤を感じた。
ところで、千幡はまだ若く、北条が鎌倉を率いて行かねばならない。
父の時政が政を勤められるのか。義時は時政に尋ねた。
「ある!この先は鎌倉を守り抜いてみせる」
時政は最後にもう一度、義時が考えた案を受け入れるかどうか、
能員と交渉する役目を引き受けた。
能員は比企に有利な条件を持ち出した。
「九州は千幡様、そのほかは一幡様で・・・」
時政と能員の交渉は決裂した。
翌日、北条から、能員の案を受け入れると比企に和議を申し入れた。
能員は時政を軽く見て、肝の座ったところを見せようと、丸腰で北条館へ向かった。
館に着くと、時政ら北条勢が鎧姿で待ち構えていた。
味方にしたはずの三浦義村も北条の後詰についている。
能員は策略にはまり、逃げ場を失った。
御所にいる政子に、義時が報告に現れた。
「比企能員、打ち取りました。これより比企館に攻め入ります」
まもなく、北条の軍勢が引や肩を取り囲んだ。
能員の妻・道は、まず比企尼を逃がし、せつには一幡とともに生き延びよと立ち去らせた。
せつが廊下を逃げていくと、北条勢が立ちはだかり、せつを切り捨てた。
義時配下にいる善児が、侍女に抱かれている一幡をじっと見つめた。
御所の政子の部屋にいる義時に北条時連(改め時房)が全て決着したと報告した。
この後は千幡が鎌倉殿になる手はずを進めていけば良い。
御所には時政、義時、広元たちが集まった。
鎌倉殿の席には政子が座し、時政が比企一族を討ち取った旨を報告した。
「残念ながら一幡様は、未だ行方しれず。新たな鎌倉殿は千幡様のお願いすることになりました」
義時が口を開いたときに、足立遠元が飛び込んできた。
「一大事です。鎌倉殿が・・・」
義時、政子たちが駆けつけると、頼家が気を取り戻して布団の上で上体を起こしている。
「すぐにも一幡に会いたい。せつを呼んでくれ」
義時、政子たちは愕然とした。
(つづく)
【名越の切通】
名越の切通は、鎌倉と三浦半島とを結ぶ要路の一つです。周辺には、切通の防衛にも関係すると考えられている平場や切岸、やぐらや火葬跡などの葬送に関する遺構も多く分布敷していて、中世都市の歴史的景観もよく残っています。
【妙本寺】
妙本寺のある谷戸は、現在は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれて、鎌倉時代には比企能員一族の屋敷があった。
【祖師堂】
鎌倉で最大級の木造仏像建築物になる。
妙本寺の先木立の山道を上り、二天門を抜けると祖師堂があります。
祖師堂は妙本寺の中心的な建物で、日蓮、日朗、日輪が祀られています。
第二祖の日朗の創建になります。
【比企一族の墓(供養塔)】
比企能員は頼朝の信任も厚く頼家の乳母父になり娘の若狭局がより家の側室となり一幡を出産し権力を得て、北条と肩を並べるに至った。
比企の乱により一族は滅亡した。
妙本寺の祖師堂横に比企一族の供養塔が立てられている。
【頼家と一幡の墓(一幡の袖塚)】
比企能員は時政に暗殺されて、比企館もよりときらに襲撃された(比企能員の変)
比企一族は、一幡の住居にこもって北条軍と戦ったが。小御所に自ら火を打ち自害したと言われる。この戦いで一幡も焼け死んだのだと伝えられている(6歳)。
【蛇苦止堂】
若狭局を祀る守護神堂です。
比企の乱で井戸に飛び込んで自害したという若狭局を祀っています。
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恒例の鶴岡八幡宮「ぼんぼり祭り」が開催されていた。
鎌倉在住の画家、書家、学者などの著名人から奉納された作品を雪洞にし、
立秋の前日(6日)から源実朝の誕生日(9日)に開催されました。
今年は毎日、天気に恵まれて多くの観客に恵まれました。
わが家の巨匠、21年目の奉納をしています。
今年は鎌倉殿の13人の関係者の特別参加がありましたが、
やはり、常連の奉納者の絵が人々の目を惹きつけています。
初日の夕方、カメラ片手に写真撮影に出かけました。
まずは奉納をされている常連の作品を紹介します。
宮崎緑さん
参道の入口一番前が、毎年指定席です。
蛭子能収さん
茂木健一郎さん
山本富士子さん
宇佐美恵子さん
中村嘉葎雄さん
中村獅童さん
獅童さんは、このところ常連メンバーです。
梶原景時役、ありがとうございました。
竹中直人さん
秋吉久美子さん
十文字美信さん
久保田陽彦さん
角野栄子さん
みのもんたさん
黒岩祐治 県知事
松尾崇 鎌倉市長
鈴木英人さん
榎木孝明さん
吉田成穂 宮司
わたせせいぞうさん
横山ふく子さん
沢木順さん
我が家の巨匠(?)
21回目の奉納作品です。
日本の自然の風景の中に、なぜかカミキリ虫、
なんとなくウクライナに想いを寄せて・・・。
次に「鎌倉殿の13人」の関係者の奉納がありました。
小栗旬さん
大泉洋さん
坂東彌十郎さん
新納慎也さん
宮澤エマさん
三谷幸喜さん
村田佳代子さん
折原みとさん
そしてスポーツ界からも奉納がありました。
リーチマイケルさん
楽苦美 ラグビー、お上手!!
五郎丸歩さん
岡田武史さん
横浜ベイスターズさん
本当に、賑やかなお祭りでした。
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「福井で泊まって、次の日はどうしますか」
旅の仲間から問われて、一瞬どうしようかと迷った。
「ひさしぶりに小浜の仲間に会いに行くか」
3人のうち2人は、小浜は初めての場所なので、ぜひ行きたいと。
学生時代に京都大学だった1人は若い頃はよく行った。
久しぶりに行ってもいいなと。
早速、「さば街道歩き」の仲間の田村仁さんに連絡を取り
その日は空けてくれるとありがたいとお願いした。
田村さんは創業190年余の海産物商「田村長」のオーナーで、
御食国倶楽部で食をテーマに全国展開している。
小浜から京都を結ぶ「さば街道歩き」をプロデュースしている。
私が2005年、鎌倉から韓国ソウルへの徒歩の旅で、
さば街道を踏破するサポートをお願いし、
以来、17年のお付き合いが続いている。
福井から北陸自動車道を200km走り、小浜へ到着した。
片側2車線の道路をほぼ数10キロに渡り片側車線工事中の割には、
一切、渋滞箇所もなく小浜に着いた。
大型トラックの走行も少なく、日本の交通網は太平洋ベルトに集中していると理解した。
ちょうど3時にホテルに到着。定宿の「せくみ屋」。
このホテルは、歓迎オバマ大統領を標榜して、
今でもロビーではオバマ大統領のカットアウト写真が展示してある。
夕食までの時間、食文化館を訪ねる。
御食国の伝統的儀式の展示物を見て、海の見える展望風呂に入る。
さば街道の背負子担いだ人形も「魁十八(さきがけとおはち)」という名がついていた。
小浜駅の近く「吉のぶ」で夕食会。
元勤務先の後輩・朝倉君も合流して、地元の街づくり活動を聞く。
朝倉君は鎌倉からソウルへの徒歩の話を聞いて、
さば街道といえば田村さんと紹介してくれた。
それが「さば街道が結ぶ日韓交流」という大きな新聞記事にもなったのだ。
今夜も魚三昧、お酒三昧の楽しい時間を過ごした。
翌朝は朝倉さんの案内で、まず小浜お魚センター朝市で朝食用の魚を選んだ。
七輪焼で、焼きさばに味噌汁とご飯。
海の風を受けながら、旅の風情の1日が始まる。
小浜には国の重要伝統的建造物保存地区の「小浜西組」がある。
主に茶屋町と商家町があり、多くが明治中期の大火以降の建築ですが、
昔からの風景が残っている。
ここに朝倉さんが管理運営する宿がある。「三丁目さのや」という古民家。
この街は電信柱一つなく空が大きい。
続いて、初めて訪ねる羽賀寺へ。
昔、鳳凰が飛来して、その羽を落としていった霊地に因んで、羽賀寺と名付けられた。
急な階段を登ると、まず鐘が目についた。
少額の奉納をして、鐘をつく。
静かな寺の庭に、鐘の音が響きました。
羽賀寺の十一面観音菩薩立像は、木製のために色彩が鮮やかに残っている。
珍しい木像だと言われている。
次に若狭神宮寺を訪ねる。
この湧水は「若狭井」と言われて、古来より若狭と奈良は地下で結ばれていると、
信じられていました。
「東大寺の二月堂のお水取り」になる。お水送りとお水取りの関係で、
奈良と小浜は姉妹都市になっている。
和泉町へ戻りさば街道起点、さば街道ミュージアムを訪ねました。
この市役所へ通じる道は、区画整理でだいぶ印象が変わりました。
「へしこ」
歴史の中で受け継がれた技。
半年間じっくりと漬け込んで幻の品となる。
「焼きさば」
油ののった鯖を、一本丸ごと素焼きにする。
「若狭かれい」
秋に、一番美味しくいただける。
「さばの棒寿司」
油ののった真鯖を一昼夜かけて塩と酢で〆て、柔らかく煮た昆布で棒寿司を巻く。
田村長でお土産を求めて、
ランチがわりに、鯖寿司をいただいた。
2時前後の電車組の私と、
車組の3人と別れて、小浜を後にした。
昔のペンギン広告仲間との2泊3日の北陸の旅は、
コロナ禍でじっとしていた私たちにとって、素晴らしい体験になった。
北条と比企の対立を乗り越えようとする頼家たち。
鎌倉に平穏が訪れようとしていた。
そんな時、頼家が病に倒れる。
(ドラマのプロローグより)
今回、また一つ首桶が増える事になった。
蹴鞠の指南役・平知泰が京に戻る日が近づき、北条時連は最後の稽古をしていた。
この時、知泰から時連は「時房」と改名された。
ふとしたはずみで御所の寝殿の縁の下に鞠が転がり、
知泰がしゃがんで見ると、床下に人形が置かれているのを見つけた。
折悪く、頼家は急な病に倒れている。
病床の頼家に、比企能員は床下から回収した人形を見せた。
「突然の病、原因は、唯一心当たりは一人しかいません」
「・・・叔父上、いや、まさか」
頼家は怒りに震えるが、全成の仕業とは信じがたい。
大江広元は、誰と決めつけるのは早計だと、一度は棚上げにした。
それから義時に会い、全成が疑われていると。さらに時政が一枚噛んでいると懸念した。
義時は、時政の関与を知っているが、関与の素振りを見せない。
義時は、近々頼家から呼び出しがかかると時政に忠告し、
「いいですか・・・、決して認めてはなりません」
能員は頼家の命によるものとして、全成の館の中を調べ、呪詛の道具を押収した。
能員は動きが早い。
「全成殿は、今や頼朝様のただ一人の弟」
義時は抗議し、能員は一歩も引かない。
「これが全成一人の仕業とは、思っていない」
「親父に伝えよ。いつでも受けて立つと」
義時は、北条館に急ぎ、時政に詰め寄った。
「ご自分のやった事がわかっているのですか! 比企は一戦を辞さない構えです」
義時は、まず戦支度を整え、比企が攻めてくれば応戦する構えを見せるとする。
ほかの御家人たちは、戦いになる事、比企が勝つことを望まない。
北条が声を掛ければ仲裁に動くはずだ。
実衣には政子にかくまってもらうよう指示をした。
次に義時は声をかけたのが、三浦義村、和田義盛だ。
できるだけ多くの御家人の名前を集めてもらう事にした。
頼家のもとに全成の助命を求める訴状が届き、義時、能員、広元、政子が集まった。
「全成殿が鎌倉殿に呪詛をかけたのは明白。焚き付けた実衣も同罪」
能員が大声で非難した。
加えて頼家の後ろ盾は比企だと強調した。
「もう、良い!」
頼家は政子に免じて、実衣の罪は問わないが、全成は許せない。
「全成の首は取らぬが、流罪じゃ」
全成は宿老の一人、八田知家が収める常陸に送られる事になった。
宿老たちが御家人の所領について再配分の評議が始まった。
これは頼家の意向によるものだ。
御家人たちから不服の申立てがあがった。
「所領の少ない御家人は喜び、所領を多く抱える御家人からは文句が出て当然」
義時は頼家の考えが理解できない。忠誠を試しているのだろうか。
能員は御家人の考えを頼家に訴えるが、頼家はこれを拒んだ。
「ならば、比企の上野の所領を近隣の御家人に分け与える」
「わしに忠義が尽くすのならば、出来るはずじゃ。
宿老が自ら土地を分け与えれば、他のものも従うはずだ」
この頼家の言葉に、能員は怒りに目がくらんだ。
そこで能員は常陸に流された全成のもとへ向かった。
「実は、実衣殿が危うい」
能員は頼家の怒りが大きいかを全成に吹き込んだ。
実衣を守るようにと、温情を与えるように呪詛の道具を手渡した。
全成は、その呪詛の道具を受け取った。
八田の家人の監視により、ことはすぐに発覚した。
能員がこれは謀反だと騒ぎ立てて、頼家は全盛に死罪を命じた。
常陸に流された全成は、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺された。
全成の斬首の時に、雷鳴が轟き凄惨な最後を遂げた。
義時は死罪の連鎖を止めるのには、能員と対決するしかないと覚悟した。
「全成殿に呪詛の道具を渡したものがいます」
「・・・私だというのか」
能員はとぼけたが、義時は裏をとっている。
「最も、鎌倉殿に死んで欲しいのは、比企殿、あなたしかない!」
「鎌倉殿に従えば、所領は大きく減る。断れば今の立場が危うい。
意のままにならない鎌倉殿は、もう用がない。そいうことだ」
義時は一気に能員を責め立てた。
仮に頼家亡き後、長男の一幡が鎌倉殿になれば、武士の頂に立つ。
「どうだ、小四郎、わしに力を貸さないか」
「お断りします。鎌倉殿のもとで、悪い根を断ち切るのは、この私です!」
そのためには、頼家が直接、能員の考えを聞くのが良い。
二人の話し合いの場に来るように依頼し、御簾の奥には頼家が居るはずだ。
だが、呼んでみたが、頼家は現れない。
この時頼家は意識不明の状態に陥っていた。
(つづく)
【栃木県益子町】
ここは阿野全盛のゆかりの地である。
頼家に謀反の疑いで下野国(現在の栃木県)に流されて、
この地で討ち取られたと吾妻鏡に記されている。
【大六天の森】
益子町上大羽の大六天の森には頼朝の弟・阿野全成とその従者の墓(五輪塔)が残っている。
【伝・阿野全成の墓】
頼家の命により、謀反の罪に捕らえられ常陸国に流された。
下野国で処刑されて、全成の首は阿野庄全成の館へ届けられた。
【大泉寺】
全成は駿河郡阿野(今の富士市一帯)を与えられ、阿野全成を名乗り、
この地を本拠地とした。居館の一角に持仏堂を建てて祖先の礼を弔った。
これが現在の大泉寺である。
【首かけ松跡】
全成が切られたのは、今の栃木県益子町。全盛の五輪塔が残っている。
切られた全盛の首は富士市の大泉寺まで飛んでいって、
松の枝に引掛かったという伝説が残っている。
義経の首が飛んで藤沢宿の白旗神社へ飛んできた話と同じだ。
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80年代前半、ペンギンキャラクターの出現で、
瓶からカンへ。ビール業界の「時代を変える」一旋風を起こしました。
サントリー カンビール広告。
そのキャラクターの誕生の主、アートディレクターの戸田正寿さんは、
福井県三国の出身で、今や地元福井では名士です。
いま「福井県立美術館」で7月15日から8月31日まで特別展が開かれています。
戸田さんのアート作品に加えて広告表現もアートだということで、
美術館全館に戸田さんの作品が展示されています。
早速、昔のペンギン広告の仲間4人で福井へ向かいました。
私にとって、初めての福井です。
タクシーで5分ほど、県立美術館に到着。
見慣れた大きなアートが迎えてくれました。
“創造する広告⇄アート⇄新しい光”
戸田正寿の世界
館内で検温、手にスプレーし入場すると、広いミュージアムショップです。
私の本とペンギンキャラクターを描いたひこねのりおさんの本が並んでいます。
結構売れているとショップ担当者から連絡が入りました。
館内は全て撮影禁止なので、戸田さんの個展の本から、一部抜粋して紹介します。
そして広告アート。
戸田さんが、有能なデザイナー、アートディレクターになった経緯が書いてあります。
もともと野球少年だった戸田少年は4番サードの長嶋のような選手でした。
高校へ移り野球部を断念し、美術部に転部しました。
そこで出会った美術の大森忠弘先生。
「常識は創造の敵だ」
この一言の出会いが天才的なデザイナーの道を生んだ原点になりました。
全てが「ご縁」の賜物ですね。
2時間ほど館内で鑑賞を楽しみ、我々は1時間ほど離れた東尋坊の近くの三国へ移動します。
4人が4人とも展示作品と自分の体験を懐かしみ美術館を後にしました。
今夜はこの戸田さんの生まれ育った町・三国で夕食、宿泊を楽しみます。
海辺に昔の茶屋町があります、
その中で一番の「料理茶屋 魚志樓」。
戸田さんの馴染みの店でもあります。
ある居酒屋ライターが日本百名店に選んだ一軒。
美味い魚と地酒を目当てに来店する客が多いとか。
明治初期に建てられた趣ある建物は、国の有形文化財の指定を受けています。
当時使われた三味線、和ダンスがあり、中庭も手入れが良いようです。
酔いのせいか、当時の景色の中に突然に舞い込んだような気分です。
この地区は、幸い戦火に見舞われなかったのです。
実はこのメンバーの中にはコピーライターの故:眞木準さんもいます。
コロナ禍で延期した表参道で行う10回目の偲ぶ会が、ここ三国で行われました。
眞木準さんの「一語一絵」(宣伝会議)を前に献杯です。
感染対策をとりながら、美味しい魚が出てきます。
地元の銘酒もお代わり三昧。
あっという間の4時間でした。
翌日は東尋坊の近くの丘の上にある戸田さんの美術館へ。
越前加賀海岸国定公園の真ん中にある神の島「雄島(おしま)」。
この雄島の変化する風景を一枚の絵画と世界に発信するミュージアムです。
「ブリリアント ハート ミュージアム」
自然は一刻たりとも同じ形を留めない。
光の輝き、波の響き、雲の動き、空の色、風の動き。
大きな窓に描かれる大きな自然の絵。
もちろん、主役は「雄島」です。
縄文化石の作品もあります。
水晶体の反射で室内は虹の変化が楽しめます。
お客様は全て予約制でオンリーワンの時間を楽しめます。
途中で奥様の抹茶が出てきます。
作法に従っていただきます。
考えてみると、この窓の大きさ、窓の高さ、建物の向き、
全て計算されていることに気が付きました。
壁には縄文の化石が並べられています。
小さな植物か見えます。これもアートです。
穏やかに過ごした2時間の空間、時間。堪能しました。
戸田さん、奥様。素晴らしいプレゼントに感謝します。
ミュージアムと別れ、港町の蕎麦屋さんへ移動。
名物のおろし蕎麦とビール(ノンアル含み)の乾杯。
ここで戸田さんと別れて、さば街道仲間が待つ200キロ先の小浜市へ、車で移動。
穏やかな海と美味しい料理と美味い酒の旅は続きます。
次回へ続く。
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鎌倉を支えてきた宿老の一角が崩れた。
バランスを失い、大きく揺れる権力の振り子。
それを止める者が誰だ。
(ドラマのプロローグより)
御家人たちを治めていた梶原景時が駿河で討ち死にした。
この先、北条と比企の衝突は避けられない。
義時はどう丸く収めていくのだろうか。
その三日後に三浦義澄が息を引き取った。
その後、頼朝に長く仕えた安達盛長も。後を追うように生涯を閉じた。
13人の宿老から4人が抜けた。
宿老たちの評議が勢いを失った。
「これからは、好きにやらせてもらう」
頼家が言い放ち、乳母父の比企能員の後ろ盾を断った。
北条時政が遠江守の任じられた。
源氏一門以外の御家人では時政が初めての国守就任となる。
頼家の正妻・つつじが第二子の男の子を産んだ。
善哉(後の公卿)、乳母父に三浦義村が選ばれた。
跡継ぎをめぐり、御家人たちが色めきだった。
「嫡男は千幡が良いです。頼家の弟君、今年で9歳。母は政子、乳母夫は実衣と全成殿。
これで決まりでしょう」
時政にりくが、力強く提案した。
それならば、頼家に早く家督を譲って欲しい。
時政とりくは、阿野全成を呼び、北条のために呪詛をしてほしいと頼んだ。
全成が誰をするのか尋ねた。
「比企・・・」
と時政が言い、
「鎌倉殿」
とすかさずりくが、訂正した。
その頃、坂東は台風による大きな被害を受けて、百姓たちは不作に苦しんだ。
何も対策を打たずに蹴鞠に興じている頼家の前に頼時が進み出た。
「ほかにやることがあるのではないでしょうか」
「これは遊びではない」
頼家は気分を害して切り返した。
北条時連はヒヤヒヤして見ている。
その夜、義時は伊豆の領地へ赴くように頼時に指示を出した。
領地の百姓たちが、借りた米を返せずに土地を捨てて逃げて行く。
「これを収めてこい。なんとかせよ」
「・・・なんとかします」
頼家は景時の死後、寺社の所領争いなどを勝手に処断するなど、目に余るものがある。
これではご家人を敵に回すことになる。
その一方、頼家はつつじの部屋に入り浸り善哉と過ごす時間が多くなった。
即女のせつは、跡継ぎは一幡でも善哉でも、どちらでもよくて、頼家と向き合い、
心を交わしたいと願っている。
せつが一途に頼家を慕う気持ちを、誰憚らずに表せば、頼家も心を開くかもしれないと、
政子は励ました。
伊豆に赴いた頼時は数人の代官と大勢の百姓を前にしていた。
代官は貸した米を返さないと証文を見せた。
百姓たちは返したくとも返す米が一粒もないと訴える。
頼時は意を決し、一堂の前で証文をビリビリと破いた。
「代わりに鎌倉から米を届けさせよう」
百姓たちにも一人一斗の米を与えると約束した。
鎌倉では頼時の裁定が評判になった。
これを聞いた頼家は頼時に褒美を与えることにした。
褒美として、新しい名前を褒美にした。
「泰時。泰は天下泰平の泰」
征夷大将軍を間近にした頼家と同じ頼と字を使っては心苦しいだろうと。
義時はこの褒美には、頼時の無念が手に取るように分かる。頼朝の頼でもあるからだ。
全成は部屋に籠り切りになった。
木人形を作り、一心不乱に呪文を唱えている。
「全成殿は呪詛をかけているのではないか」
義時は気がついた。
相手が鎌倉殿と分かると、呪詛をやめてくれと強く求めた。
翌年、頼家は征夷大将軍に任官した。
「鞠を蹴っている時が、一番落ち着く」
と、頼家は義時に鞠を渡した。
義時が鞠を頼家に返した。
「頼朝様は人を信じることをなさらなかった。
お父上を超えたいならば、人を信じることから始めてはいかがでしょうか」
そこへ蹴鞠の指南番の平知泰がきて、二人の会話を待って、古井戸のへりに座った。
「わしは一幡を跡継ぎにする」
頼家に決意をさせたのは、せつの持つ強さだった。
胸のつかえが取れた頼家は、もう蹴鞠には逃げないと言って鞠を知康へ投げた。
知康は鞠を受けたが、体制を崩して古井戸に落ちた。
義時と頼家が縄を下ろし助けようとしたが、頼家までが井戸へ落ちた。
そこへ全成が駆けつけて、頼家、知泰が助けられた。
「叔父上がいてくれて命拾いしました」
全成の顔を見て、
「まるで父と話しているようです」
照れて話す頼家を全成は暖かい眼差しでみた。
帰宅した全成は御所の床下から木人形を回収した。
夜明けに御所の庭に薄灯が刺し、床下に一体、
全成の回収し忘れた木人形が浮かび上がった。
探し出したのいは誰だ。
(つづく)
神奈川県横須賀市
【衣笠城址】
平安時代から鎌倉時代にかけて、三浦半島に勢力をもった「三浦一族」の城がありました。
城といっても石垣もなければ、堀もない中世の山城。
自然を上手に活かした城と言えます。
【大善寺】
三浦一族の本拠地の横須賀。衣笠城の片隅に大善寺はあります。
ここは義澄の時代の面影が偲ばれます。
【満昌寺】
創建は鎌倉時代、1194年三浦義明を開基として源頼朝が建立しました。
その後、臨済宗建長寺派の禅寺として現在に至ります。
満昌寺の境内にある宝物殿には、三浦一族繁栄の礎となった三浦義明の像が安置されています
【三浦義澄の墓(薬王寺跡)】
三浦義盛の墓がある薬王寺は、和田義盛が父義宗当時の義澄の菩提を弔うために建立した。
明治9年に廃寺となり、現在は義澄の墓のみが残されている。
【近殿神社】
(ちかたじんじゃ)と読みます。
源頼朝の挙兵から第3代執権北条泰時の時代まで活躍した三浦義村の墓があります。
鎌倉幕府では三浦氏は北条氏と肩を並べる大きな存在でした
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御成通りから由比ヶ浜通りに出て長谷方面に200mほど行ったところから、
左に琵琶小路にむかう細い路地に入ると「武士食堂」はあります。
ここは同時に古民家90年ゲストハウス「彩(いろどり)」でもあります。
最初にオーナーの高野朋也さん(835歳)を紹介します。
なぜ今の仕事になったかが、次第にわかると思います。
生まれは富山県。越中富山の薬売りのど真ん中、萬金丹で有名な街です。
18歳で都会へ。明治大学(文学部)日本文学を学びました。
英語の教授とご縁ができて、アメリカのコロンビア大学に留学。
英語教育法を学び教材研究を通じてできることを学びました。
帰国後「モメンタム・エデュケーション・ジャパン」で、
英語教材、英語テストの仕組みの企画化、国際色豊かな仲間と仕事に励み、
将来は教育関係に進みたいと考えました。
しかし、看護師の母の影響を受け、刺激されて介護士(認知症)の資格を取って、
都内、桜新町のグループホームで仕事が始まりました。
老人との話が好きで、どんどん仕事にはまり、若くしてユニットリーダを任されました。
老人というレッテルを外して関わり方を変えると、老人たちが元気になり始めました。
海馬や前頭葉にも影響し、(老人うつ)からも立ち直り、人間性にフォーカスを当てると、
老人ストレスから解放されて、自立性が高まりホームから自宅へ戻る方も出てきました。
友人のケアマネの息子さんが重度障害(難病)で困っていました。
児童福祉、障害者福祉、高齢者福祉と区分化(分離)されている事が不便な課題でした。
以後、港北区のグループホームに移りユニットリーダーに。
ケアマネの息子さんたちをボランティア外出支援で江ノ島水族館などへ案内しました。
重度障害者の方達もリハビリを通じて社会との関わりの願望があり、
そのサポートをするためのNPO団体「i-link-u」を立ち上げました。
従来の福祉サービスよりも、社会参加や自己実現を目的に取り組みを開始しました。
やっと見つけた特別支援学校に自宅から通学し、
現在は慶應義塾大学の通信講座を受講中の方も出ました。
次第にNPO仲間も増え始め、オリジナルな事を始めたい。
「ユニバーサル合コン」を実施、マッチングした男女も1組います。
お付き合いを始めたカップルが9組。
自己実現欲求の熱量がが、現場を作る。
(場を作ると実現する)が信念になりました。
障害者と何かを始めたい。
シェアハウスはどうだろう。
「ユニバーサル・ツーリズム」という概念で助成金により、
実証実験を観光庁と共に始めました。
観光事業を含めて、今年で5年目。
お客様がお帰りの際には、オーナーが「火打石」で送り出します。
姿が見えなくなるまで、手を振ってお見送りをします
ところで高野さんは、いつも武者姿で行動しています。
町で買い物、町づくりイベントも、食堂で調理、接遇、全て武者姿です。
先程の写真でもそうですが、このインタビューでも武者姿です。
理由は鎌倉時代に生まれて、毎日が戦(いくさ)、コロナ禍の中の戦いの毎日。
なんといっても目立つ。だから仲間が増えてくる。
つまり武者姿が高野さんのアイコンです。
メンバーも、この鎧がユニホームです。
全てダンボールとプラスティックでできています。
だから雨に弱いのです。
この2年半、コロナ禍の中、ゲストハウスの来訪者も少なくなり、
地域の人のため、地方の方と地元の方の交流の場を求めて、
居酒屋食堂を始めました。名付けて「武士食堂」。
決して広いスペースではないですが、交流の場になっています。
90年の古民家で部屋の雰囲気、飾りが雰囲気を感じさせます。
肝心の「武士食堂」の人気メニューを紹介します。
武士珈琲
武士カレー
豚汁定食
おにぎり
さて高野さんに今後の夢を伺いました。
・明日葉ハウス(自律訓練の場)。
・フリースクール(ここで学べば義務教育に匹敵する以上に、
生きる力を獲得することができます)。
・ステップハウス(児童養護施設などで生活する子供たち。
児童福祉法では18歳以上は、費用的にも国の対象にならい。
18歳以降は自立をせかされます。そのための準備をするハウスです)。
これらの活動をベースに、今後「新しい鎌倉幕府」作りを考えています。
「新しい鎌倉幕府」という自分や街の人の憧れになる仕事を作りたい。
「福祉と教育と観光を中心とした街づくり」。
車椅子ユーザー、見えない方、聞こえない方、多様な方々の社会参加を産み、
新しい働き方や暮らし方を実現する。
共創の宿(ゲストハウス)、彩(いろどり)のある鎌倉。
全ての人が分け隔てなく、至福の時を過ごせる街作りを目指したいと考えています。
ユニークな武者姿で生きている高野朋也さん。
「新しい鎌倉幕府」に期待したいと思います。
]]>父頼朝を超えようともがく頼家は、不信感を募らせていく。
(ドラマのプロローグより)
正治元年(1199年)。13人の宿老の評議が始動した。
ところが宿老同士で、それぞれの当事者の味方の便宜を図ろうと歪み合う始末だ。
頼家は宿老たちの評議が必要なのかと疑念を抱いている。
父の頼朝を越えたいという気持ちが空回りして、御家人たちの不信感は募るばかりだ。
思い通りに動く若い六人衆たちに、鎌倉の風紀が乱れないように指揮を執っている。
頼朝の死からわずか半年、政子の次女の三幡が闘病の末、帰らぬ人になった。
「母上、ご安心ください。この鎌倉を揺るぎないものに致します」
頼家は政子に固く誓った。
三幡の乳母父の中原親能は、この期に出家し鎌倉を離れた。
宿老の文官が一人減った。
実衣は全成との跡目について考えが合わずに琵琶を習い始めた。
指南役は御家人で琵琶の名手・結城朝光だ。
ある日、実衣に対して打ち明けた。
御家人の仁田忠常と、宿老たちに耳を貸さない頼家に対して批判的なことを口にしたと。
「頼朝さまには、もう少し長生きをして欲しかった」
このことを善児が聞いて、景時に報告した。
「忠臣は二君に仕えず」
翌日、景時は朝光に対して頼家を誹謗した罪により謹慎を申し付けた。
この頃、頼家は宿老の一人、安達盛長の息子・景盛の妻・ゆうに想いを寄せていた。
「人の道に反しております!」
若き六人衆の北条頼時が勇気を持って意見した。
頼家は聞き入れない。
景時はこの問題を重視し迅速に動いた。
頼家、盛長、影盛を一堂に集めて話し合いの場を持った。
「ゆうをわしにくれ」
頼家は無理を通した。
「頼家殿に、このまま仕えるならば、この場で死んでも構わない」
長年、頼朝に忠義を持って支えた盛長が、
これだけは承服することができないと一命を賭して頼家を戒めた。
「安達親子を、今すぐ首をはねよ」
カッとなった頼家が命じた。
「いい加減に目を覚ましなさい」
政子の厳しい叱責が飛んだ。
これは義時が政子しか頼家の暴走を止められないと動いた結果だ。
義時も盛長に対する厳罰は許されないと頼家をたしなめた。
この一件で頼家は御家人たちの信用をそこない始めた。
「結城朝光には、気の毒だが死んでもらおう。その旨、訴状にして鎌倉殿にお示しをする」
梶原景時は思い切った裁断をする必要に迫られた。
景時がこの騒動を契機として頼家に対して不満を持つ御家人を一掃するつもりだと、義時は受け止めた。
景時は鎌倉のあちこちに間者(スパイ)を潜ませて情報を収集している。
このままでは景時に不満を持つ御家人が増える一方だ。
義時は自分が前面に出て、景時と宿老同士で対立するのを避けたいと思った。
義村ならば、御家人たちの不満を景時に伝えることが出来ると考えた。
「御家人の人数を集めて訴状に名を連ねて鎌倉殿に処分を訴え出るのが良い」
義村の答えだった。
「あまり大事にするな。四、五人集めれば良い」と義時は制した。
侍所では大勢の御家人が賛成して名を連ね、全部で六十七名に達したのだ。
義村の行き過ぎた行動に困った義時は。
「大江殿の手元に置いておくように、私からも言っておこう」
大江広元も、穏便に済ませたいとその通りにした。
そこへ熱血感の和田義盛が、すぐに頼家に渡せと脅しをかけた。
頼家のもとに二通の訴状が届いた。
「一つは景時からの結城朝光の謀反を訴える訴状。そして一つは景時に対する訴状」
頼家は朝光には謀反の疑いはないと、訴状を破り、もう一通を手にした。
能員、時政がすかさず景時への断固たる処分をせまった。
「梶原殿は、鎌倉を守りたい一心で動いていたはず」
義時は私欲のないこれまでの尽力を強調した。
景時は反論を一切せずに、頼家との信頼関係に期待して裁定を待った。
「父は御家人をまとめるために、上総広常を斬った。お前をゆるせば、御家人たちが黙ってはいないだろう。梶原景時、役目を解き謹慎を申しつける」
頼家は採決を言い渡した。
「梶原景時は、それほどの男であれば、そばに置いてみよう」
後鳥羽上皇は判断した。
景時が罷免されてひと月後の十一月。
義時は相模の領地で暮らす景時を訪れ元気づけようとした。
「過ちはただ一つ、おのれを過信し過ぎたことだ」
景時は横に置いてあった文を義時に手渡した。
「上皇さまからだ。京へ来いとの仰せ。鎌倉にいても先は見えた。鎌倉殿も御家人も、どちらも操れると思ったが、どちらからも疎まれた」
「捨てる神があれば、拾う神もいるのだ」続けていった。
「行ってはなりませぬ」
義時は語気を強めた。
同じ頃、義村は朝光と密談を重ねている。
「しばらくは姿を隠せ。例のことくれぐれも他言は無用で頼む」
景時を失脚させるために朝光を利用したのは義村だった。
数日後、景時は御所に呼ばれた。
頼家は景時が上皇から文をもらい、その誘いに乗るつもりだと手の内を読んでいた。
「忠臣は二君に仕えず」
「景時、この鎌倉に忠義を誓わぬものはいらぬ。奥州に流罪とする」
「上皇様からのお誘いを鎌倉殿に流したのは、義時、そなたであろう」と景時。
「京へ行けば、朝廷との争いになる」
「鎌倉を守るのが私の役目」
義時は景時にはっきりと伝えた。
「刀は斬り手によって名刀になる。なまくらなままで終わりたくはない」
義時に返す景時の言葉だった
景時は比企のご家人に抵抗せずに、奥州に向かうと告げて義時を見た。
「すぐに兵を整えよ。梶原殿は必ず西へ向かう。京へ。東海道で討ち取る」
義時は天を仰いだ。雪が降り始めていた。
(つづく)
「梶原景時館跡」
相模国一宮(現在の寒川町)を所領とした。
「梶原景時館址」の石碑が建てられている。
石碑の奥にある天満宮は、梶原氏の風雅をたたえ、里人により創建された。
「清見寺」
関所の跡地に残る清見寺。
天井には、この戦いに残る血痕が残る古板が使われたと言われる。
「梶原山」
鎌倉時代の梶原一族ゆかりの山である。
追討軍に追いつめられた。
この戦いで景時はこの山に追われ自害した。
「建長寺」
景時のために梶原施餓鬼会が行われる
景時の真っ直ぐな生き方は、今でも心に残されている。
]]>
鎌倉市には腰越海岸、由比ヶ浜海岸、材木座海岸と3つの海水浴場があります。
コロナ禍の中、鎌倉市は海水浴場の開設を断念して来ました。
昨年は藤沢、逗子葉山と海水浴場を開いたのですが、鎌倉だけは開きませんでした。
今夏の海水浴場の開設にあたり、感染予防策を徹底し、
安全安心な海水浴場の維持に努めると聞いています。
10年前に鎌倉市は、この3つの海水浴場のネーミングライツを公募しました。
その権利を鳩サブレーで有名な豊島屋が獲得し検討の結果、
長年地元で親しまれている名称を、そのまま使用すると決定しました。
契約の期間は2013年から2022年まで。
毎年、ネーミングライツの料金を支払いながら、そのままの名称。
粋な計らいと、地元の皆さんは感心しました。
したがって、今回は「腰越海岸」「由比ヶ浜海岸」「材木座海岸」の順に、
にぎわいの様子をお伝えします。
7月18日は祭日。海の日で3連休の最終日。
朝から天気は上々。
まず家から一番近い「腰越海岸」です。
腰越海水浴場は、鎌倉のもっとも西側にある海水浴場。
自転車の数も多く、近くの方々が海水浴を楽しんでいるとがわかります。
3つの海水浴場の中でも人出の少ない場所です。
どちらかというと地元の皆さんが家族中心で集まってくる浜です。
腰越海岸には大きなAGWAという海の家が一つ。
この海岸で、こんな大きな海の家は、初めて見ます。
現在、もう一軒の海の家が建築中です。
そのほか、湘南地区の10店近い飲食店が、小さな店を出しています。
このほうが、経営効率が良いのかもしれません。
アジアンラーメン、ガーリックシュリンプ、外国ビール、アジアンフード。
数日後に歩いていたら新大久保から出店している「空き缶」というハングル名の
お店でアルバイトしている朴(パク)君から、ブログに是非載せてと。
元気な友人たちがお店に遊びに来ていました。
久しぶりに少しだけ韓国語の会話になりました。
ステージコーナーもある。
少し西へ行くと藤沢市との境界線。
片瀬東浜の海水浴場が続いています。
その西側は江ノ島大橋を挟んで西浜海水浴場になっています。
藤沢市との境目は、このロープでわかります。
ここから先は藤沢市。片瀬東浜海水浴場。
小田急線「片瀬江ノ島駅」に直結しているので海の家も多く、
イベント会場もあり、若いカップル、若い仲間が大勢押し寄せてきます。
藤沢市との境目は、一般の方々には区別が分かりませんね。
観光客には市境は、気になりません。
なので連携が大切なのです。
かつて松尾市長から聞いた言葉だ。
続いて由比ヶ浜海岸。
江ノ電の由比ヶ浜駅からも近く、多くの海水浴客がやってきます。
子供連れよりもカップルや若者同士が目立ちます。
気がつくと年配の外国の方も多く見受けられます。
近隣にお住まいの海外の方でしょう。
他の2つの海岸より異国情緒のする浜辺でもあります。
お店の数も多いと感じました。
滑川にかかる木の橋を渡ると、そこは材木座海岸。
鎌倉駅から徒歩20分近くかかります。
3つの海水浴場の中で一番長い海岸です。
東西1,1km。
海岸全体に海水浴客で埋まっています。
ここは中でも遠浅な浜で穏やかな海岸。
小さなお子様連れの家族も多く、海水浴デビューにも最適な海岸かもしれません。
鎌倉市はライフガードも監視体制がしっかりしていて、
監視所でスタッフに話しかけても、丁寧に対応してくれました。
鎌倉市の海岸はコロナ前で、約70万人になります。
その前は100万人を超える年も多かったようです。
昔、鎌倉の小学校にはプールがなかった。
理由はすぐ前に海があるから、体育の授業は海だったと聞いたことがあります。
材木座海水浴場から街への出入り口も自転車でいっぱいです。
とにかく半日カメラを片手に浜をぶらぶらするよりも、
小型のチェアなどを持参で、半日ほど海でのんびりしたいものです。
以上、鎌倉海岸の散策日記です。
見たまま、聞いたままのレポートですが、
一部は鎌倉市観光協会のHPの情報も含まれています。
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権力継承の時は、あまりにも突然訪れた。
頼朝亡き後の大きな空白。
若き頼家はそれを埋めることができるのか。
(ドラマのプロローグより)
京の御所に、頼朝の訃報が届いた。
四年前に頼朝と嫡男・頼家が謁見した後鳥羽天皇は、既に上皇になっている。
「頼朝の跡目、さぞ重たかろう」
「あなたに渡したいものがあります。これは代々受け継げられるもので、
上に立つものの証なのです」
政子が渡したものは、頼朝が大事にしていた、
文覚が偽物として差し出した、父・源義朝の髑髏だった。
鎌倉殿として頼家が初めて御家人を前に所信を表明する日が来た。
ずらりと揃った御家人を前に、
「私は父・頼朝が成し遂げたこと、また成し遂げることが出来なかったことを引き継ぐ」
「その上で、父を超える」
(*)「父・頼朝」の文字を「故・安倍晋三」に置き換えるとどうなる。
妙な、タイミングですね。
その直後、
「これより鎌倉殿のご判断を仰ぐときは、必ずこの比企能員を通すようにお願い致す」
「待たれよ。その役目はこの北条時政が引き受けた」
頼家が、
「訴えがあれば、わしが直に聞く。わしは比企や北条を特別扱いするつもりはない」
「誰であれ、力のあるものを登用していく」
「お見事でございます。頼朝様は最後まで、御家人を信じていませんでした。わたしを除いては」
景時が部屋を出る頼家にしたがって、言った。
「肝に銘じておこう」
頼家は景時に信頼を寄せ、義時には将来性ある若手の人材選びを託した。
翌二月。京において後鳥羽上皇の後見人・土御門通親の暗殺計画が発覚した。
捉えられたのは公家の一条家。かつて頼朝が娘の大姫を嫁がせようとした一条高能だった。
源氏と関係は見過ごせずに、鎌倉が自ら処罰せよと上皇から命が降った。
義時は捕まったものの中に文覚の名を見つけた。
頼家は文覚との関わりを避けて、その裁きを後鳥羽上皇に一任した。
頼家の提案した若手御家人の勉強会で三善信康が教鞭を取っている。
さらに頼家は若者たちに蹴鞠を習わせた。
宮廷では蹴鞠は遊びではなく、教養として位置付けられている。
鎌倉殿の前には訴状が山積みになっている。
景時が和田義盛に変わって侍所別当になっている。
景時は和田の反論に、頼朝が認めた別当だと主張して引かない。
義時も頼家の力になりたいのだが、黙って見守るか決めかねている。
義時は景時に提案した。
これまで通り四人の文官、三善信康、大江広元、二階堂行政、中原親能が、
訴訟を評議し道筋をつける。
それに景時を加える五人衆という案だ。
「それが良いようだ」
景時は速やかに頼家に報告した。
そして、頼家はすぐさま、この案を受け入れた。
「なぜ、比企が入ってない」
「梶原と比企が入るならば北条も」
と。結果七人衆になった。
比企と北条の力比べとなり、知らぬ間に十二人衆になった。
つまらない内輪揉めになっても困ることに。
これを知った政子は、
「もう一人、加えたいものがいる。十三人目、それはあなただ」
政子は強い眼差しで義時に伝えた。
複雑な駆け引きがあったが、
省略すると、こんな感じで十三人が決まった。
「私は、そんなに頼りないか。私は精一杯やっている。それが気に食わぬか」
「お前は入っていないのだな、義時」
頼家は言いかけた。
義時の顔が翳ったのを見て、
「己の好きな通りやれと申したのは誰だ」
「お父上のことも、そうやってお支えしてきた。頼朝様も最初から鎌倉殿ではなかった」
「鎌倉殿の新しい鎌倉を、みんなで作って行こうではないですか」
義時は言葉を尽くし、御家人への信頼を取り戻そうと努めた。
翌朝、十三人の御家人が勢揃いした。
文官の大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政。
侍所は北条時政、三浦義澄、和田義盛、安達遠元の北条方。
比企能員、安達盛長、八田知家の比企方。
それに梶原景時と北条義時だ。
「父上は最後まで御家人に心を許して居らなかった。私も同じだ。景時、残念だ」
頼家はそう言って、
「紹介しておきたいものがいる、入れ!」
六人の若い御家人たちが次々に現れた。
「わしが選んだ手足となって働いてくれる者たちだ」
「新しい鎌倉を皆で築いて行こうでないか」
頼家は皮肉めいた目で義時を見て、六人の若者たちを引き連れて部屋を出た。
義時は、呆然と頼家を見送った。
(つづく)
神奈川県鎌倉市
勝長寿院
初めて知って訪れた。勝長寿院旧跡の碑。
鎌倉時代に源頼朝が建立した寺院。阿弥陀山勝長寿院と号す。
鶴岡八幡宮、永福寺とともに当時鎌倉の三大寺社の一つ。現在は廃寺となっている。
文覚上人の屋敷跡。
勝長寿院に分けいる小径の一角に、今回話題に出た文覚の住んでいた住居後の碑があった。
頼朝の住居、景時の住居の真ん中あたりだ。
歩いてみないと分からないことだ。新発見。
吾妻鏡
「吾妻鏡」または「東艦」は鎌倉時代に成立した日本の歴史書。
鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第六代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記。
ここでは十三人の名前が書かれている。
永福寺
国指定史跡。読み方は「ようふくじ」。
この史跡跡は源頼朝が建立した寺院の跡です。
この寺院は、頼朝が奥州平泉を攻め、戦いで亡くなった数万の兵の鎮魂のために建てた。
若き頼家は、ここで蹴鞠の祭を開いたそうだ。
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鎌倉に住んで約40年。初めて訪ねる公園だ。
(鎌倉殿の13人が一回放映されないので、この公園散策を体験した)
家の近くの「鎌倉広町緑地」とは趣が違った。
この緑地は二人の息子がボーイスカウトの「鎌倉8団」に参加した時から、
馴染みのある緑地公園だ。
個人的にも子供とターザンごっこをするために何度もきた。
私自身もウォーキングのバリエーションでよく歩く。
周辺コースは一周歩くのに1時間は必要だ。
面積も48ヘクタール。
中央公園の23ヘクタールの2倍の広さだ。
よく使われる「東京ドーム」(4、7Hα)でいうと、
鎌倉広町緑地は東京ドームの10個分。
中央公園は5個分。
なんとなく広さは、お分かりになるでしょう。
さて、その中央公園の散策レポート。
この公園は鎌倉市のほぼ中央に位置する。
だから「中央公園」なのですね。
23,7ヘクタールの風致公園。
風致公園とは、主に風致(自然の風景などの趣、味わい)を、
提供する目的の都市公園。
樹林、湖沼など良好な自然的環境を有する公園のことだ。
谷戸と呼ばれる地形の自然とのふれあいや農作業を体験できるゾーンと、
2つの修景池の周りに庭園植物園を配置したゾーンに分かれてい流。
また、公園管理事務所は緑の相談所になっている。
広域避難場所にもなっている。
入り口は守衛室もあり、バス停もあり、坂を下ると広い駐車場もある。
鎌倉広町緑地とは、少し印象が違う。
しかし谷戸の雰囲気が感じられる。
バス停の奥には「子供公園」があり、数種の遊具が揃っている。
小さな子供は入り口付近で、充分に遊べるようになっている。
坂の下には大きな池が見えてきた。修景池。上池とあることは下池もあるのだろう。
すぐそこに、少し泥水のような下池もあった。
さぁ、一気に奥に進みましょう。
池には鯉や亀たちが餌を求めて集まっていくる。
木道も整っています。
庭園植物園だ。
上から見ると円形の区域にバラ園などがある。
いきなり大きな岩があり「ししいし(獅子石)」がポツンと現れた。
どこを調べてみても説明が見つからない。
獅子の顔のような面があり、そういう名前を付けたのだろう。
少し進むと三角屋根の小屋が見えた。炭焼き小屋だ。
園内の雑木を集めては焼いていたという。
しかし20年前に炭を焼くのをやめたそうだ。
小さな沼があった。
底無し沼のようだ。怖い。
広場が見えた。
野外生活体験広場。子供達がベースボールを楽しんでいる。
横には小屋がありさまざまなポスターが貼ってある。
鎌倉中央公園の生き物。
ニホンカナヘビ
カワセミ
鎌倉メダカ
近くの川では子供達が網で何か獲っている。
みたらドジョウが獲れていた。
この横から山中を歩くことになる。
近くの人に聞いたら、「激しい坂道で道なき道で大変です」と。
登っていったら、近所の広町緑地の周回コースと同じようで拍子抜けした。
なんとなく誰にも会わない山中の散策は、当然無事に踏破?した。
坂道を降りてくると先程の子供たちが、まだドジョウを狙っていた。
帰りがけに網を持った子供が、バッタが獲れたと説明してくれた。
こうして、初めての中央公園の散策は終わった。
鎌倉には、この他に「海浜公園」「源氏山公園」「笛田公園」「散在が池公園」
「六国見山林公園」「夫婦池公園」と「広町緑地」がある。
これからいくつかの公園も紹介して行こう。
気がついたが広町緑地だけが公園と名付けられていない。
それだけ自然に近い環境なのだと再確認した。
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